万葉集その四十(芹:春の七草)

万葉時代「春の七草」はまだ定まっていませんでした。
南北朝時代に四辻善成が「河海抄」で七種の草を選んだのが最初で、
その後歌道師範家として名高い冷泉家に次のような歌が伝えられました。

「 せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ 
すずな すずしろ 春の七草 」


日本人は大の野菜好きでありますが日本原産の野菜は極めて少なく、
芹、水菜、蔓菜(つるな) 蕗(ふき) 韮 茗荷 独活(うど) 三つ葉 
山芋 位しかなく、それもほとんど葉菜です。

菜とは「草の茎 葉根の食べられるものの総称」とされています。
数ある若菜の中でもとりわけ芹は我国栽培史上最も古く、
栄養価の高い野菜の一つで今日なお、ほとんど改良の手が
加えられていない昔のままの姿を持つ数少ない貴重な植物です。

万葉人は冬枯れの野菜不足の時期に雪間を分けて
萌えだしたばかりの野草を摘み集め栄養補給に励みました。

729年、葛城王(かつらぎのおおきみ)、後の左大臣橘諸兄は山背国
(やましろの国、現在の京都府南部)の班田使に任命されました。

班田使とは班田収受法に基づいて公民に田畑を与え租税を
徴収する超多忙の仕事です。

彼は忙しいながらも暇をみて心憎からず想っていた女官に
芹を摘んで歌と共に贈ります。

「 あかねさす 昼は田賜(たた)びて ぬばたまの
夜のいとまに 摘める芹 これ 」  
                   巻20の4455 葛城王


( 昼間は役所の仕事で大変忙しかったのだよ。
  それでも夜に何とか暇を見つけてやっと摘んできた芹ですぞ。これは! )

  「あかねさす」「ぬばたま」 :枕詞
  「昼は田賜びて」:賜ぶは賜るの約で天皇に代わって田を支給するので
             こう言ったもの
  「夜のいとま」:勤務時間後の余暇

芹を贈られた女官は次のような歌を返します 

「 ますらをと 思えるものを 太刀佩(は)きて
可爾波(かには)の 田居(たい)に 芹ぞ摘みける 」
巻20の4456    薩妙観命婦(さつのめうかんみょうぶ) 


「可爾波」京都山城町蟹幡の地で地名と蟹とを掛けている

( 貴方様は大変偉いお方だと思っておりましたのになんとまぁ、
  立派な刀を腰に差したまま蟹のように地面を這って
  芹を摘んで下さったのですか。
  それはそれはどうもありがとう)

お互い親しいもの同士が掛け合って戯れたもので、
「苦労して摘んだ芹だから大事に食べて下さいよ」と
些かもったいぶった歌に対しておどけながらも感謝の意を述べています。
当時、芹には強精作用があると信じられていました。
この事を念頭に入れてこの歌を読むとさらに面白味が増しましょう。

春の七草といえば七草粥。

平安時代の七種(ななくさ)粥は七種の穀類など 

米 粟(あわ) 黍(きび) 稗(ひえ) 
篁子(みの=水田に生える野草の実) 小豆 胡麻)で炊かれ、
正月15日(小正月)に食べました。

これはのちに小豆粥として継承されます。

現代の正月7日の朝に食べる七草粥の姿になるのは
鎌倉時代になってからのことです。

春の七草の名前の由来は次の通りです。

芹(せり) 一つのところで競り合って生えるので「せり」
薺(なずな) ぺんぺん草ともいう 
     果実の形が三角形で三味線の撥に似ており
     又、茎を口にくわえて引張って弾くとペンペンと音がする

繁縷(はこべら) 茎が長く連なって箆(へら)のように繁殖する

御形(ごぎょう) 母子草ともいう。茎の端に小さな頭花が球状に集まって

        咲くので子が母にまつわりつく様子を例えた。 

        御形は人形のこと。餅に入れ母子餅と称し
        後に蓬(よもぎ)に変わり現在の草餅となる
仏の座(ほとけのざ) 田平子(たびらこ)ともいい仏の座布団(蓮華)のような
          形をしている

菘(すずな) 蕪 根が球の形をしているので「かぶ」という かぶは頭のこと
清白(すずしろ) 大根 菘の代わり(菘代)ともいう 

なお、農業気象研究等で著名な大後美保氏は栄養補給の点から

「 三つ葉 春菊 レタス キャベツ セロリ ほうれん草 葱 」を

近代七草にと提唱しておられます。
栄養面では良いとしてもこれではとても七草の歌にはなりません。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 10:19 | 植物

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