万葉集その六百五十一 (露草、月草)

( 露草 奈良法華寺で)
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( 露草とエノコログサ 同上 )
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( アカバナツユクサ  小石川植物園 )
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( オオボウシバナ 露草の変種   同上 )
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(  同上 )
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万葉集その六百五十一 ( 露草、月草)

  「 露草の 群生が わが目を奪う 」  高濱年尾

秋の早朝、野山を歩くと朝日を浴びた草木に置く露が
ダイヤモンドのようにキラキラ光っている。
その陰にひっそりと隠れるように咲いている一群の青い花。
近づいてよく見ると、帽子のような形をした露草です。
徳富蘇峰は「色に出た露の精」、新井白石は「月の光を浴びて咲く花」と讃え
俳人は
「 露草の 瑠璃の露落ち 瑠璃残り 」    吉岡 秋帆影

と詠いました。

露草の上に置く露は、瑠璃色の影を映して輝く。
やがて、露は滴り落ちるが花は依然として青い妖精。
美しい小宇宙の世界です。

然しながら花の命は短く、早朝に咲き夕方には萎(しぼ)む一日花。
その儚さが好まれたのか、古来多くの恋歌に詠われており、
万葉集にも9首登場します。

「 朝(あした)咲き 夕べは消(け)ぬる 月草の
      消ぬべき恋も 我(あ)れはするかも 」 
                           巻10-2291 作者未詳

( 朝に咲いては夕方に萎んでしまう露草。
 私の恋も切なくて、切なくて。
 身も心も消え果ててしまいそうな気持ちです。)

万葉集での露草は「つきくさ」とよばれています。
染料に用いるため臼で搗(つ)いて染めた、あるいは色が付き易いので
その名があるとされていますが、原文表示が「月草」となっているものが多く、
万葉人は、やはり夜の暗いうちに月の光をあびて咲くと感じていたのでしょうか。

「 うちひさす 宮にはあれど 月草の
     うつろふ心   我が思はなくに 」 
                   巻12-3058 作者未詳

( はなやかな宮廷に仕えている我が身。
 でも色の褪(さ)めやすい露草のような移り気な心、
 そんな気持ちであなた様を想っているのではありませんよ。)

露草は色が褪せやすいので、移ろいやすい恋に譬えて詠われています。

作者は宮廷に仕え、美しくも華やかな存在。
云い寄る男が多かったのでしょう。

「お前さん、他の男に気持ちが傾いているのか」と詰問する男。
「決してそんなことはありません。好きなのは あなただけ」と応える女。

「うちひさす」: 宮に掛かる枕詞 掛かり方、語義未詳なるも、
          日=太陽=天皇の連想から宮に掛かるようになったとも。

「 月草の 仮(か)れる命に ある人を
    いかに知りてか  後に逢はむと言ふ 」 
                      巻11-2756 作者未詳

( 月草のように儚い仮の命しか持ち合わせていないのに、
 それを、一体どういう身だとと思って、後にでも逢おうというのですか。)

この世の人間は仮の身しか持ち合わせていない儚い存在。
それをあなたは後々に逢いましょうとおっしゃる。
何故今すぐに逢おう、一緒になりましょうと云ってくれないのですか。

作者は女性に「またね」と婉曲に断られたのでしょう。
必死になって口説くが、脈なしか。

月草という名は江戸時代になると露草に変わります。
露を置いた姿が美しい、あるいは露が多く発生する時期に咲くことに
由来すると云われ、現在は秋の季語です。

友禅染めの下絵描きに用いられている露草の変種オオボウシバナは
その褪せやすい性質を利用したもので、上絵を描き終わった後、水で流すと
きれいに融け落ちる貴重な染料です。
夏の土用の頃の早朝に花を集め、手で絞って濃い藍色の汁を採り、
強い日ざしのもとで、和紙に刷毛で何回も塗り重ねて乾燥させ青花紙を作る。
下絵を描く時は短冊状に切って小皿にのせ、絵具のように水を含ませた
筆で溶く。
今日これに変わる染料は他にないと言われていますが、絶滅危機種です。

「 露草を 面影にして 恋ふるかな」   高濱虚子


ご参考

    京都新聞(2017,8,29)の記事から

「 友禅下絵「青花紙」、存亡の危機 
        滋賀、高齢化で生産者減 」

 友禅染の下絵描きに使われる滋賀県草津市特産の「青花紙」が、
高齢化による生産者の減少に直面している。
今年は2軒だけが紙を作っていたが、うち1人は今年限りでの引退を検討。
「紙を作る技術を伝えていきたい」と後継者を求めている。

アオバナから取れる染料は色が鮮やかで水に溶けやすいことから
友禅染に活用されてきた。
青花紙は、搾った汁を和紙に塗って天日で乾かす工程を約80回繰り返して作る。
使うときには小さく切って水に浸し、染料を溶かし出す。

 かつて青花紙は地域の名産として知られ、最盛期の大正時代には
500軒以上が生産していたとされる。
しかし、アオバナの花が咲く7~8月の炎天下で花びらを
一つずつ手作業で摘み取るため、地元では「地獄花」と呼ばれた過酷な作業や、
化学染料が普及したことで、近年は数軒だけが手掛けていた。

 生産者の1人、中村繁男さん(88)=同市上笠1丁目=は10歳のころから親の手伝いで花摘みを始め、70年近く作っていた。
最近は体調がすぐれず、重労働をこなすことが難しくなったため、
今夏、関係者に引退の意思を伝えた。
関係者は慰留しており、中村さんは後継者がいれば技術を伝えたいとしている。

中村さんは「アオバナは全国でも草津にしかない大事な花。
紙を作りたいという人がいれば、技を引き継ぎたい」と話している。
アオバナを使った特産品づくりなどを進める草津あおばな会
(事務局・草津市農林水産課)も今春、青花紙保存部会を立ち上げており、
「継承の方法を検討していきたい」としている。

   
            万葉集651(露草 月草) 完


      次回の更新は9月29日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-09-19 20:02 | 植物

万葉集その六百五十 (天平の紫)

( 紫草の花は白くて小さい   奈良万葉植物園)
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( 紫草の根は赤い   同上 )
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( 根を臼で搗いて砕く   西川康行  万葉植物の技と心  求龍堂より )
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(  紫根の染液に浸された絹     吉岡幸雄  NHK放映 )
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(  色々な紫色に染め分けられた絹    同上 )
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( 国宝 紫紙金字金光明最勝王経  和紙を顔料のような紫で染めた上に書かれた金文字
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( 再現された天平の伎楽の紫衣装   東大寺  吉岡幸雄作 )
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万葉集その六百五十 (天平の紫)

万葉人の憧れの色、「紫」は紫草の根から生まれます。
天平時代の人々が高度な染色技術を駆使して芸術品ともいえる織物を
作り上げていたことは、現存する数々の正倉院宝物に見ることが出来ますが、
驚くなかれ、万葉集にその染色の方法や、材料が詠い込まれているのです。

紫を詠った歌は17首、そのうち13首は作者未詳の庶民。
当時、紫草は上流階級の衣服を染める貴重な染料とされ、全国各地から税として
貢納されており、庶民の歌は、その作業の過程で詠われたのでしょう。

「 紫草(むらさき)は 根をかも終ふる 人の子の
    うら愛(がな)しけを  寝を終へなくに 」 
                           巻14-3500 作者未詳

( 紫草は根が途切れる(終える)ことがあるのかなぁ。
 この俺はあの子が可愛くてならないのに、
 まだ、一緒に寝るのを終えていないんだよ。)

「根を終ふ」「寝を終ふ」の語呂合わせ。
「人の子」は親に厳しく躾けられている子の意。

紫草の根はゴボウのように地中深く伸び、横にも大きく広がります。
作者は紫草の栽培する仕事に携わっていたのでしょう。
深く根をおろし、地中に長く続いていることを理解している歌です。

「 韓人(からひと)の 衣染(そ)むとふ 紫の
    心に染みて 思ほゆるかも 」 
                  巻4-569 麻田連陽春(あさだの むらじ やす)

( かの国の人が衣を染めるという 紫の色が染みつくように
 紫の衣を召されたお姿が、私の心に染みついて、あなたさまのことばかり
 思われてなりません。)

730年、大宰府帥であった大伴旅人は大納言に任ぜられ、都に向けて
旅立ちました。
この歌はそれに先立って催された送別の宴で詠われたもので、
旅人は紫の衣で正装していたものと思われます。

「韓人の衣染む」は優れた染色技術を伝えた渡来人の意。

紫根の染織を始めた当初、恐らく色も薄く、定着も悪かったのでしょう。
この歌は、渡来人が先進技術をもたらしたことを示しています。

「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の
    八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる子や誰(た)れ 」
                            巻12-3101 作者未詳

( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
  その椿の名がある海石榴市で出会ったお嬢さん。
  あなたの名前はなんとおっしゃるの? )

海石榴市(奈良県桜井市)には椿の木が多く植えられていました。
この歌は椿の生木を燃やした灰を灰汁(あく)にして、媒染剤として使用し
鮮やかな紫色を生み出していたことを示すものです。
この技術の確立により、紫の染色は画期的な進歩を遂げることになります。

「 託馬野(つくまの)に 生ふる紫草(むらさき) 衣(きぬ)に染(し)め
     いまだ着ずして 色に出(い)でにけり 」 
                                  巻3-395 笠郎女

( 託馬野に生い茂る紫草、その草で着物を染めました。
 出来上がった着物をまだ着ていないのに、もう人に知られてしまいましたわ )

作者が大伴家持に贈った歌で、託馬野(つくまの)は滋賀県米原市あたりの野。
                                
「託(つく)」には「色がよく付く」が掛けられています。                           
「紫草」は家持、「衣」は自分自身を暗示しており
「まだ契りを結んでいないのにあなたを思い慕っている事が
世間の評判になってしまった」の意がこもります。


「 紫の 名高の浦の 真砂地(まなごつち)
     袖のみ触れて 寝ずかなりなむ 」 
                       巻7-1392 作者未詳

( 名高の浦の細かい砂地、あの砂地には袖が触れただけで、
  寝ころぶことも なくなってしまうのであろうか )

真砂(まなご)の原文は同音の愛子(まなご)。
細かい砂と可愛い子の両方を掛け、その子に対する淡い思いを述べています。
また、「袖のみ触れる」は言葉だけを交わす仲。
共寝までは許さない女への男の嘆きです。

「名高の浦」は和歌山県海南市の海岸
「紫」は名高の浦の枕詞で、高貴の色とされて名高い紫の意。

603年、聖徳太子は「氏」とよばれる諸豪族の血縁集団が、地位、職業に応じて
姓(かばね)という尊称を世襲的に与えられていたのを改め、個人の功績に応じて
冠位を付与すること、いわゆる「冠位十二階の制」を定めました。

位階の冠の色は紫、青、赤、黄、白、黒とし、紫が最上位。
また服装もそれに準じ、以降、紫はやんごとなき人の色となり
平安時代以降も続きます。

我国で高僧に紫袈裟が下賜されたのは735年(天平7)。
聖武天皇が興福寺に住していた玄昉(げんぼう)に与えたのが最初とされています。

紫法衣は1141年(永治元年)
鳥羽上皇から青蓮院行玄に。
宗教の世界にも紫の権威が持ち込まれたのです。

その後、後鳥羽上皇は、曹洞宗、道元に紫衣を下賜しようとしましたが、
再三にわたり辞退、遂に勅命となり已む無く拝受するも、生涯その紫衣を
着ることがなかったとか。
名誉、地位に執着しない宗教家としての矜持を示したものといえましょう。

天平の紫は染色の第一人者、吉岡幸雄氏によって古代紫や深紫色再現の
試みがなされていますが、綾1疋(布帛2反)を染めるのに、
紫草根18㎏、酢2升必要とされ、さらにその作業工程は極めて手間がかかり
しかも触媒剤の椿の灰汁の加減によって色が千変万化するそうです。

古人の工程を簡単に列記すると

紫草の根を地中から掘り出し切断。
石臼で細かく砕く。
70~80度の湯を注ぎ、手で色素を揉みだす。
出来た染料を、目の細かいふるいで漉し不純物を取り除く。
染料液に絹の布を浸して染める。
椿の生木を燃やした灰を灰汁にして媒染し色を固定した後、水洗い。

この工程を30分ずつ、交互に繰り返し、
4~5日続けると濃い紫になる。

なお、椿の灰汁(アルカリ性)を加えると青系の紫
酢(酸性)に浸すと赤系の紫になるそうです。

手間も大変ですが消費される紫根も膨大なものとなり、しかも高価。
とうとう、紫の衣は禁色となり王侯貴族しか着ることが出来ないものになりました。

現在、正倉院に聖武天皇の遺品「金光明最勝王経帙(ちつ)」。
( 帙(ちつ)とは写経した経典を10巻ほどまとめて束ねるように包むもの
 細竹を芯として、紫草の根で染められた絹糸で編む。)

奈良国立博物館に
「紫紙金字金光明最勝王経」( ししこんじ こんこうみょう さいしょうおうきょう)
( 紫根で染めた紫の和紙の上に金泥で文字が書かれたもの )

など豪華絢爛な国宝が展示されており、天平の華やかな紫を
偲ばせてくれております。

「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
      野守は見ずや 君が袖振る 」 
                            巻1-20  額田王

   標野:皇族、貴族の狩猟地で立入禁止区域、紫草の栽培もされていた。

   「 白き花 地中深き赤根より
            紫の妹  にほひ出づる 」    筆者


        万葉集その650(天平の紫) 完

   次回の更新は9月20日(火) いつもより早くなります。
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# by uqrx74fd | 2017-09-14 17:46 | 植物

万葉集その六百四十九 (綿の花)

( 綿の花  奈良万葉植物園)
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(  同上 )
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( 綿の実   同上 )
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( 生花の綿 北鎌倉 去来庵  当店のビーフシチューは絶品です )
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万葉集その六百四十九 (綿の花)

綿は東インド、エジプトを原産地とするアオイ科の1年生草本で、草丈60㎝~1m。
茎は直立、まばらに枝分かれして、秋に浅黄色の5弁の美しい花を咲かせます。
花後、球形の果実を結び、やがて3つに割れて白い綿毛をもった種子を
宿しますが寒気に弱く、渡来当時は栽培に苦労したようです。

人々はこの綿毛を紡いで織物の材料や、布団、衣類の中入りなどに利用し、
実から絞った油を食用、石鹸の材料にしました。

「 しらぬい 筑紫の綿は 身に付けて
    いまだ着ねど 暖けく見ゆ 」  
                     巻3-336 沙彌満誓(さみ まんぜい)

( 筑紫産の綿はまだ肌身に着けてきたことはありませんが、
 いかにも暖かそうで見事なものです )

この歌は宴席でのもので皆が奈良の都への望郷の思いを詠っている時に
「筑紫も捨てたものではないですよ」と詠ったようです。
一説によると作者は筑紫の女性と懇ろになり、既に子も産ませていたので
「筑紫の綿」は女性の肌を暗示して、「まだ着たことがないと」白々しく
とぼけたところ、周知の皆はどっと笑ったという解釈もなされています。

古代の綿は殆ど絹から加工した真綿とされていますが九州は早くから
大陸文化がもたらされており朝鮮半島経由で到来した綿花が栽培されて
いたのではないかと思われ、それを裏付ける文献として、
「続日本紀」平城京、称徳天皇の769年の記述に
「 筑紫から毎年大量に綿花や綿織物が都に送られた」とあり、
又、千葉県で奈良時代の遺跡から立派な綿の種子が発見されていることによります。

「 山高み 白木綿花(しらゆふばな)に 落ちたぎつ
     滝の河内(かふち)のは 見れど飽かぬかも 」 
                            巻6-909  笠 金村

( 山が高いので、白く清い木綿花となってほとばしり落ちる滝、
 この滝の渦巻く河内は見ても見ても見飽きることがない。)

「 泊瀬女(はつせめ)の 作る木綿花(ゆふばな) み吉野の
        滝の水沫(みなわ)に 咲きにけらずや 」
                           巻6-912  笠 金村

( 泊瀬女が作る木綿花、あの神聖な花が、今、み吉野の滝の水沫となって
 咲いているではありませんか。)

上記2首は723年 元正天皇吉野行幸の折の賛歌の一部です。

『 白木綿花(しらきゆうばな)は綿の実が裂けて中から真っ白な綿毛が
  種子を包んでパッとはじけ出しているさま。
 「泊瀬女が造る」は「泊瀬女が耕作する」 (豊田八十代 万葉学者) 』

ことであり、当時九州以外の土地でも綿の栽培が行われていたことを
窺わせています。

「 伎倍人(きへひと)の まだら衾(ぶすま)に 綿さはだ
      入りなましもの  妹が小床(をどこ)に 」 
                          巻14-3354 作者未詳

(  伎倍人(きへひと)の まだら模様の布団に綿がたっぷり。
   そうだ、そうだ あの子の床の中にどっぷりともぐりこみたいものだ。)

伎倍人(きへひと) : 渡来した機織り職人 遠州(浜松)あたりに住んでいたらしい

まだら衾:    まだらに染めた掛布団

綿さはだ: 綿が沢山入っている

入りなましも: 入ることができたらいいのに

ここでの綿は絹の真綿か。

綿に関する公式文献は、
『 「日本後紀」桓武天皇平安京時代799年7月
  崑崙(こんろん)人( 南ベトナムからインドネシア)が三河国(愛知県)に
  漂着した折、綿の種子を所持していたので、時の政府が丁重に譲り受け、
  直ちに日本各地で試験的に栽培させた』
とされています。

従来、この記録をもって綿の到来は平安時代からとの説が多かったのですが、
政府がこのような敏速な対応が出来たのは、奈良時代に既に綿栽培の経験があり、
何らかの失敗で種子が失われていたこと、更に前述の「続日本紀」の記述、
並びに豊田八十代、西川康行氏らの万葉植物学者の熱心な研究により
奈良時代には綿が既に栽培されていたことが認められつつあります。

万葉時代、貴重品であった綿は次第に普及し

   「 広々と 続く平原 綿の花 」 高濱虚子

と詠われているように各地で栽培されていましたが、今はほとんど
見かけなくなってしまいました。

   「 朝露は 雨の兆しと 綿摘まず 」  斎木涛花



                  万葉集649 (綿の花)完

               次回の更新は9月15日(金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-09-07 16:30 | 植物

万葉集その六百四十八 (四季の歌)

( 春  桜の花びらの中で咲くスミレ )
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( 夏  海   銚子 )
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( 夏  恋の花  ササユリ )
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( 秋  フジバカマ )
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( 秋  カワラナデシコ )
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( 冬  鶴の親子  学友M.I さん提供 )
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( 尾形光琳 群鶴図屏風のCG 東京国立博物館 )
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万葉集その六百四十八 (四季の歌)

1972年(昭和47年)、「四季の歌」(荒木とよひさ 作詞 作曲)が
芹 洋子さんのレコード発売に伴って大流行し、歌声喫茶、コンサ-トなど、
到るところで歌われました。
現在60~70歳位の人にとって懐かしいメロディーと歌詞です。
今回は四季の歌とそれに合う万葉歌のコラボを試みたいと思います。

「 春を愛する人は 心清き人
  すみれの 花のような 
  僕の友だち  」  
                   ( 四季の歌 1番 荒木とよひさ 作詞 作曲 )

万葉歌は何と言ってもこの歌です。

 「 春の野に すみれ摘みにと 来し我れぞ
       野をなつかしみ 一夜寝にける 」 
                           巻8-1424 山部赤人

( すみれ摘みにやってきたけれどなんと春の景色の美しいこと
  つい見とれているうちにとうとう一夜をあかしてしまいましたよ )

  山部赤人は心清き人だったのでしょう。
 「 春の野にすみれを摘みにやってきた。
  摘んでいるうちにすみれが綺麗なぁ、可愛いいなぁと夢中になり
  ふと気が付いてみたら日が暮れてしまっていたが、なお立ち去りがたく
  とうとう一晩すみれのもとで過ごしてしまった」というのです。

  「野をなつかしみ」というのは「見惚れてあまりそこから離れたくない」の意

「 夏を愛する人は 心強き人
  岩を砕く 波のような
  僕の父親 」        (四季の歌 2番)

岩を砕く波は

「 大海(おほうみ)の 磯もと揺(ゆす)り立つ波の
         寄せむと思へる  浜の清けく 」        
                           万葉集 巻7-1239 作者未詳

( 大海源の岩礁を揺さぶるように、あたって砕ける波が
 打ち寄せようとしている浜辺のなんと清らかなことか )

さて、「僕の父親」ですが、万葉集での父母は約90首。
通い婚の為、母親が家庭を仕切っていたので母父という表記や母のみの歌が多く、
父親単独のものはほとんどありません。

次の歌は駿河国の若者が防人として九州に赴任する途中、
優しい両親を懐かしんで詠ったものです。

「 父母が 頭(かしら)掻き撫で 幸くあれて
            云ひし言葉(けとば)ぜ 忘れかねつる 」 
                    巻20-4346 丈部 稲麻呂( はせつかべの いなまろ)

( 父さん、母さんが俺の頭をなでながら、
  「 気を付けて行くんだよ。達者でな。」 
  と云ってくれた言葉が何時までも忘れられないよ。)

当時、大伴家持が難波で防人の指揮を執っており、その際収録したものです。

 「 秋を愛する人は 心深き人
   愛を語る ハイネのような
   僕の恋人 」  
                           ( 四季の歌 3番 )

ハイネの愛の詩は多くありますが、下記の歌は可愛いですね。

「 おまえの瞳をみていると
  なやみも痛みも消えてゆく

  おまえの口にキスすると
  けろりと元気になれるのだ

  おまえの胸によりそうと
  天国へでもいったよう

  あなた好きよ といわれると
  もう泣かずにゃあ いられない 」 
                    ( ハイネ おまえの瞳を 井上正蔵訳) 

さて万葉歌は恋の達人、大伴坂上郎女の登場です
 
「 恋ひ恋ひて 逢へる時だに うるはしき
     言(こと)尽くしてよ 長くと思はば 」 
                          巻4-661 大伴坂上郎女

( なかなか逢えぬあたたゆえ
  せめて逢う夜は 夜もすがら
  愛の言葉を浴びたいの
  二人の仲が いつまでも
  続けと あなたも思うなら )      永井路子訳 


「 冬を愛する人は 心広き人
  根雪をとかす 大地のような
  僕の母親    」 
                     ( 四季の歌4番)

母親の情愛を詠った万葉歌は何と言ってもこの歌です。

「 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば
     我(あ)が子 羽(は)ぐくめ 天(あめ)の鶴群(たずむら) 」
                      巻9-1791 遣唐使随員の母

( 旅の途中あの子の宿りするところに霜が降ったら、
    どうか空飛ぶ鶴の群れよ、私の息子をその暖かい羽で包んでやっておくれ) 

733年、多治比広成(たじひのひろなり)を大使とする遣唐使一行の船が難波を出港。
渡唐の船はしばしば難破し確実な生還は期しがたいものでした。
船にはこの歌の作者の最愛の一人息子が乗っていました。
母は神に供物を捧げ大切な息子の無事を心を込めて祈ったのです。

古代、大和から難波への一帯は湿原地になっており、多くの鶴が棲息していました。
万葉人たちは旅の行き来に鶴が子供を可愛がる情景を幾度も見ていたのでしょう。
当時は船旅でも陸に上がり野宿をするのが習い。
母親は一人息子が寒い野を行く場面を想像し、鶴が子をいつくしみ、
抱きかかえるように「我が子羽ぐくめ」と空行く鶴群(たずむら)に手を合わせて
頼んだ母親の慈愛あふれる歌です。

伊藤博氏は次のような温かい解説をされています。

「 母親としてまた女としてなしうる神祭りに精魂を傾けることで子の幸を
  祈るだけでは足らず、天の鶴群に呼びかけて鎮護を願っているところが痛ましい。

  <我が子 羽ぐくめ 天の鶴群> には我が身を鶴になして常に子の周辺に
  いたいという母親の身の切るような愛情がにじみ出ている。
  こういう歌を読むと子は母親にとって永遠の胎児であり
  分化を許さないその心情は解説の言葉を寄せ付けないことを痛感せざるを得ない」 
                       (万葉集釋註五より) 

   「 春夏秋冬愛して 僕らは生きている
               太陽の光浴びて 明日の世界へ 」     四季の歌5番



           万葉集648(四季の歌) 完

           次回の更新は9月8日 (金)の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-09-01 00:00 | 自然

万葉集その六百四十七 (空蝉:うつせみ)

( ただ今羽化中   孫の観察記録より )
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( ようやく終わり疲れました 羽が美しい  同上 )
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( しばらく経つと アブラゼミ本来の姿に  同上 )
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( ヒグラシ )
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万葉集その六百四十七 (空蝉:うつせみ)

「うつせみ」とは、もともと「現(うつ)し臣」(古事記) が「現(うつ)そ身」となり、
さらに「現せ身」に転じたもので、万葉時代には生きている人間、あるいは人の世、
現世の意に用いられています。

万葉集に46例、「空蝉」「虚蝉」などと表記されていますが、
平安時代にみられる魂の抜けた状態、儚いという意味合いでの使用例は
少ないようです。

「 うつせみの 人目を繁(しげ)み 石橋の
       間近き君に 恋ひわたるかも 」 
                              巻4-597 作者未詳

( 世間の人目が多いので、それを憚って、飛び石の間ほどの近くにおられる
 あなたさまに、逢う事も出来ず、ただただお慕いし続けている私 。)

ここでの「うつせみ」は「人」の枕詞。
現世という原義が響いており、世間の意。
石橋は石の飛び石。間隔が短いので、間近に掛かる枕詞として用いられています。

「 燈火(ともしび)の 影にかがよふ うつせみの
    妹が笑(ゑ)まひし 面影に見ゆ 」 
                       巻11-2642 作者未詳

( 燈火の火影に揺れ輝いている、生き生きしたあの子の笑顔。
 その顔がちらちらと目の前に浮かんでくるよ。)

燈火の中にいる女性の浮き立つような印象を与える秀歌。
これから女の許へ行こうとしているのか、思わずにこりと笑う男の顔が
目に浮かぶような1首。

かがよふ: ちらちらと揺れて輝く

「 うつせみは 数なき身なり 山川の
   さやけきを見つつ 道を尋ねな 」 
                          巻20-4468 大伴家持

( 生きてこの世にある人間というものは、いくばくのない儚い命を持つ身なのだ。
 山川の澄みきった地に入り込んで悟りの道を辿って行きたいものだ。)

756年5月、聖武天皇崩御、後ろ盾を失った作者は一族に心を引き締めるよう
諭す歌をつくり、その後体調を崩したのか「病に臥して無常を悲しみ道を修めたい」
と思って作った歌とあります。

ここで仏教的無常観が登場し、平安時代になると盛んに詠われます。

「 うつせみの 世にも似たるか 花咲くと
      見し間にかつ 散りにけり 」 
                            古今和歌集  これたか の みこ

( このはかない世に似ているなぁ。桜の花は。
 咲くと見た瞬間、その一方でもう散っているよ )

僧正遍照に贈った歌とあり、「うつせみの世は儚いと」いう表現が
定着してゆきます。

次の歌は光源氏が人妻である空蝉の寝室に忍び込もうとしたら、
それを察した彼女は薄い衣を残して去っていた。
その薄衣を持ち帰った源氏が懐紙に綴ったものです。

「 空蝉の 身をかへてける 木のもとに
     なほ人がらの  なつかしきかな 」            光源氏

( 抜け殻を残した人よ 身の内の人柄をこそ抱きたかったのに )

ここでの空蝉は、蝉の抜け殻のことで、彼女の残した薄衣をそれに例えました。

「 あなたは蝉が姿を変えるように、抜け殻を残して私の前から去ってしまった。
  その木の下で、私はなお、あなたの人柄を懐かしく思っていることだよ。
  私はあなたの容貌や、身分や人妻という立場やそんなほかの条件に
  惹かれたのではないのです。
  - とことん謙虚で、ひかえめで、奥ゆかしいそんな人柄に魅力を感じたのですよ。」

                              ( 俵 万智 愛する源氏物語 文芸春秋社)

「 うつせみの 鳴く音(ね)やよそに もりの露
     ほしあへぬ袖を 人の問ふまで 」   
                               寂連法師 新古今和歌集

( 森で蝉が鳴くように、ままならぬ恋に泣く私の声が よそに洩れたのであろうか。
 涙の露を干しきれない袖を どうしたのかと人が問うまでに )

うつせみ:蝉
もり:森と漏るを掛ける

うつせみ=蝉とした珍しい例です。
寂しげな声を出すヒグラシでしょうか。

「 いつしかも 日がしずみゆき うつせみの
              われも おのづから きはまるらしも 」 
                             斎藤茂吉最後の歌(昭和27年) つきかげ

万葉集に造詣が深い作者。
「うつせみ」は先祖帰りして「現世」に。


   「 空蝉の すがれる庵の はしらかな 」 川端茅舎


              万葉集647(空蝉:うつせみ) 完


              次回の更新は9月1日の予定です。
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# by uqrx74fd | 2017-08-24 16:10 | 心象