万葉集その十七(良寛の歌の手本は万葉集)

良寛さんといえば子供達とひねもす手鞠つき。

歌もその春風駘蕩とした人柄を反映したものが多く、漢詩、和歌あわせて
2000もの作品、さらに素晴らしい「書」を残しています。

「今ここに生きる」「無欲」という道元の「正法眼蔵」の教えを忠実に実践した
清貧の人でもありました。

本が買えない良寛は人から借り、要点を書きとめ、その恐るべき記憶力で
心にかなった歌や表現をたちまち暗記し自由自在に使ったといわれています。

万葉集については「良寛禅師奇話」で
「歌を学ぶには万葉がよろしい。古今はまだ良いが新古今以下は読むに堪えず」
と明治の正岡子規を彷彿させるような歌論を述べています。

今回は良寛が如何に万葉集を駆使して歌を作ったか、所謂「本歌取り」のお話です。

(注): 本歌取りとは和歌、連歌などを意識的に先人の作の用語などを
     取り入れて作る事。
     背後にある古歌(本歌)と二重写しになって余情を高める効果がある。


まずは有名な手鞠歌と万葉の歌をご覧下さい「上段:良寛、下段:万葉集」


 「霞たつながき春日を 子供らと 手まりつきつつ この日暮らしつ」 良寛

    「霞たつながき春日を かざせれど いやなつかしき梅の花かも」

      巻5の846 小野氏淡理(おのうじのたもり)


 (霞立ち込める長い1日。ずっと髪に梅の花をかざしているが益々心が惹かれる事よ)

 更に、良寛歌最後の部分「この日暮らしつ」 も

  「春の雨に ありけるものを 立ち隠(かく)り 

      妹が家路に この日暮しつ」   
                巻10の1877 作者未詳
 

  から取っています。

 つまり、初めと終わりは万葉集からの引用で、良寛のオリジナルは
 「子供らと手まり つきつつ」だけながら全く新しい歌に生まれ変わっています。

 後の歌の意

 (濡れてもどうという雨でもないのに、木陰で雨宿りして、
  いとしいあの子のところへ行くのが遅くなってしまった。
  「春雨だ、濡れて参ろう」とやれば良かったなぁ。)

 次は風雅の友でもあり、有力な後援者でもあった阿部定珍(さだよし)が訪ねてきたが
 話し込んでいるうちに日が暮れてしまい慌てて帰ろうとする定珍を引きとめ、又帰路
 を気遣かった歌。

 冒頭の「月読み」とは月を数えるという意味で月の形で日数を数える事に
 基づくもの。転じて月のこと。

 「 月(つく)読みの 光を待ちて帰りませ 山路は栗のいがの多きに 」 良寛

     「月(つく)読みの 光に来ませ あしひきの 山きへなりて遠からなくに」

      巻4の670 湯原王(宴席で湯原王が女の立場で詠ったもの) 
 

  山きへなりて=(山経隔て) 山がへだてて
 
 (月の光をたよりにおいで下さい。山が隔てて遠いというわけではありませんのに)

 他に数多くの本歌取りがありますが、このようにTPOに応じて即座に自分の歌に取り
 込めるという事は万葉歌を完全に自家薬籠中のものにしていたと思われます。

 最後に、良寛晩年の恋について少し触れてみたいと思います。

 相手は美貌の貞心尼。長岡藩士の娘。18歳で医師に嫁ぎ離婚した後23歳で出家。
 良寛70歳、貞心尼30歳の時に出会い良寛74歳で没するまで歌物語を続けました。
 初めての出会いに、

「君にかく あい見ることの嬉しさも まださめやらぬ夢かとぞ思ふ」 (貞心尼)

「白妙の衣手寒し 秋の夜の 月中空(なかぞら)に澄み渡るかも」 (良寛)
 

なんとも初々しい歌、

 袖のあたりが肌寒いので驚いて外を見れば、秋の夜の月が早や天心に輝いており
 とうとう二人は明け方まで話し合っていたというのです。

 この時から4年の間、良寛は生涯最良の日々を過ごしたのであります。
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by uqrx74fd | 2009-03-08 09:56 | 生活

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