万葉集その六百三十四 (雉のほろろ)

(雉のペア 左 雄 右 雌 )
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( 雄は繁殖期になると しきりに羽ばたきして鳴く : 雉のほろろ)
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( 雌は卵を産むと動かず じっと守り続ける )
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( 雉の卵は通常6~12個位 )
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( 巣を狙うカラスを撃退する雄 )
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( 生まれたばかりの雛 )
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( 雉は赤いものを敵とみなす習性があり郵便配達車も襲う。 
 車を止めると配達員の足に噛みつく      NHK放映 )
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万葉集その六百三十四 (雉のほろろ)

1948年国鳥に指定された雉(きじ)は奈良時代「きぎし」とよばれ、
平安時代以降は音の響きがよいのか「きぎす」と詠われることが多くなります。

「きじ」は「きぎし」が短縮されたもので、「きぎ」は鳴き声、
「す」は鳥を表す接尾語とか。(大言海)

春の繁殖期になると、雄は「ケーンケーン」と勇ましく、
雌は「チョン チョン」と可憐、慎ましやかに鳴きます。

雄は闘争心が強く、他の雉が縄張りに入ろうとすると鋭い爪で蹴りあげ、
嘴(くちばし)で喉元を狙って食いちぎろうとして追い払い、我が領域で
複数の雌雉と関係を持つ艶福家でもあります。

一方雌は卵を産むと(通常6~12個)、野火事があっても、外敵が来ても
じっと動かず、覆いかぶさり己を犠牲にして雛を守り続ける母親の鏡です。


「 春の野に あさる雉(きぎし)の 妻恋ひに
    おのがあたりを 人に知れつつ 」  
                       巻8-1446 大伴家持

( 春の野で餌をあさる雉が、妻恋しさにしきりに鳴きたてている。
自分の居所を人に知られてしまい、危険なのになぁ。)

雉の肉は美味、人に知られると捕えられる羽目になるだろうよと
同情している作者。
若き頃の多感な時代に詠われた一首で、前年に父、旅人を亡くし、
雄雉の妻呼ぶ声に春愁を感じているようです。

雉は隠れても頭隠して尻隠さず、しかも「雉も鳴かずば撃たれまい」の
諺の如く、よく鳴くので猟師にとっては見つけやすい獲物でした。

特に、繁殖期になると、しきりに羽ばたきをしながら大きな声で鳴くので
歌や文学の世界では「雉のほろろ」と表現されるようになります。
「ほろろ」とは「ほろほろ」の略です。

のちに「取りつくすべもない」という意味の「けんもほろろ」という言葉が
生れましたが、その由来は不明。
一説によると、「つっけんどん」の「けん」と、雉の鳴き声の「けん」を
掛けたものかとありますが、いささかこじ付けの無理筋か。

「 あしひきの 八つ峰(を)の雉(きぎし) 鳴き響(とよ)む
     朝明(あさけ)の霞 見れば悲しも 」 
                            巻19-4149  大伴家持

( あちらこちらの峰々にいる雉が鳴きたて、夜明けの空に響いてくる。
 それに今朝は一面に霞が棚引いているなぁ。
 雉の鳴き声を聞きながら、この霞を見ていると、やたらと悲しい思いに
 かきたてられることだ。)

眠れぬままに迎えた明け方、折しも激しく鳴きたてる雉の声。
晴れぬ気持ちに覆いかぶせるような霞。
越中に赴任中の作者は都が恋しくなっていたのでしょうか。
あるいは朝廷における大伴家の勢力が衰退しつつある現状に寂しさを感じて
いたのかも知れません。

 「 きぎす鳴く 声もおぼろに聞こゆなり
       霞こめたる 野辺の通い路 」      樋口一葉

最近の雉はゴルフ場にも、街にも出没し人を全く怖がりません。
先日、赤いバイクに乗った郵便配達員が襲われている様子を放映されていましたが
赤色のものは敵とみなす習性があるそうです。
郵便配達中突然、雉が現れ足を食いつかれた人はさぞびっくり仰天した
ことでしょう。

  「 群青の すじひいて 雉 翔(かけ)りけり 」    上村占魚


雉は古来、食肉として珍重され婚礼の祝い膳にも供されていたそうです。
平城京の市でも売られており、「雉」「雉腊(きたい)」と書かれた木簡も
出土しているので人々は「生きた雉」や「干し肉」を市で購入していたことが
窺われます。
中世末には美味三鳥として雉、鶴、雁があげられており、江戸時代には
焼き鳥にされたものが非常に好まれたそうです。

以下はある友人の言です。

『 「焼け野の雉、夜の鶴」 そんな意味からすると、
  焼いてはいけませんなあ-。
  ましてや食うなんて・・・
  ところが人間はそれを「やる」
  美味いもんねぇ。アハハ。 』 

「 焼け野の雉(きぎす) 夜の鶴 」

とは雉は野が火事になっても逃げずに卵を守り、
鶴は羽を広げて子鳥を寒さから守るところから生まれた諺です。


 「 刻々と 雉子(きぎす)歩む ただ青の中 」  中村草田男



      万葉集634(雉のほろろ)完


次回の更新は 6月2日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-05-25 22:33 | 動物

万葉集その六百三十三 (泊瀬の皇子たち)

( 長谷寺本坊大玄関   奈良 )
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( 白牡丹   長谷寺 )
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( 赤牡丹   同上 )
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( 黄牡丹   同上 )
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( 緋牡丹   同上 )
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( 美しき新緑  同上 )
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( 本堂から  同上 )
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( 五重塔遠景   同上 )
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( 本堂遠景    同上 )
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( 日本一美しいといわれる登廊  同上 )
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( 仁王門:山門   同上 )
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万葉集その六百三十三 (泊瀬の皇子たち)

昔々ある日、皇族の子弟達が泊瀬(はつせ)に集まり宴会を催しました。
場所は都人憧れの地、長谷寺(奈良)近辺。
山々に囲まれ、清流が爽やかな音を響かせている風光明媚な川べりで、
獲れたての鮎や新鮮な山菜を肴に、飲めや歌えやの賑やかな宴。
久しぶりの親しい仲間同士の酒席なので話も大いに弾みます。
「あぁ、酒も肴も美味い!」

席も盛り上がってきた頃合いを見計らって、侍(はべ)っていた一人が立ち上がり
「さぁ、さぁ、余興ですよ」と弓削皇子(天智天皇の子)に歌を1首
献上しました。

皇子が恋に悩んでいるという設定です

「 神(かむ)なびの 神依(よ)せ板に する杉の
     思ひも過ぎず 恋の繁きに 」 
                       巻9-1773 柿本人麻呂歌集

 ( 神なびの 神依せの板に用いる杉。
  その「すぎ」の名のように、私は貴女と何としても結ばれたいという想いを
  断ち切る(過ぎる)ことが出来ないのです。
  あぁ、この恋の苦しみよ )

神が宿るとされる「杉(すぎ)」と「思い過(すぎ)る」とを掛けた言葉遊び。

「(思ひ)過ぎる」は即ち「忘れる」、「諦める」。
「二人の間に越えることが出来ない障害があり、あれこれ思い悩んでいます」
と詠っています。

「神なび」: 神の辺(べ)で神のこもるところ、ここでは神聖な三輪山か。
「神よせ板」:神の降臨を仰ぐために叩いて音を立てる板。

それを受けて別の陪席人が舎人皇子(とねりみこ:天武天皇の皇子)に
2首奉ります。
1首目は女性の返事、2首目は恋の結末。
弓削皇子が悩んでいる様子を見て、愛する女が返事を返す。
そしてその結果は? という寸劇風に仕立てあげたのです。

「 たらちねの 母の命(みこと)の 言(こと)にあらば
    年の緒(を)長く  頼め過ぎむや 」 
                          巻9-1774 柿本人麻呂歌集

( 「恋の成就を妨げている」というあなたのお言葉が、
  もし、私のお母様ことであったなら、そのまま何年もずるずると
  結婚を当てにさせたまま放っておくことなどありえましょうか。
  決してそのようなことはいたしません )

「 愛しているのは私も同じ。
二人の仲を隔てているのは母親の反対。
でも、許しさえ得られれば、すぐにでも結婚出来ましょう。
私が必ず母親を説得致してみせます 」 と

固く誓う清純な乙女。

「母の命(みこと)」: 子の結婚に強い発言力を持つ母親を恐れ
畏(かしこ)んで敬称「命(みこと)」をつけたもの

「言にあれば」: 母の許しさえ得られたならば
「頼め過ぎむや」: 気を持たせたままにしておく

そして、懸命の説得が功を奏して、二人の仲がめでたく認められ、
男が喜び勇んで女性の許に通って行きます。

「 泊瀬川 夕渡り来て 我妹子(わぎもこ)が
    家のかな門(と)に 近づきにけり 」 
                      巻9-1775 柿本人麻呂歌集

( 泊瀬川を夕方に渡ってきて、愛しい人の家に近づいてきた
  あぁ、ついに、彼女に逢えるのか。 )


「 かな門(と)」: 道の曲がり角に面している戸口
           「かな」は曲がっているさま。
           扉や柱を金具で止めたり飾ったりしている立派な門。
           女性が上流階級であることを暗示。

この歌について伊藤博氏は次のように解説されています。(万葉集釋注5)

『 人麻呂の歌に多い、訳文を与えることを強く拒否するような歌である。
  一夕の感動は、本文を何度も朗誦して味わうにしくはない。
  そして、一首を孤立して味わっても、男の心の高鳴りは
  充分聞こえて来るけれども、三首一連の物語的構成の中に置いて味わえば、
  なおさら光彩を放つことが知られよう。
  「家のかな門に近づけり」― その向こうに何があるか。
  すべて万人の理解のうちにある。
  歌は余情を限りなく残して、終わるべきところで終わっている。』

この歌が評価されているのは、宴会での即興歌にもかかわらず二人の作者が
ピタリと息を合わせて物語風に仕立てたこと。
1首目で何故悩んでいるのかと周囲に疑問をもたせ、2首目で相思相愛であること
母親の反対が障害となっていること、そして、3首目で
めでたし、めでたしと結ぶ。
特に、結末に余韻を持たせて読者の想像の世界に誘ったことなどでしょうか。

さらに深読みすれば、最初に歌を奉られた弓削皇子は天武系全盛のにあって
唯一の天智系で壬申の乱で敗れた側。
何かにつけて肩身が狭い思いをしていました。

それを承知している心優しい天武系の皇子たちは
「やがて貴方もきっと日の目を見る時が参りますよ」と励まし、
思いやったようにも感じます。

  「 此の寺の ぼたんや 旅の拾い物 」  几董(きとう:江戸時代中期)

五月の長谷寺は全山牡丹で埋め尽くされています。
山門から上を見上げると、そこには日本一美しいといわれている
三百九十九段の登廊(のぼりろう)。
低い石段の左右に約7千株を越すと云われる色とりどりの牡丹が真っ盛り。
赤、黄、ピンク、紫、白、この豪華絢爛にして雄大な牡丹園は
もと薬草園だったらしく、移植されたのは元禄時代からと伝えられています。

余談ながら長谷寺の参道に沿って民家の裏側に流れているのが初瀬川。
今は川幅が狭く見栄えしませんが、昔は滔々と流れる大川であったようです。

人々は川床で洗濯物や野菜を洗い、上流に堰(せき)を作って清流を
生活用水として引き込み、田畑を潤しました。
初瀬川は人々の生活にとって不可欠な存在だったのです。

その川は山々の間の長い谷を縫って流れていたので、やがて
「長谷川」という名前が生まれ、次第に人の苗字になって
全国に広がっていたそうな。

生活に不可欠な水の恵みに対する感謝の念から生まれた「長谷川」。
その苗字のルーツは「泊瀬川にあり」です。

「 凛として 牡丹動かず 真昼中 」 正岡子規



万葉集633 (泊瀬の皇子たち) 完

次回の更新は5月26日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-05-18 18:15 | 生活

万葉集その六百三十二 (つつじ 今盛りなり )

( 藤万葉  東京大学付属 小石川植物園 )
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( 飛鳥川   同上 )
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( 尾引絞    同上 )
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( 白琉球    同上 )
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( ケラマツツジ  絶滅危機種   同上 )
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( ジングウツツジ   絶滅危機種  同上 )
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( サキシマツツジ      同上 )
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( ヤエヤマツツジ     同上 )
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( トウゴクミツバツツジ   同上 )
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( 千重大紫     同上 )
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万葉集その六百三十二 (つつじ 今盛りなり)

 桜が散り爽やかな気候になると、野山を美しく彩る主役は「つつじ」。
早咲きのミツバツツジは3月から既に咲き始めており、4月アカヤシオ、
5月はヤマツツジ、ミヤマキリシマ、オオムラサキ、クルメツツジと
華やかな競演を繰り広げ、6月のサツキで締めくくります。

「つつじ」の語源は次々と咲く「続き咲き」が訛ったもの、あるいは
花が筒状であることから「つつ」と呼ばれ、次第に「つつじ」に
なったとも云われています。

江戸時代、盆栽の流行で多くの品種が生み出されましたが、それらを
すべてひっくるめた総称が「つつじ」。
現在300~350種類もあるといわれる個々の花にすべて名前が
付けられていますが、一目見て言い当てるのは素人には難しいようです。

万葉集では白つつじ(3首)、岩つつじ(2首)、丹つつじ(1首)、「つつじ」(3首)、と
9首詠われていますが、現在の どの「つつじ」に当たるのかは
特定されていません。

ただ、専門家の間では「ヤマツツジ」とする説が多く、
「つつじ花 にほえ娘子(おとめ)」と詠われているイメージには、
大ぶりな紅白の花を幾重にも咲かせる野性のものがふさわしいようです。

次の歌は男と女の掛け合いで、「問答」といわれていますが、
類似の長歌が、「巻13-3309 柿本人麻呂歌集」にあり、作者は人麻呂の歌に
触発されて、寸劇風のものに仕立て直したとも考えられています。

( 人麻呂歌集13-3309については 万葉集遊楽その369 
         「 つつじ花 にほえ乙女 」 をご参照下さい。)

( 問答 男 )

「 物思はず 道行(ゆ)く行くも
  青山を ふりさけ見れば
  つつじ花  にほえ娘子(をとめ)
  桜花  栄え娘子(をとめ)

  汝(な)れをぞも  我れに寄すといふ
  我れをもぞ   汝れに寄すといふ

  荒山も 人し寄すれば
  寄そるとぞ いふ
  汝(な)が心 ゆめ  」   
                      巻13-3305  作者未詳
(訳文)


( 何の物思いもせずに 道を辿りながら
 青々と茂る山を 振り仰いで見ると
 目に入るのは 色美しい つつじ花
 その花のように  においやかな乙女よ
 咲き誇っている 桜花
 その花のように  照り輝く乙女よ

 そんなお前さんを  世間では
 私といい仲だと  噂しているそうだ
 こんな私を お前さんといい仲だと 噂しているそうだ

 荒山だって 人が引き寄せれば 
 寄せられるものという。
 お前さん ゆめゆめ油断するなよ )   13-3305

「物思はず」 : 無心に 

「道行く行くも」:  道を行きながら

「寄す」 :   心を寄せていると人が噂する

「荒山」: びくともしない山

「寄そる」: 動いて寄せられる

「汝が心ゆめ」: 心を引き締めて用心せよ

なお、「匂う」という動詞は今日、嗅覚に関する語として用いられていますが、元々は
内面の奥に隠れているものが何かに触発されて表面に美しく映え出たさまを云いました。

(反歌) 男

「 いかにして 恋やむものぞ 天地の
     神を祈れど  我れや思ひ増す 」 
                         巻13-3306 作者未詳


( どのようにしたら この苦しみは収まるものなのであろうか。
 天地の神々に祈っているけれども、 わたしの思いは
 いよいよつのるばかり。)

「用心しないと、噂通り俺のような荒々しい男といい仲になってしまうぞ。
 始めは何ともなかっても、噂が機縁となって一緒になってしまうことなど
 よくあることだ。 」

と半ば脅かすような口調で口説いていますが、本心は惚れて惚れて
メロメロなのです。

(それに対する女の答え)

「 しかれこそ 年の八年(やとせ)を 
  切り髪の   よち子を過ぎ 
  橘の ほつ枝を過ぎて
  この川の 下にも長く  
  汝が心待て 」  
                   巻13-3307 作者未詳


( だからこそ この私は 長の年月を 
 そう、あの切り髪の年頃を過ごして
 橘の上枝(うわえだ)より 背丈が伸びた今の今まで、
 この川底、 そんな心の奥底まで 長い間
 お前さんの心がこっちに向くのを 待っていたのですよ。
 それなのに、なんという云い草。)

「年の八年」: 長い間

「切り髪」 肩のあたりで切りそろえる少女の髪型

「よち子」 原文「吾同子」 自分と同じ年頃の若い子
 
「ほつ枝」 秀(ほ)つ枝 枝振りがよい 

「過ぎて」  背丈が枝を超え

(反歌)

「 天地の 神をも我は 祈りてき
    恋といふものは かってやまずけり 」  
                            巻13-3308  作者未詳

( 天地の神々にまで 私は私でお祈りいたしました。
 でも 恋と云うものはきっぱりと止みはしませんでしたよ )

 「 かってやまず 」: 少しも止まない

「 何をいまさらこんなことをおっしゃるの。
  私は小さい頃からあんたの気持ちがこちらに向くのを待っていたのだよ。
  あなたの気持ちなどとっくに承知。
  それをご用心なんて、よくも白々しいことを 」

とやり返す女。

お互い相思相愛。めでたし、めでたし。
宴席での掛け合い歌だったのかもしれません。

「 分け行けば 躑躅の花粉 袖にあり 」 高濱虚子

「ツツジ」は漢字で「躑躅」と書き、極めて難解な文字です。
植物の名前に何故動物の「足」編なのか?

その由来は
「 羊この葉を食せば躑躅(てきちょく)として斃(たお)る。 
ゆえに名づく」(和名抄)
からきていると言われております。

躑躅(てきちょく)とは「あがく、あしずりする」という意味で、
「羊がこの花を食べると、あがいて倒れてしまう」
だから皆が有毒だと認識しやすいように躑躅(てきちょく)=躑躅(ツツジ)と
したわけです。

ただ、ツツジはレンゲツツジ以外は無毒なので、当初は同じツツジ科の馬酔木(有毒)に
躑躅があてられ、次第にツツジ類全般を「躑躅」とするようになったとも。

余談ながら、五月は別名を「さつき(皐月)」といいますが、これは
つつじの「さつき」とは無関係です。

皐月(さつき) の「さ」は「神聖」なものと「田」の意があり、
「さ開き」 は「田の植え始め」 「さ上(の)ぼり」は「田植の終わり」。
「さつき」は「田植をする月」 のこととされています。

「 紫の 映山紅(つつじ)となりぬ 夕月夜 」 泉鏡花


「映山紅」と書いて「つつじ」と読む珍しい例。
文字通り山に映える一面の赤。
その美しさに見惚れていると、やがて月が出て
紅色の花が、紫に変わる。
スケールが大きく、鏡花の世界である艶めかしい色気さえ
感じさせるような一首です。


         万葉集631 (つつじ 今盛りなり) 完


    次回の更新は5月19日(金曜日)の予定、(通常に戻ります)
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# by uqrx74fd | 2017-05-08 22:08 | 植物

万葉集その六百三十一 「 美(うま)し 東北 」

( 東大寺大仏  創建時 金色に輝く東北産の金で覆われていた )
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( 安達太良山  福島県 )
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( 多賀城跡 奈良時代最北の国府 宮城県 )
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( 陸奥の国の範囲  10世紀には東北全域に及ぶ  多賀城跡で)
                    
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(  裏磐梯 五色沼  福島県 )
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(  裏磐梯  福島県 )
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(  三春滝桜    福島県 )
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(  復興を祈って旗のぼり  三春 )
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(  護国神社 仙台 )
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( 仙台七夕 )
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( 田沢湖  秋田 )
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( 奥入瀬川   青森 )
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(  ねぶた    同上 )
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万葉集その六百三十一「美(うま)し東北」 

「大震災の発生が東北でよかった」
無神経かつ心無き発言で被災者の方々を傷つけ、多くの国民から顰蹙(ひんしゅく)を
買って即刻罷免になった某大臣。

「東北でよかった」(東北に住んでよかった)
と即座に切返し、美しい四季の風景や特産品の写真と共に
暖かい言葉で支え、勇気づけた19万人超のツイッタ-の投稿。

まさに言葉は心の鏡。
一度口から発せられたものは二度と戻りません。
一言の重みをつくづく感じさせられた出来事でした。

今から1300年前の万葉時代、常陸(茨城)下野(栃木)から北方を
陸奥(みちのく)の国とよんでいました。
今の福島県、山形県内陸部、宮城県一円の地域にあたり、万葉歌に見える
北限に近い場所とされています。

東北に関する歌は多く残されていますが、その中から数々の挿話と共に
語り継がれてきた3首を取り上げてみたいと思います。

まずは、大仏建立に関するものです。
743年聖武天皇は盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造営の詔を発しました。

当時の世相は藤原氏と天皇親政派の間の権力闘争、加えて農村にうち続く疫病と飢饉。
戦乱や相次ぐ遷都による労力の負担による村の荒廃と村人の逃亡、
など混沌としていました。

天皇は社会のあらゆる面で対立が激化する国内の混乱を、
世にも稀なる巨大な大仏を建立することによって抗争するエネルギーを吸収し
人心の統一をはかろうとしたのです。

ところが、大仏が完成に近づいた頃、一大問題が発生しました。
像に塗るべき金(きん)が入手出来ません。

海外からの輸入もやむなしと検討していた矢先の749年、
なんという幸運! 陸奥の国から金が産出したとの報告があり、
陸奥国守、百済王敬福(くだらの こにしき きょうふく)が
管内の小田郡から産した黄金を献上。

今まで国内で産出しなかった金が採掘できたのは百済系渡来人の技術が
発揮されたものと思われ、その知識や技術を持つ人材を陸奥に派遣していた
用意周到な人事が功を奏したものと思われます。 

天皇は狂喜され、産金は神仏が大仏の造立を祝って表出してくれたものと受け止め、
そのことを寿ぐ長大な詔を発せられました。

その詔の中で大伴家は累代天皇によく尽くしたと称えられ、
感激した大伴家持が感謝の意を捧げて下記の歌を詠みます。

「 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あずま)なる
   陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く 」
                            巻18-4097 大伴家持 

( 天皇の御代が栄えるしるしと、東の国の陸奥山に黄金の花が咲きました。)

今日、巨大な大仏を仰ぎ見る時、古の東北の人々が苦労を重ねて金を探し求め
天皇に献じた有難さをしみじみと思い浮かべます。
奈良の大仏は永遠に東北と共にあり、その慈悲ある目ざなしで
復興早からんことを見守り続けられることでしょう。
なお、金産出場所は現在の宮城県遠田郡とされ「黄金山産金遺跡」として
遺されています。

「 安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の
     浅き心を 我が思はなくに 」 
                          巻16-3807  前采女(さきのうねめ)

( 安積山の姿さえくっきりと映し出している清らかな山の井、
 あの水は浅いですが、私はあのような浅はかな気持ちで、
 あなた様をお慕いしているのではありません。
 本気であなたさまを想っているのですよ )

「安積香山」 :福島県郡山市日和田の郊外にある小さな丘

「影さへ見ゆる」: 山の影までくっきりと映っている清らかな浅い水

「山の井」 : 人工の井戸ではなく、山から自然に湧き出た水を堰き止めて
         飲料水にしているところ

「浅き心を」: 浅くは

「我が思はなくに」: 私はあなたを想ってはいないのに
             浅く思っていない→ 深く想っている

「 安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の 」までが
「浅き心を 我が思はなくに 」を引き出すための序詞です。

この歌の前に註があり

「 云い伝えによると、葛城王(後の左大臣 橘諸兄とみられる)が若き頃 
 陸奥国に派遣された時、国司の接待が極めていい加減だったので
 王は怒りの表情を顔に浮かべ飲食の饗応もまったく楽しげではなかった。

 その宴席に、以前天皇に近侍していた采女がいた。
 立ち居振る舞い風流(みやび)やかな美女である。
 客人のご機嫌ななめと見て取ると、おもむろ立ち上がり、
 左手に酒杯、右手に水瓶を持って、王の膝をたたきながら拍子をとり、
 この歌を詠んだ。
 すると王の気持ちはすっかり和らぎ、始終楽しく飲んで過ごした。」

この歌は元々安積香山近くに住んでいた男女の間で交わされていた恋歌で、
一種の民謡であったと推定されていますが、古今和歌集の仮名序で高く称賛され、

「 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
                   今や春べと さくやこの花 」

の歌と共に、貴族の子女の手習いの材料とされて一躍有名になったものです。

この歌が評価されたのは、
自然の風景をとりいれ人を和ませる機知と風流、適度の色気、
調べよく覚えやすい、ことなどでしょうか。
賢明な葛城王も酒席での野暮を即座に悟ったようです。

「 安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも
   我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね 」 
                           巻14-3428 作者未詳

( 安達太良山の鹿や猪はいつも決まった寝床に帰って休むと言います。
 私もお前のところへ通い続けるから、
 いつでも共寝できるように待っていてくれよね。 )

この歌の解釈には色々な説がありますが、
佐々木幸綱氏は「二人の間に何かトラブルでもあって、
女が“もう通ってこないで!”などとすねてしまった。
そんな場面を思い浮かべればこの歌の意味が理解しやすい」
と解説されています。(万葉集東歌)

もともとは山野で働く人達の作業歌だったのでしょうか。

「 格子戸に 山百合かをる  智恵子の間 」 金子智代 

         ( 智恵子の生家、長沼家は二本松市の旧奥州街道に面した酒造家)

安達太良山が不朽の名になったのは、高村光太郎の「知恵子抄」。

「 あれが 阿多多羅山 (あたたらやま)
  あの光るのが 阿武隈川 (あぶくまがわ)
  かうやって 言葉すくなに座ってゐると
  うっとり ねむるやうな頭の中に
  ただ遠い世の  松風ばかりが 
  薄みどりに吹き渡ります 」

                   高村光太郎 智恵子抄 (樹下の二人より)

「 智恵子は東京に空が無いといふ。
 阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 
 智恵子の ほんとの空だといふ」 
                     ( 智恵子抄 あどけない話より)

人々は「智恵子のほんとの空」を見たくて車窓から安達太良山を眺め、
    山に登ります。
    安達太良山の頂上は、つんと突起しており「乳首山」ともよばれていますが、
    二本松方面からみた山容はいくつもの山が連なった連峰で、
    どの頂が安達太良山の頂上か分りにくく、万葉人が見た安達太良山は
    恐らく連峰全体をさしているのでしょう。

   「 安達太良は 北の雄嶺ぞ 帰る雁 」   篠田 悌二郎




         万葉集630 「 美(うま)し 東北 」 完


         次回の更新は 5月9日(火)の予定。
          ( 通常より早くなります )
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# by uqrx74fd | 2017-05-02 19:33 | 万葉の旅

万葉集その六百三十 (曲水の宴)

( 城南宮 平安時代 都の守護神 曲水の宴が今でも開催されている 京都伏見区 )
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( 曲水の宴  城南宮 )
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( 同上 )
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( 曲水の宴図  吉田元陳作  城南宮収蔵 )
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(  羽觴:うしょう 鴛鴦の形をした酒杯の受皿  作歌が終わった人が取り上げ盃を戴く) 
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( 曲水の宴図  京都御所 )
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(  東院庭園  平城宮跡隣り  奈良 )
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( 同上 )
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( 桃と鯉のぼり  万葉ゆかりの古河 茨城県 )
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(  桃の花  同上 )
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万葉集その六百三十 (曲水の宴)

「曲水の宴」とは宮中で催された中国伝来の行事で、庭園の曲がりくねった小川の両側に
貴族たちが座り、上流から流れてくる酒杯が自分の前を通り過ぎないうちに
詩歌を詠んだのち、おもむろに酒杯を取り上げて飲むという優雅な宴です。

時期は旧暦の3月初旬、現在の4月の中頃でしょうか。
桜や桃、椿の花が咲く華やかな季節です。

「 今日(けふ)のため と思ひて標(しめ)し あしひきの
      峰の上の桜 かく咲きにけり 」 
                       巻19-4151 大伴家持

( 今日の宴のためにと思って私が特に押さえておいた山の峰の桜、
 その桜はこんなに見事に咲きました。)

「 奥山の 八つ峰(を)の椿 つばらかに
    今日(けふ)は暮さね ますらをの伴(とも) 」 
                          巻19-4152 大伴家持

( 奥山のあちらこちらの峰に咲く椿、
 その名のように、つばらかに心ゆくまで
 今日1日、ゆっくりお過ごしください。
 お集まりの ますらおの皆様たち。)

      「つばらかに」: ゆったりとした気持ちで

「 漢人(からひと)も 筏(いかだ)浮かべて 遊ぶといふ
      今日(けふ)ぞ 我が背子  花かづらせな 」 
                            巻19-4153 大伴家持

( 唐の国の人も、筏を浮かべて遊ぶという今日のこの日。
 さぁ、皆さん、花蘰(はなかずら)をかざして、
 楽しく遊ぼうではありませんか )

   「花蘰」: 花で編んだ髪飾り

古代中國では陰暦3月最初の巳の日を上巳(じょうし)といい
格別な吉日とされて曲水の宴が行われていました。
この行事が後に、3月3日に固定されて我国に伝えられたと云われています。

我国文献での記録は古く、日本書記 顕宗(けんぞう)天皇元年(485)
「 3月の上巳に後苑にて曲水の宴をきこしめす 」とあります。

ただ、家持が詠った3首の歌は、いわゆる正式な曲水の宴ではなく、
越中国守の館で山桜、椿を眺めながら官吏と共にした宴会でのもの。
というのは、曲水の宴を催すには広大かつ凝った造りの庭園が必要なので、
場所は宮中か大貴族の庭園にかぎられ、一介の地方国守ではなしえない
行事だったからです。

風流貴族の家持は3月3日に歌を詠むという習慣だけを採りいれたようですが、
他に例がなく、上記3首は和歌史上初の記念すべき歌群とされています。

また、747年、大伴家持の歌友、大伴池主も同じく「晩春3日遊覧」と題する
漢詩を作り3月3日の佳き日に、桃の花の紅と柳の緑が美しいことと、
水辺に出て酒を酌み交わす光景を述べています。

以下は訳文です。(漢詩は省略)

「 春の終わりの佳き日は 賞美するによく
  3月3日のさわやかな風景は、遊覧するに値する。
  川に沿って柳の道が続き、人々の色とりどりの晴れ着が美しい。
  桃咲く里は流れが海に通じており、仙人が舟を浮かべている。

  雲雷模様の酒樽で香り高い佳酒を酌めば
  澄酒がなみなみと湛えられ、
  鳥形の盃は人々に詩詠をうながして,幾曲りもしている水に流れる。

  私はほしいままに気持ち良く酔い 陶然としてすべてを忘れ、
  酩酊してところ構わず 座り込むばかりである。」
    
さて、宮中で行われた曲水の宴の歌は、我国最初の漢詩集「懐風藻」に
3編残されており、下記はそのうちの1つです。

三月三日 曲水の宴 

「 錦巌(きんがん) 飛瀑(ひばく)激し
  春岫(しゆんしゅう) 曄桃(えふとう)開く
  流水の急なるを 憚(はばか)らず
  ただ盞(さん)の 遅く来ることを 恨む 」   山田 三方 懐風藻より

                    (春)岫(しゅう) :(春の)峰 
                    曄桃(えふとう): 輝き照っている桃
                    盞(さん):盃

( 錦の彩りをした巌から 滝が激しく流れ落ち
  春にかすむ峰には  桃があでやかに咲いている
  曲水の流れの急なことは 別にいとわないが
  盃の廻ってくるのが 遅いのが残念だ )

我国では民間で古くから流し雛といって木片などで作った人形(ひとがた)に
穢れや災いを託して水辺に流すという禊ぎの風習があり、のち宮中で
6月,12月の末、大祓(おおはらえ)といわれる大規模な行事になります。

このような下地があったので、酒杯を川に浮かべて流すという行事が
中国からもたらされてもごく自然に我国でも受け入れられたのでしょう。

現在、平城京宮跡の近くに当時の庭園(東院庭園)が再現されています。
春日山、御蓋山を借景にし、古代王侯貴族の優雅な生活を彷彿させるような
たたずまいです。
また、京都の城南宮、上賀茂神社、福岡の太宰府天満宮でも毎年、
古式豊かな曲水の宴が催されており、多くの観光客を楽しませてくれています。

※ 京都城南宮の曲水の宴 4月29日、11月3日 年2回開催

  「 曲水の 流れゆるやか 花筏 」       川戸狐舟


            万葉集630 (曲水の宴) 完



           次回の更新は5月5日(金) の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-04-27 15:18 | 生活