万葉集その百八十六(対馬)

我国固有の領土である対馬。その歴史は古く、上県町で発掘された越高遺跡の
出土品から縄文時代には既に人が生活していたと推定されております。

古墳時代には、地元の豪族、県直(あがたのあたい)が支配していましたが、
奈良時代に律令制度が施行されると朝廷から国司が派遣されました。

ところが857年、国司が県一族に殺害されるという事件が起き、
誅された県氏に代わり阿比留(あびる)氏が在庁官人として派遣され
そのまま土着します。さらに中世になると
宗氏が地頭代(守護代とも)として実権を握り、近代に至るまで時の政権に協力しました。

歴代の政権もまた古くからの文化、技術、資源などの要衝である対馬を重んじ遇します。
万葉集には新羅国に遣わされた使人達や防人などが対馬を詠んだ歌が数多く残され、
当時の様子を生き生きと語ってくれております。

 「 黄葉(もみちば)の 散らふ山辺(やまへ)ゆ 漕ぐ船の
     にほひにめでて出(い)でて来にけり 」 
                       巻15-3704 対馬娘子 玉槻 


( ここ対馬の竹敷(たかしき)の山々は紅葉が鮮やかに照り映えています。
  紅葉がはらはらと散りしきる中、美しい船がゆっくりと入港いたしました。
  ようこそおいでなされませ。お迎えに参上いたしました玉槻でございます。)

736年遣新羅使が竹敷港に寄航した折、地元の遊行女婦が一行を歓迎した歌です。
その手馴れた様子はそれまでに多くの船が立ち寄っていたことを窺わせます。
対馬は山が多く風光明媚の上、海はリアス海岸のため海水が深く湾入し絶好の
停泊地とされていました。

「 百船(ももふね)の泊(は)つる対馬の浅茅山
  しぐれの雨にもみたひにけり 」 巻15-3697 遣新羅使


( 多くの船が停泊するという賑やかな対馬の港。
背後の浅茅山は、時雨に促されて赤く色づいてきましたね。実に美しい。)

浅茅山は対馬の真ん中あたりの大山嶽といわれています。
旅行者は土地を褒め、航海の無事を祈るのが当時の習いでした。

新羅使はまず国府の所在地である厳原(いずはら)立ち寄り、上席の官人は陸路で
竹敷へ行き、使人たちは船を大きく迂回させて竹敷港で合流していたようです。

「 対馬の嶺(ね)は下雲あらなふ 神の嶺に
    たなびく雲を見つつ偲はも 」 巻14-3516  防人


( 対馬の山々は低いので、本土の高山のような大地から沸き立ち上がる雲が
  ないそうだよ。
  現地へ行ったら、かの国にたなびく雲を見ながら、故郷の神の嶺の雲を
  思い出しお前を思い偲ぶとしょう。お前も雲を見ながら俺を思い出してくれよな。 )

これから防人として旅立つ夫婦が共に故郷の足柄山の雲を眺めながらの会話。
夫は現地の様子を対馬から帰還した防人から聞いたものと思われます。

663年大和朝廷は白村江の海戦で新羅、唐の連合軍に大敗し、半島における地歩を
失います。そのため、新羅や唐の侵攻に備えて筑紫、壱岐、対馬に防人や烽火台を
配置し、水城を設けるなど国防体制を強化しました。
そして、有事の時は直ちに烽火を上げ壱岐経由で大宰府に急を知らせる手はずを整えます。

対馬は1274年に元寇に蹂躙されるという過酷な運命を経て14~16世紀は
倭寇の本拠地となり、豊臣秀吉時代は朝鮮出兵の先導役、徳川鎖国時代は
朝鮮釜山に倭館を置き数百人の対馬人を常駐させて第2の出島の役割を、
明治維新前夜の文久元年(1861)にはロシア軍艦ポサシニカ号に植民地化を図られるも
英国の強硬な抗議を得て難を逃れ、日本海海戦には軍港としての役割を果たすなど数奇な
運命を辿ってきました。

そして今また、これらを上回る苦難に遭遇しながら、国防の第一線を担い続けている
重要な拠点であります。

「 対馬とは山また山よ時鳥 」     岡田日郎
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by uqrx74fd | 2009-03-08 12:46 | 生活

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