万葉集その六百五十九 (黄葉の宴)

( 正暦寺    奈良 )
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( 大仏池    同上 )
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( 大湯屋  二月堂参道の途中で  同上 )
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( 吉城園      同上 )
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( 談山神社    同上 )
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( 室生寺     同上 )
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( 長谷寺    同上 )
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( 奈良公園 浮御堂前   同上 )
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万葉集その六百五十九 (黄葉の宴)

秋の野山を美しく彩る「もみぢ」(黄葉:紅葉)。
それは、多くの草木の葉が紅や黄に変わることを意味する言葉であり、
特定の植物をさしているわけではありません。
古くは清音で「モミチ」とよばれ、その語源は秋が深まりゆくと共に、
木々の葉が揉(も)み出されるように染まってゆく、つまり「揉出(モミチ)」の
意とされております。

万葉集で「モミチ」は135余首も詠まれていますが、大半は「黄葉」や
「色づく」「もみつ」などと表記され「紅」「赤」の字が見られるのは
ごく僅かです。
その理由は大和付近の山々は雑木が多く楓類が少なかった、あるいは
黄も赤もすべて「黄」と表記したとも言われていますが定かではなく、
紅葉と表記されるようになったのは赤に対する憧れが強かった平安時代からです。

「 わが衣(ころも) 色どり染めむ   味酒(うまさけ)
     三室(みむろ)の山は  黄葉(もみち)しにけり 」
                      巻7-1094 柿本人麻呂歌集

( あぁ- 素晴らしい! 神様を祭る三輪山はすっかり黄葉しました。 
  私の着物も色とりどり鮮やかに染めたいものです。 )

味酒: 神酒(みわ)として神に供えることから三輪山(三室の山)に掛かる掛詞。
    三輪山(奈良)の神は「酒の神」ともいわれている。

紅葉狩には酒がつきもの。
738年11月中旬、秋も深まりゆく頃のことです。
右大臣、橘諸兄の御曹司、奈良麻呂(17~18歳)は日頃親しくしている女性二人を含む
友人達10名を招き、酒宴を催しました。

「 本日はお忙しい中 お集まりいただき有難うございます。
  色づいてきた山々を愛でながら歌を詠み、久しぶりに
  酒を酌み交わそうでは、ありませんか」と

まずは主人の歓迎の挨拶歌を披露します。

「 手折(たを)らずて 散りなば惜しと 我(あ)が思(も)ひし
    秋の黄葉(もみち)を  かざしつるかも 」 
                               巻8-1581 橘奈良麻呂

( 手折って賞(め)でる前に 散ってしまったら惜しいと私が思っていた黄葉。
 この黄葉をようやくこのようにして、かざすことが出来ました。 )

当時美しい木や花に強い生命力を備えた精霊が宿り、手折って頭や身に付けると
その力を受け継ぐことが出来ると信じられていました。
きらびやかな衣装に黄葉。
さぞ、美しく映えたことでしょう。

「 黄葉(もみちば)を 散らす時雨に濡れてきて
      君が黄葉を かざしつるかも 」 
                   巻8-1583  久米女王(くめのおほきみ)

( 黄葉を散らす時雨の雨に濡れながらやってまいりましたが
 その甲斐あってあなたさまが手折ってきて下さった美しいもみじを
 かざすことが出来ましたわ。)

作者は本日の主賓。
家系は未詳ですが「天智、天武天皇 いずれかの皇子の子孫」と推定され、
奈良麻呂がひそかに好意を抱いていたようです。

「 奈良山の 嶺の黄葉(もみじば) 取れば散る
       時雨の雨し  間なく降るらし 」
                     巻8-1585 犬養吉雄(よしお)

( 奈良山の嶺で手折ってきた黄葉を手に取ればはらはらと散ります。
 これは時雨の雨に濡れたからだが、山では今でも時雨が絶え間なく
 降っているらしい。) 

当時、時雨は黄葉を散らすものと考えられていました。
いずれ散り果ててしまう黄葉。
それなら目前の美しい姿を大いに楽しもうではありませんか。
と行く秋を惜しみ、いとしんでいます。
酒席は大いに盛り上がり、夜になりました。
月の光が木々を美しく照らしています。
やおら大伴家持の弟が立ち上がり、声高らかに詠います。

「 あしひきの 山の黄葉(もみちば) 今夜(こよひ)もか
      浮かび行(ゆ)くらむ 山川の瀬に 」 
                          巻8-1587 大伴書持(ふみもち)

( あしひきの山の黄葉、この黄葉の葉は今夜もはらはらと散って
 山あいの瀬の上を流れていることであろう )

昼間見た見事な奥山の黄葉が、はらはらと散り川に浮かび流れている
様子を想像しています。
一枚また一枚、表を見せ、裏を返しながら散り落ちた色とりどりの葉が
小舟のように流れてゆく。
月の光を浴びてきらきら光りながら静かに、滑るように。
風情があり、感性豊かな一首です。

「 黄葉(もみちば)の 過ぎまく惜しみ 思ふどち
     遊ぶ今夜(こよひ)は 明けずもあらぬか 」 
                            巻8-1591 大伴家持

( 紅葉が散ってゆくのを惜しみながら 気の合うもの同士で飲む酒の美味さよ。
  実に楽しい夜だ。時よ止まれ!)

当時家持は21歳、最年長だったらしく、宴を楽しく盛り上げて
歌会を締めました。

主人を含め11名全員黄葉という言葉を入れて1首づつ。(主人は2首)
若い仲間同士の楽しい歌会。
古代貴族の雅な生活が彷彿される情景です。

    「 彼一語 我一語 秋深みかも 」   高濱虚子



        万葉集659(黄葉の宴 )完



       次回の更新は11月24日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-11-16 11:03 | 生活

万葉集その六百五十八 (難波)

( 難波宮跡  大阪 )
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( 同上  後方 大阪歴史博物館 )
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( 前期難波宮復元模型 中央大極殿  同上 )
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( 大極殿復元図  同上 )
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( 後期難波宮復元模型  前方 朱雀門  同上 )
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( 女官  大阪歴博 )
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( 侍従  同上 )
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( 堂島米市  同上 )
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( 蔵屋敷   同上 )
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( 北海道の珍魚 フサギンボ  海遊館  大阪港前 )
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(  マイワシ群  同上 )
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(  タカアシガニ   同上  )
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万葉集その六百五十八 (難波:なにわ)

古代の難波は摂津国(大阪府北半と兵庫県南東部)の中心部に位置し、なかでも
大阪湾に面する難波津は瀬戸内海を経て大陸に通じる航路の要衝でした。

古くは5世紀に仁徳天皇が難波高津宮、645年孝徳天皇の難波長柄豊崎宮、
744年聖武天皇の難波宮が営まれ、784年桓武天皇の長岡京遷都までの
約140年間、首都,副都として栄えました。

とりわけ、仁徳天皇の時代、淀川と大和川の合流地点で頻繁に起こる氾濫を
防ぐため、水流を大阪湾に落とす大規模な運河(堀江)を造った結果、
大和から九州、大陸を結ぶ道が直結され遣唐使や防人の往来の
拠点となります。

朝廷は、難波津を管理するために屯倉(みやけ)とよばれる役所を構えて、
役人を常駐させ、天皇の行幸も度々行われたようです。
また、都から貴族、官人たちの出張も多く、海がない大和人にとっては
珍しい光景に接するまたとない機会であり、明るく楽しそうな歌が多く残されています。

「 昔こそ 難波田舎と 云われけめ
    今は都引(みやこひ)き 都(みやび)にけり 」 
                        巻3-312 藤原宇合(うまかい)

( 昔は難波田舎と馬鹿にされもしただろう。
 だが今はすっかり都らしくなり、雅やかなことよ )

645年、孝徳天皇の時代に遷都の詔が出され、652年に完成した難波宮は
役所なども整備されましたが、天武天皇の時代になると再び大和に還り、
683年に難波を副都とする詔が出された僅か3年後の686年に火災ですべて
焼失してしまいました。(前期難波宮)
その後、聖武天皇の726年に都城の再建開始、732年に後期難波宮が完成します。

難波宮再建の責任者であった作者は藤原不比等の3男。
有能な人物であったらしく、見事に期待に応えて立派な宮都を造営させ、
きらびやかに立ち並ぶ建物を眺めながら長い間の苦労が報われた喜びを
噛みしめつつ、感慨にふけっています。
なお、藤原宇合は異色の万葉歌人高橋虫麻呂の庇護者として、あるいは
常陸国風土記の編集者とも推定されています。

「 難波潟 潮干に立ちて 見わたせば
      淡路の島に 鶴(たづ)渡る見ゆ 」
                       巻7-1160 作者未詳

( 難波潟 この潮の引いた千潟に立って見渡すと
 淡路の島のかなたに向かって鶴が鳴きわたって行く )

晴れた日に大阪湾から遠望すると淡路島が美しく臨まれたのでしょう。
その中を鶴が飛び去ってゆく、絵画的な風景です。

「 難波潟 潮干(しほひ)に出でて 玉藻刈る
    海人娘子(あまをとめ)ども  汝(な)が名 告(の)らさね 」
                巻9-1726  丹比真人( たぢひの まひと)

( 難波潟 この潮干の潟に出て 玉藻を刈っている海女の娘さん、
 あなたの名前を私に教えてくれませんか )

「 あさりする 人とを見ませ 草枕
        旅行く人に 我が名は告(の)らじ 」
                          巻9-1727 作者未詳

( 私を千潟で獲物を漁る名もない女とでも見ておいてくださいませ。
     行きずりの旅のお方に大切な私の名など、教えられませんわ。)

海に縁がない大和の官人にとって、海辺の海人乙女は異国情緒が漂う憧れの姿。
当時、女性に名前を聞くという行為は、関係を持つことを意味していました。
見も知らない旅のお方に、共寝するなんてとんでもないとはねつけた乙女。
宴席での座興歌だったかも知れません。

「 我が衣 人にな着せそ 網引(あびき)する
      難波壮士(なにわおとこ)の 手には触るとも 」
                  巻4-577  大伴旅人

( 私の大切にしている着物、この着物は、他の人には着せないで下さいよ。
 綱を引く難波男のあなた様が手に触れるのは仕方がありませんが。)

作者が難波に訪れたとき摂津職の長官、高安王の暖かいもてなしを受け
お礼に新しい朝服を贈ったときに添えた1首。
親しい間柄だったのでしょう、長官を難波の漁師に見たてて戯れています。

「人にな着せそ」の「な」-「そ」は禁止を表す言葉で「人」は共寝する女を暗示し、
「寝床の場で着るような代物ではなく、ありあわせのお粗末なもので恐縮ですが」
の意がこもります。

「 津の国の 難波の春は 夢なれや
     蘆(あし)の枯葉に 風わたるなり 」  
                       西行 新古今和歌集

( 明るい光に満ちていた津の国の難波の春、あれは夢だったのであろうか。
 今目に映るものは、蘆の枯葉だけ。
 ただただ、風がさびしく吹き渡っている音がする。)

津の国とは、港の国の意。

都が平安京に遷って以来、難波は政治の中心から外れ、商業、文化都市として
発展してゆきます。
繁栄を誇った難波宮は784年長岡京遷都の時に解体され、
その後埋め立てられたのか後世になると、どの場所にあったか
全く分からなくなってしまいました。

現在、大阪城近くに北接する難波宮遺跡は1871年(明治5年)以降
兵部省(のち陸軍省)の管轄地になり、戦後占領軍に接収。
戦後に解除された後、偶然にも大極殿屋根に使われたと推定される
鴟尾(しび)が発見され、発掘作業がなされた結果、難波宮跡と確認、
現在も作業が続けられています(約89000㎡)。
この発見がなければ恐らく今ごろはビルが立ち並んでいたことでしょう。

この遺跡保存最大の功労者は、元大阪商大教授山根徳太郎氏。
「ここが難波宮跡」と説きつづけても誰からも相手にされず、
幾多の反対、無視をはねのけた氏の確固たる信念と燃えるような
情熱が無ければ、日の目を見ることが出来なかった(直木孝次郎氏)そうです。

また、近くの大阪歴史博物館で発掘された品の数々や、当時の復元模型などが
展示されており、近くの大阪城とあわせ古代から中世をつなぐ
歴史街道となっています。

今や大阪人の「難波」は「なんば」、「なにわ」と呼ぶ人は滅多におりません。

 「 堀返す 難波(なにわ)の宮や 花菫(はなすみれ) 」   阿部月山子


          万葉集658(難波)完


          次回の更新は11月17日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-11-11 19:55 | 万葉の旅

万葉集その六百五十七 (万葉人は鮪がお好き)

( 鮪   築地魚市場 )
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( 鮪の尾鰭  プロはこれを見て品定めする  同上 )
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( 鮪の大切り身  同上 )
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( 大トロ  新富寿し   銀座 )
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(  赤身     同上 )
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( トロ巻き     同上 )
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万葉集その六百五十七 (万葉人は鮪がお好き)

726年10月、聖武天皇が播磨国に行幸されたときのことです。
海が見える場所に急造された仮宮に着き、外を眺めると、
鮪釣り舟が多く集まって漁をしており、砂浜では人々が塩を焼いていました。
民たちが天皇歓迎の大漁祭をしていたのかも知れません。
海が無い大和で育った天皇にとって何よりの催し。
思わず身を乗り出し、見入りながら満足げなご様子です。

ややあって、お供の人が歌を奉り声高らかに詠います。
まずは訳文から。

「  あまねく天下を支配されておられる 我らの大君が
   神として 高々と
   宮殿をお造りになっている 
   印南野の邑美(おふみ)の原の中の 
   広々とした海に面した藤井の浦では
   鮪(シビ)を釣ろうとして 海人の舟がたくさん集まり
   また、浜では塩を焼こうとして 人がいっぱい集まっている

   なるほど、浦が良いので  このように 釣りをするのだ
   浜がよいので  このように 塩を焼くのだ

   さればこそ  わが大君も こうしてたびたび お通いになって 
   ご覧になるのだ
   あぁ、なんと清らかな 眺めの素晴らしい白浜であることよ。 」

                              巻6-938  山部赤人

   ( 当時、鮪(マグロ)は「シビ」とよばれていた。)

訓み下し文

「 やすみしし 我が大君の 
  神(かむ)ながら 高知らせる

  印南野(いなみの)の 邑美(おふみ)の原の
  荒袴(あらたへの)  藤井の浦に

  鮪(しび)釣ると 海人舟騒き
  塩焼くと 人ぞ さはにある

  浦をよみ うべも釣りはす
  浜をよみ  うべも塩焼く

  あり通ひ  見さくもしるし
  清き白浜 」
                   巻6-938 山部赤人
語句解釈

 「やすみしし」   我が大君に掛かる枕詞 
                「八隅知し」「安見知し」で八隅をくまなく治める、
                 安らかに天下を治める の意か。

     「神ながら」     神として(天皇を神とみている)

     「高知らせる」    高々と宮殿(行宮:仮の宮)をお造りになっている

     「印南野の邑美の原」 播磨国(兵庫」明石から加古川のかけての平野
     「藤井の浦」 明石市藤江付近

     「荒栲の」 藤井の枕詞、荒い布の繊維の藤の意

     「人ぞ さはにある」 さは:沢山
     「うべも」 なるほど
     「あり通い」 なんども通い
     「見さくも しるし」   ご覧になるのは当然
                  「見さく」は見るの敬語 「しるし」は著しい
反歌

「 沖つ波  辺波(へなみ)静けみ 漁(いざ)りすと
              藤江の浦に 舟ぞ騒ける 」 
                   巻6-939  山部赤人
( 沖の波も 岸辺の波も 静かなので
      魚を獲ろうとして 藤江の浦に 舟が賑わい、騒いでいる )

当時、播磨灘に面した明石の沖は鮪が沢山獲れ、製塩も盛んだったようです。

ここでは「釣る」とあるので、勇壮な1本釣り。
古代遺跡から、手のひら大の骨製釣り針が古代遺跡から出土していることも
そのことを裏付けています。
また古事記に

「 大きな魚(うお)よ 鮪(しび)突く 海人よ
  その大魚が逃げたら さぞや恋しく悲しかろ
  鮪を突いていろ シビ(人名)さんは 」

との記述があり、銛で突く方法もあったようです。

 「 船傾き 阿吽(あうん)の呼吸で 鮪(まぐろ)釣る 」     楓 巌涛

鮪(まぐろ)の脂身は記憶能力,創造能力を高め、血栓を防ぐ物資が驚くほど
多く含まれていますが、古代人はどのようにして食べていたのでしょうか?

冷蔵能力がなかった時代、考えられるのは塩付けで保存し焼く、いわゆる
鮪のステーキ、あるいは煮る、乾燥させる。
いずれにしても縄文時時代の貝塚から多数の骨が出土しているので、
万葉人の好物だったことは間違いありません。

江戸時代になると、握りずしが考案され鮪が飛躍的に普及しましたが
好まれたのは赤味のみ、脂身のトロは捨てられるか、豚の餌に。
大トロが超高級ネタになったのは戦後の高度成長期以降のことです。

ごく最近の新聞記事で「赤マグロ価格高騰」とありました。
乱獲による資源大幅減が原因のようですが、庶民にとっては何よりのご馳走。
秩序ある漁法で食卓を賑わせてもらいたいものです。

   「 遠つ海の 幸の鮪を 神饌となす 」  黒田 晃世


            万葉集657(万葉人は鮪がお好き)完


   次回の更新は11月12日(日曜日)、通常(金曜日)より遅くなります。

 
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# by uqrx74fd | 2017-11-02 17:17 | 動物

万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)

( オオムギ    奈良万葉植物園 )
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( コムギ     同上 )
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( キビ      市川万葉植物園   千葉)
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( アワ      同上)
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( ヒエ      同上 )
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( 赤花そば  栗橋  埼玉県 久喜市 )
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( 高層ビルの前で堂々たる風格、 老舗砂場の発祥地は大阪  虎の門 東京 )
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      万葉集その六百五十六 (庶民の五穀)

古代の五穀は「 粟(アワ)、稗(ヒエ)、稲、麦、豆 」(日本書紀)とされていますが、
庶民の主食は「 麦、粟(アワ)、黍(稷:キビ)、稗、蕎麦 」。
米や豆は税として朝廷に収められ、大多数の人たちの口に入らなかったのです。

万葉集では蕎麦以外すべて詠われていますが、苦しい農作業にもかかわらず
いずれも楽しいものばかり、まずは麦からです。

大麦の原産地はカピス海から地中海の沿岸、小麦は西アジアとされており
弥生時代には早くも日本に伝わっていたと推定されています。
723年、朝廷は飢饉に備えて麦などの雑穀の栽培を奨励する太政官府を
発布しており、「廣野 卓著  食の万葉集 (中公新書) 」によると

「 オオムギはそのまま粒食し、コムギは主として粉にして、
 餅(団子)や煎餅に加工したので用途が広く、時代と共に多用された」
 そうです。

「 馬柵(うませ)越しに 麦食(は)む 駒の 罵(の)らゆれど
       なほし恋しく 思ひかねつも 」 
                              巻12-3096 作者未詳

( 馬柵越しに麦を食べている馬が怒られているように
     私もあの子の母親から、もう娘に会うなと怒鳴りつけられてしまった。
     でも、やっぱり恋しくて恋しくて--。
     そう簡単に忘れられるものか! )

通い婚の時代、母親は子と同居していたため家庭内の発言力が強く、
結婚や交際は自身の眼鏡にかなった男しか許可しませんでした。
男は女の家の前で呼び出そうと声をかけたら母親が出てきて
怒鳴られたのでしょう。
自分を馬に譬えるとは、なかなかユーモアセンスがある男です。

「 梨 棗(なつめ) 黍(きみ)に 粟(あは)つぎ 延(は)ふ葛の
      後(のち)も逢はむと 葵花(あふひはな)咲く 」
                             巻16-3834  作者未詳

( 梨が生り棗(なつめ)や黍(きび)、さらに粟(あわ)も次々と実り、
 時節が移っているのに、私は一向にあの方に逢えません。
 でも、延び続ける葛の先のように、
  「後々にでも逢うことが出来ますよ」
 と葵(あふひ)の花が咲いています。 )

言葉遊びの戯れ歌。
宴会で梨、棗(なつめ)、黍(きび)、粟(あわ)、葛、葵を詠みこめと
囃されたものと思われます。
これらは、すべて食用とされる植物ばかりで

「 季節を経て果物や作物が次から次へと収穫の日を迎えているのに、
  長い間愛しい人に逢えないでいる。
  でも葛の蔓先が長く這うように、長い日を経た後でも、きっと逢えるよと
  葵(あふひ)の花が咲いています。」

つまり、「あふひ(葵)」を「逢う日」に掛けて見事な恋歌に仕立てたのです。

古代中国で五穀の筆頭に「キビ」を置き、重要視していたことが
「社稷(しゃしょく」という言葉に窺われます。

廣野 卓氏によると

『「社」は「土地」を意味し、「稷」は「キビ」、
従って「社稷を守る」という事は国を維持すること。
これは古代中国の歴史は黄河流域を中心として展開したため、
その地帯は水田耕作よりも畑作に適しており、必然的に陸作のキビが重視された。

  キビにはタンパク質やカルシュウム、鉄、ビタミンB2をふくみ、
最近注目されている食物繊維も多く、必然的にわが国でも多く栽培された 』
                                ( 食の万葉集  中公新書 要約 ) 
なお、上記歌の葵は冬葵(フユアオイ)とされ、若葉は食用、
実は利尿に効ありとされています。

「 左奈都良(さなつら)の 岡の粟蒔き  愛(かな)しきが
    駒は食(た)ぐとも 我(わ)は そとも追(は)じ 」
                                巻14-3451 作者未詳

( ふさふさと実る粟を楽しみに左奈都良の岡に種を蒔いています。
 でもその粟があのお方の馬に食べられようともかまいませんわ。
 いとしいお方の馬ですもの。決して追い払ったりはしません )

左奈都良:常陸説など諸説あるが未詳   
「そ とも追(は)じ」 :「そ」は馬を追う声

可愛い娘が憧れの人を想いながら粟の種蒔きをしている場面です。
房々とした実がなる時節を思い描いているところから恋の成就と豊作を
祈ったのでしょうか。

粟の原産地はインド北部から中央アジア。
ユーラシア大陸で栽培化されたものが中国に伝播したのが紀元前2700年頃で、
我国へは縄文時代に朝鮮を経て入り、稲が伝来するまで主食とされていました。

715年元正天皇は「粟は長年の間人々の生活を支える中心であり、
色々な穀物の中でも最もすぐれたものである。
納税に粟を納めたいというものがおればこれをゆるせ」
と命じています。(続日本紀)

粟は痩せた土地や寒冷地でも良く育ち、澱粉、蛋白質、ビタミンB1,B2を含み、
しかも、保存性がよいので明治40年頃までは20万ヘクタール以上の栽培面積を
誇っていましたが、稲作技術の向上により米の生産量が増えると急速に減少し、
現在では九州と東北地方の一部でわずかに生産されているのみです。

なお、粟には「うるち種」と「もち種」があり、「うるち種」は、
飯に混ぜて炊いたり、粟おこしに、「もち種」は、だんご、粟餅、粟饅頭、
水飴、泡盛(酒)などに使い分けられています。

因みに世界最古の麺は中国青海省 喇家(らつか)遺跡で出土した
「アワ(粟)で作った麺」で今から4000年前のものとか。

「 打つ田に 稗(ひえ)はし あまた ありといへど
    選(え)らえし我ぞ 夜をひとり寝(ぬ)る 」 
                         巻11-2476 作者未詳

( 田んぼに稗はまだたくさん残っているというのに
 よりによって抜き棄てられた俺は、夜な夜な一人寝だわい )

もてない男が「おれは稗より劣る」とひがんでいます。
というのは、稲の間に稗が混じっていると米の味が落ちるので、
抜き棄てられていたのです。
尤も貧農は棄てずに食べていたので、作者はそれなりの余裕がある男だった?

『 ヒエの原産地は東アフリカ、インド説があり、野ビエと水ビエから栽培種に
  改良されたといわれ、現在インドにはヒエを主食とする地方があり、
  粥にしたり、粉を団子にしたり、薄くのばして焼くなどと調理されているが
  万葉時代のヒエ食を推測する参考になる。

主な栄養成分は、ビタミンB1が白米の半量である以外は、ほとんどの
成分が米より1.5~2倍、カルシュウム、鉄の含量が2倍~3倍あるので
調理法を研究すれば日本人に不足しがちな栄養素の補給源として有効な穀物 』
だそうです。  ( 廣野卓 同 要約 )

   「 蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな 」    芭蕉

 蕎麦の花は秋の季語。
「 折角お出でいただいたのに蕎麦はまだ花の状態で何もご馳走ができません。
 蕎麦を打っておもてなししたいところですのに。」
と作者の挨拶句。

蕎麦も古くから栽培されており、約3000年前といわれる縄文晩期の
埼玉県真福寺遺跡や弥生時代の静岡県登呂、韮山山木遺跡からソバの実の
出土例があり、また722年、元正天皇詔に

「 全国の国司に命じて人民に勧め割り当てて、晩稲(おくて) そば、大麦、小麦を
  植えさせその収穫を蓄え、おさめて凶年に備えさせよ」 とあります。

さらに、宮本常一氏は
『 平城宮から出土した木簡(租税の荷札)に「波奈作久」(はなさく)とあり、 
  この「ハナサク」がソバであろう。
  ソバの古名はソバムギだと図鑑は記しているが別名ハナサクと
  いっていたのではないか 』      ( 日本文化の形成 講談社学術文庫 ) 

  と述べておられ、当時そば粉を湯で溶いて「そばがき」のようにして食べて
  いたようです。
  にもかかわらず、万葉集に歌が1首もないのは誠に残念至極。

   「 古を 好む男の 蕎麦湯かな 」      村上鬼城

蕎麦閑話 ( 楠木憲吉 たべもの歳時記 おうふう より)

 蕎麦の「蕎」は「キョウ」と読み「ハヤトグサ」という薬草であり
 「タカトウダイ」(ヒルガオ)の古名。
 ヒルガオに似た葉をもち、麦のような実を付けるので
 「蕎麦」という字が生れた。
 タデ科のソバ属でありながら、麦という名が付いたのは粉にすると
 麦と変わらないところからきたもの。

 蕎麦の字が初めて登場するのは「続日本紀」(元正天皇養老6年:722年7月の条)で
 「蕎麦及大小麦」とある。

 「そばがき」が現在のソバの形状になるのは江戸時代からで
 江戸にはすでに4000件近くの蕎麦屋があった。

 蕎麦屋には「更科」、「藪」、「砂場」の3系列がある。

 「更科」は寛政の初めごろに初代の布屋清右衛門が江戸麻布永坂に
 「信州更科蕎麦処」を始めたのがその起こり。
 「布屋」はその名が示すように、もとは呉服屋で信州更科郡保科出身の
 晒し布の行商人であった。
 元禄期に領主の保科兵部少輔について江戸にのぼり、江戸屋敷の
 麻布十番の長屋に住んでいたが、蕎麦打ちの特技を買われ、領主のすすめで
 「そばや」になったとのこと。
 「更科」という屋号は、故郷の更級郡の「更」と主家、保科の「科」を
 合わせたものである。

 「藪」は本郷団子坂の藪のなかにあった「つたや」のニックネーム「やぶ」から
 きたものとされる。

 「砂場」は、もと大阪のそば屋であった。
 新町遊郭の付近を砂場といい、新町疎開のための砂利置場であったのであろう。
 この砂場一党が江戸へ進出して、最初麹町7丁目に開業し、後に芝魚藍坂に
 移り、現在は三ノ輪にも系類が残っている。
 「本石町砂場」や「芝琴平町砂場」はそこから出たものである。

 俗に「更科は白米の味、藪は七分搗きの味」といわれる。
 つゆも「藪」の方が濃い目だ。

             万葉集656 (庶民の五穀 )完



           次回の更新は11月3日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-10-26 16:48 | 植物

万葉集その六百五十五 (桑の木)

( マグワ  東京都薬用植物園 )
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( ハリグワ   同上 )
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( 桑の花    同上 )
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( 桑の実    同上 )
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( ヤマボウシ:山桑  山辺の道  奈良 )
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( ただいま養蚕中  シルク博物館  横浜 )
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(  桑茶  群馬絹の里産 )
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(  桑の実ジャム  島根産 )
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万葉集その六百五十五 (桑の木)

「 夕焼け小焼けの 赤とんぼ
  負われて見たのは いつの日か

  山の畑の 桑の実を
  小籠に摘んだは まぼろしか 」 
                            ( 赤とんぼ 三木露風 作詞 山田耕作 作曲)

桑はクワ科の落葉樹で樹皮は暗褐色、葉は卵形あるいは心臓の形をしており、
両面に短い毛があります。
4月頃、淡い黄緑色の花を穂状に付けますが、花びらがないので目立ちません。
花後、夏に甘味のある紫黒色の実を結び食用に、茎、根皮は利尿、咳止め、
血圧を下げる薬効があり、葉は養蚕に欠かせない有用の木です。

養蚕盛んなりし頃は全国いたるところで桑畑がみられ、

「 桑海(そうかい)の 涯(はて)に山あり、夕日あり 」   岸 善志

などと詠われていましたが、現在ではあまり見かけなくなっています。

古代、養蚕は重要な生業の1つで、蚕を育てて繭玉を作り、
糸を紡いで衣を織る一連の作業はすべて女性の仕事とされていました。

「 たらちねの 母がその業(な)る 桑すらに
    願へば衣(きぬ)に 着るといふものを 」  
                            巻7-1357 作者未詳

( 母が生業として育てている桑の木でさえも、ひたすらお願いすれば
 着物として着られるというのに。)

どんなに困難なことでも一心に願えば成就するのに
私の恋は実らないと嘆く乙女。

以下は伊藤博氏の解説(万葉集釋注)、当時の女性の養蚕の様子を詳しく記して
おられますので、全文引用させて戴きます。

『 養蚕は女の困難にして重要な生業であった。
  すぐれた桑を育てないと立派な蚕は出来ない。
  幼虫には柔らかい葉を与えねばならず、成虫にはつやつやとした
  張りのある葉を与えねばならない。
  油断していると、蚕を好物としている蟻に食われてしまう。

  無事育て上げた蚕の食欲は旺盛で、深夜にはその歯音の響きが
  さざ波のように聞こえる。

  桑の葉に毒物があると、蚕たちは一朝にして死す。
  今でも、蚕を育てる人は、蚕のことを「お蚕さま」とよんでいる。

  「お蚕さま」は成熟の極みに達すると「おヒキさま」になる。
  躰が少し曲がって透体を呈するのである。
  これを拾って藁の床に寝かせてやると、かれらは糸を吐いて
  二、三日の間に繭となる。

  だがヒキの拾いの時期を誤るとほれぼれする繭は期待できない。
  こうした難行の末にできた絹が貴重であることはいうまでもない。

  桑から繭へ、そして糸から衣へ― それは外目にも神秘な過程である。
  が、当事者にとっては悲願にも似た祈りが常に込められている。

  「 桑すらに願へば衣に着る」という表現は、蚕を育てる母親の緊張を
  よくよく知る者の言葉に違いない。

  その難行を我が恋の苦しさに譬えたところが新鮮である。
  この娘の恋は、当の母親によってさえぎられているのではなかろうか。
  母の願いはその困難な生業に通じるのに、私の願いはどうして母さんに
  通じないのか。
  そのように考えればさらにいっそう生きてくる歌のように思えるが
  いかがであろう。 』

「 見るからに 桑の若芽は やはらかし
        夕日の光 ながれたるかな 」    土田耕平

古代、養蚕に使われていたのは中国渡来のマグワのほか、古くから自生していた
野性のヤマグワ(別名ヤマボウシ)も利用されていた推定されています。

万葉集では「拓:つみ」と詠われ、用途は桑とほぼ同じ。
葉を蚕の飼料にするほか、和紙の原料、織物、黄色の染料、家具材、
薬用(利尿)など多方面に利用されていました。
また、初夏になると小さな白い花を咲かせ、秋には黒紫色の実をつけます。

「 ますらをの 出(い)で立ち向かふ 
  故郷(ふるさと)の 神(かむ)なび山に

  明けくれば 柘(つみ)の さ枝に  
  夕されば 小松が末(うれ)に  」   
                          巻10-1937(一部) 古歌集

( ますらおが家を出て相立ち向かう
  故郷の神々しい山。

  この山に明け方にやって来ると、
  ホトトギスが柘(つみ)の枝に止まって鳴き、
  夕方にには松の枝で鳴く。)

「神なび山」は「神がこもる山」の意で飛鳥のミハ山とされ、
ホトトギスを通して聖なる山を讃えています。

古代、柘(つみ)は菖蒲、桃、蓬(ヨモギ)などと共に邪悪を払う魔除けの植物と
されていたので聖なる意をあらわす「“さ”枝」と詠い、
不老長寿の象徴である松(小松)と対句になっています。

旅先で家恋しい作者は、妻を求めて鳴くホトトギスに
わが身を重ねているのでしょうか。

  「 郷愁や この道ばたの 桑の実に 」   水原秋櫻子



             万葉集655 (桑の木)完

          次回の更新は10月27日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-10-19 17:10 | 植物