万葉集その三十五(十二月:しはす)

「しはす」は一般に「師走」と書きますがこれはどうやら
「当て字」のようです。
この「当て字」の歴史は古く、なんと平安時代に出現しています。

従って
「十二月には法師を呼んで経をあげる習慣があり、
僧が忙しく走りまわる師馳(しはせ)が訛って師走になった」という説も
些か「こじつけ」といえましょう。

然しながら「師走」は当て字とはいえ既に1000年以上も
使用され続けており、現在では立派な冬の季語になりました。

さて、この「しはす」という言葉は既に万葉当時から存在しています。

その語源は不明とされていますが江戸時代の新井白石は
「年果ツ」即ち「四季が果つる」意とし専門家ではこの説の支持者が
多いようです。
「大言海」には「万事為(な)し果つ月」また「農事終わる」とあります。

山形地方では「済む」ことを「シム」といい借金を済ますことを「シマス」と
言うそうです。
山形のある駅で 「おちる(降りる)人がしん(済ん)でから、お乗りけらっしゃぃ」と
放送したという笑い話も残っております。

このように「しはす」という言葉は色々と研究された結果、現在では
「万事、終(しま)はし=済まし」「万事、為(し)果つ」とが
「シマシ」→「シワシ」→「シハス」と転じたのではないかと推定されています。


さらに、元々暮の数日間を意味していたものが、1ヶ月を表す言葉に変わりました。


「 十二月(しはす)には 沫雪(あわゆき)降ると 知らぬかも

     梅の花咲く 含(ふふ)めらずして 」

 巻8の1648 紀小鹿郎女「きの をしかの いらつめ」


(紀小鹿郎女は大伴家持の女友達で10歳年上ともいわれている)

薔薇の蕾(rosebud)には「年頃の美しい乙女」という意味があります。
この歌の「ふふむ」も蕾のままでまだ開かない状態をいい「美しい少女」を
暗示しているようです。

「ふふむ」は本来「ふくむ」即ち口の中に何かを入れるというものですが
その口がふくらんだ様子から蕾がふくらむに転じた言葉です。

また、沫雪は淡雪(やわらかく消えやすい雪)ではなく牡丹雪(ボタ雪)のことです。

( 梅の花は十二月(しはす)に大きな牡丹雪が降るということを知らないのかしら。

 気が早いのね。もう、ちらほら咲き始めているわ。

 何もそんなに急がないで蕾のままでいればいいのに)

早く咲いた梅の花へのいたわりの思いが強く作者の優しい人柄が
滲み出るような歌です。

ところがこの歌の「ふふむ」から「梅の花」を「乙女」、
沫雪を「思いやりのない男」と見立てると

「 まだ清らかな乙女を思いやりがない男が恋をさせてしまった。
もうしばらく蕾のままにしておけばよいのに 」とイメージが一変します。
(窪田空穂、万葉集評釈をもとに意訳)

「早咲き梅への優しい思いやりを詠ったもの」「乙女を早咲きさせた思いやりのない
男に対してちょっぴり非難を込めた歌」あるいは「表裏両方の意味を含む歌」と様々
な解釈が可能なところにこの歌の面白みがあります。

なお、万葉集で「十二月・しはす」という言葉が出てくるのはこの歌一首のみです。
[PR]

by uqrx74fd | 2009-03-08 10:14 | 自然

<< 万葉集その三十六(歌垣)    万葉集その三十四(好きなのは貴... >>