2009年 03月 08日
万葉集その十五(海ゆかば・・・)
今回は、さきの戦中を通じて全国津々浦々にまで浸透し唱われた
「海行かばの歌」の「歴史の謎」解き明かしです。
「 海行かば みずく屍 山行かば 草むす屍
王(おおきみ)の へにこそ死なめ
のどには死なじ 」
( 海に戦えば水につかる屍、 山に戦えば草の茂る屍となろうとも
大君のおそばで死のう。のどかに死ぬことはあるまい)
この歌の原出典は続日本紀における聖武天皇の宣命
(勅命を述べ聞かせること、または文書)の記録です。
時は749年。国家的大事業である大仏造営が完成間近に迫ったころ、
朝廷は大きな問題に直面していました。
大仏を荘厳するのに必要な鍍金のための材料、黄金が日本にないのです。
外国から求めようにも財政は極度に疲弊し手の打ちようがありません。
聖武天皇は日夜苦悩し、神仏に一心に祈念されました。
そして奇跡が起きたのです。
陸奥の国から吉報が届き、渡来人で陸奥の守でもある百済王敬福
(くだらのこにきしきょうふく) が管内の山から産出したと言って
黄金9百両を納めてきたのです。
天皇は殊の外お喜びになり、東大寺に行幸。盛大な式典が行われました。
そして2つの宣命を下されました。そのうち2番目の宣命で
「大仏造営のための黄金の不足が心配されたが三法をはじめとして
天神地祇また祖先の霊の恵みとして黄金を産出したので、天下の人々と喜びを
共にしたいと考え、年号に感宝の文字を加え天平感宝とすること。
寺社へ寄進、歴代の功臣への顕彰、位階の昇任、大赦などを発表された
最後のくだりで、
「大伴、佐伯宿禰は天皇の朝廷を守りお仕え申しあげることに己の身を
顧みない人達であって
祖先が 「海行かば みずく屍 山行かば草むす屍
王のへにこそ 死なめ のどには死なじ」
と言い伝えてきたらしい。このような忠誠な一族には格別に取り計らう 」
と宣われました。
大伴家持は感涙に咽び、感謝の意と一族の栄光の証として長歌、短歌を奉り
「王のへにこそ死なめ のどには死なじ」の部分を
「大君の辺にこそ 死なめ 顧みはせじ」
と一部を変えたものが万葉集に残ったのです。(巻18の4094 長歌)
従ってこの歌は当初、臣下が天皇に忠誠を誓ったものではなく、
天皇が臣下の忠誠を讃える言葉でありました。
昭和12年、信時 潔によって作曲された歌は、天皇の兵隊が
お上に忠誠を誓う歌として戦時中歌われ続けました。
戦後60年を経過した今日、この歌を知る人も少なくなり、
今や国に命を捧げた若人への鎮魂歌になったと言えましょう。
参考; 海の記念日 昭和16年6月5日制定。
当初定められた祝日は7月20日であり、これは、明治天皇が明治9年
東北ご巡幸の帰途、灯台視察船「明治丸」で青森から函館を経て
横浜にご安着された日に由来。
1959年国民の祝日制定運動が始まり1000万人の署名を得て
1996年国民の祝日となる。」
by uqrx74fd | 2009-03-08 09:54 | 心象