万葉集その百八十二(遊行女婦)

「遊行女婦」は「ウカレメ」あるいは「アソビメ」と訓み慣わされております。
「アソブ(遊ぶ)」とは元々「 鎮魂、招魂のために歌と舞を演じる儀礼のこと」とされ
祭祀に関わりがあった言葉だそうです。

「遊行女婦」はそうした儀礼の延長線から生まれたものといわれ、
「招かれれば出掛けて行って遊ぶ女」の字義通り、天皇や貴族たちの宴席で舞い、
古歌を披露しながら座を取り持ち、貴賓に伍して歌を詠みました。

730年、大宰府長官大伴旅人は都への栄転が決まり帰還の途につきます。
大勢の見送りの人々を従えた旅人は水城の堤で馬を止め、
「あぁ、もうこれで見納めか」と懐かしげに大宰府の方を振り返りました。

ふと見渡すと過ぎにし日に愛をかわした遊行女婦、児島が目にとまります。
悲しみを必死になって堪えている児島。ついに堪えきれなくなり詠いました。

「 おほならば かもかもせむを 畏(かしこ)みと
    振りたき袖を忍びてあるかも 」 巻6-965  児島


( あなた様が普通のお方ならば別れを惜しんであれもこれもといたしましょうに
 畏れ多き身分のお方なのでこのようにお別れのしるしの袖を振りたくても
 じっと我慢して耐え忍んでおります )

「 大和道(じ)は 雲隠(くもがく)りたり しかれども
    我が振る袖を 無礼(なめ)しと思(も)ふな 」 巻6-966 児島


( とは云うもののあなた様がはるか遠い雲の彼方と思われる大和に
  お帰りになると思うと、もう二度とお会いできないという気持がこみ上げ、
  ついに堪えきれず袖を振ってしまいました。
  どうか無礼な仕業とお思い下さいますな )

旅人も落涙を禁じえず、大勢の人の前で次の歌を返します。

「 ますらをと思へる我や水茎の
      水城(みづき)の上に涙拭(のご)はむ 」 
                        巻6-968 大伴旅人


( それにしても堂々たる男丈夫と自他共に自認しているこの私なのに
  涙が溢れて止まらないとは一体どうしたことだろう。
  この水城での辛い別れのことだ。 )

旅人の人柄が偲ばれる一首です。
それにつけても大宰府長官と対等にわたりあって堂々と
歌のやり取りをしている児島。
彼女は一体どのようにしてそのような高い教養を身に付けたのでしょうか?

遊行女婦が遊女とよばれるようになったのは平安時代からと
いわれていますが

「 小町は さも いにしへの遊女にて 」 (謡曲 卒塔婆小町) や
「 一条の院の御時、和泉式部と申してやさしき遊女あり」 (お伽草子)


などの記述があり我々が想像する遊女とは些かニユーアンスが違うようです。
柳田國男氏は「大島では遊女のことをゾレといい、その名称は時によって
やや広い意味に用いられている。
“心定まらずして幾度か男を替える”という評を受けることを
“ゾレ名が立つ”とも云っている。

和泉式部の遊女には驚いたが御伽草子が出来た時分の我国の遊女も
やはり大島のゾレ位のものであったろう。」と指摘されています。

(「遊行女婦のこと」より要約抜粋  角川文庫 「木綿以前のこと」所収)

従って、遊女という言葉は巫女的なものから白拍子、多情な女、遊里の女、
果ては生活のために已む無く春をひさぐ女など広範囲な使い方されていたようです。

次の句も「白拍子を連想するのが最も適切であろう」とされています。

                   ( 「芭蕉の恋句」  東 明雅著 岩波新書 ) 

「 面白の遊女の秋の夜すがらや 」  芭蕉 

                              註:「夜すがら」 は 夜通し
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by uqrx74fd | 2009-03-08 12:42 | 生活

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