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万葉集その百九十二(百人一首の「これやこの」)


「百人一首」の選者については古来諸説ありますが、藤原定家が子息為家の岳父、
宇都宮頼綱から「京都嵯峨別荘の襖飾りに古今の名歌百首選定を」との依頼を受け
自ら書いて贈ったというのが今日では定説となっているようです。

当初は「百人秀歌」とよばれ、のちに2~3の加除がなされて現在に至り、百人の中には
万葉時代の天智、持統天皇、柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持などの名が見られます。

「 これやこの行くも帰るも別れては
           知るも知らぬも逢坂の関 」    蝉丸     
                 
                                                      
( これがまぁ、これから旅立つ人も帰る人も、知っている人も知らない人も、
ここで出会っては、また別れるというその名も高い逢坂の関なのだなぁ。)

近江と山城の国境に設けられた逢坂の関は、京都から東海、東山、北陸への諸国に
いたる重要な関所で不破(美濃)、鈴鹿(伊勢)とともに三関といわれていました。

「逢う」という名の通り、人々が右往左往している様子がいかにも忙しげに浮かび、
また「逢うは別れのはじめ」という人生の縮図を思わせる有名な歌ですが、
以下の万葉歌との関連も指摘されております。

「 これやこの大和にしては我(あ)が恋ふる
     紀伊道(きじ)にありといふ名に負ふ背の山 」 


巻1-35 阿閉皇女 (あへのひめみこ:後の元明天皇30歳頃の歌)

( これがまぁ世に名高い紀伊の背の山ですか。大和で常々一度は目にしたいと
願っていましたがようやく念願がかないましたよ)

背の山は大和五条から紀伊の国に通じる南海道、笠田の西方にあり日本書紀によると
この山が畿内の南限とされていました。

紀ノ川をはさんで北側に背の山(168m)、南側に妹の山(124m)がいかにも仲良く並び、
そのロマンチックな名前と風景は旅行く人たちの旅情を誘ったものと思われます。
特に作者は前年夫、草壁皇子に先立たれているだけに追慕の念も一入だったことでしょう。

「 桜花 咲きかも散ると見るまでに
     誰(た)れかもここに 見えて散りゆく 」 巻12-3129 柿本人麻呂歌集


( 櫻の花が咲いてはすぐ散るかと思われるほどに、多くの様々な人々が
ここに現れては、すぐ散り散りに別れてゆくのだなぁ。)

「 蝉丸は離合集散をのみ詠うが万葉人はそのさまを落花のごとしと観じていた。
洛中洛外図をみるような春色駘蕩とした風景。(中西進) 」

「 いずことも知らぬ往来の激しい地に離合集散する旅人たちの映像を結ばせて
深い旅愁をそこはかとなく漂わせるに成功しているように思われる。
百人一首の著名な蝉丸の歌の先駆をなすものといってよい。(伊藤博) 」

かくして蝉丸は万葉歌の「これはこの」、「誰かもここに見えて散りゆく」という
言葉と心を合体させ、流れるような調べの洗練された歌に生まれ変わらせたのです。

「これやこの行くも帰るも土手の内 」   ( 川柳 柳多留 ) 

江戸時代の遊里、吉原に通う男たちが行き来する賑やかな情景です。

by uqrx74fd | 2009-03-08 12:52 | 生活

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