万葉集その百二十八(信濃路)

 木曾路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり
あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる
谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」
                  島崎藤村 (夜明け前 より)


713年大和朝廷は12年間の難工事を重ねて吉蘇路(木曾路)を開通させました。
この道は美濃から信濃への岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村を結ぶ
東山道のこととされています。

「 信濃路は 今の墾(は)り道 刈りばねに
    足踏ましなむ 沓(くつ)履(は)け我が背 」
                     巻14-3399 作者未詳


( 信濃への道はつい最近出来たばかりの新道です。
木の切り株で足を踏み抜かないように気をつけて- -
そうそう、取って置きの丈夫な靴を履いていってね )

「踏ましなむ」:尊敬語で「お踏み抜きなさいますな」の意
当時は裸足で歩くこともあり藁や布、あるいは木で作った靴を履いていたようです。
わざわざ念押ししているところをみると皮製の靴だったかもしれません。

都へ品物を運ぶ農民あるいは防人の妻が夫を優しくいたわっている歌と思われますが、
後には民謡風に多くの人たちに歌われたようです。

「 奈良朝という律令国家は全国を公田にしてそこからあがってくる米その他を都に
  運ばせるために道路を必要とした。木曾路の開鑿は人民の難儀を軽減する目的より
  むしろ租税の運搬を便利にするためであった 」 
 
       司馬遼太郎 街道をゆく(信州佐久平みち 千曲川点景より)


木曾地方は木材の宝庫で、ヒノキ、サワラ、アスヒ(アスナロ)、コウヤマキ、
ネズコ(黒ヒノキ)を木曾の五木といいます。

その利用価値に目をつけたのは平安時代の藤原道長といわれていますが、その後
豊臣秀吉が自身の直轄地とし、さらに徳川幕府、明治政府へと引き継がれていきました。

特に徳川時代に管理を任された尾張藩の厳格な五木伐採禁止政策は森林以外に
生産物をもたない土地の住民にとって大きな負担となっていたようで

「昔はこの木曾山の木一本伐ると首一つなかったものだぞ」と「夜明け前」にも
書かれております。

    「 そば時や月のしなのの善光寺 」    小林一茶
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by uqrx74fd | 2009-03-08 11:47 | 生活

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