万葉集その二百十五(隼人)

 「隼人」と云えばすぐに「薩摩隼人」が思い起されますが、上代では九州大隈半島に
 住む民族を 「大隈隼人」、薩摩半島南部の一族を「阿多隼人」と呼び、8世紀頃に
 「阿多隼人」が「薩摩隼人」という名に変わったと云われております。

その名の由来は「隼のように勇猛、敏捷な人」、あるいは、ル-ツが南方系の民族とも
推定されているところから「南風(はえ)の人が訛ったもの」など諸説あります。

「隼人族」は移住性に富み、5世紀頃には近畿地方、特に山城(京都府綴喜郡)に多くの
人々が住みつき、諸国との交易を営んだほか竹製品の生産や鵜飼などを生業と
していたようです。

特に竹については薩摩の特産品であると共に、神に供える聖なるものとされており、
「笛竹」を天皇家に献上したり、朝廷に弓矢や筆用の竹、籠製品などを納めていました。

また時代が下ると、エジソンが電球を発明する時に使用した竹は隼人達が京都の
八幡に植えたもの (網野善彦、森浩一:この国の姿と歴史 朝日選書) との
指摘もあります。

薩摩隼人は大宝律令制定(701年)に伴い「隼人司」の下で宮門警護や歌舞などの
儀式の任に就きますが、720年には九州で大和朝廷に対して大規模な反乱を起こし、
大伴旅人を将軍とする朝廷軍に鎮圧されるなど波乱に満ちた歴史をもつ一族です。

 「 隼人(はやひと)の 薩摩の瀬戸を雲居なす

       遠くも我れは今日(けふ)見つるかも 」 
                 巻3-248 長田 王(天武天皇系か?)


( あれが隼人の住むという薩摩の瀬戸なのだなぁ。
 はるか彼方に浮かぶ雲のように、遠くからではあるが今日初めてこの目で
 見ることが出来たぞ )

作者は奈良朝廷で風流侍従と仇名された人物。
公用で筑紫に派遣され、水島(熊本県八代市)に渡る時での一首です。

「薩摩の瀬戸」は現在「黒の瀬戸」とよばれており、天草諸島最南端の長島と
鹿児島県阿久根市黒之浜との間の狭い海峡とされています。

干潮時の流れは速く、大きな渦が幾つも輪をなしてごうごうと音をたてており、
その凄まじさは都でも音に聞こえていたのでしょう。

逆巻く渦を目のあたりにした感動、そして「思えば遠くまで来たものだ」という感慨、
さらには宮廷で活躍する隼人への親しみが感じられる一首です。

「 隼人の 名負(なお)ふ夜声の いちしろく

    我が名は告(の)りつ 妻と頼ませ 」 
                      巻11-2497 作者未詳


( 隼人の名だたる夜警の声。その大きな声のようにはっきりと私の名を申しました。
 この上は私を妻として頼みになさって下さいませ。)

隼人は宮廷警護の見廻りにあたって吠声(はいせい)を発していたそうです。

「吠声」とは犬の吠える声をまねたものですが、邪神、悪鬼を追い払い
あたりを祓い清める呪術とされ、日常の警護のほか天皇の行幸の際にも
大声を出しながら先頭を歩いていたので人々にもよく知られていたのでしょう。

古代では女性が相手に名前を教えることは結婚の受諾を意味していましたが
それにしても面白い譬えを持ち出したものです。

『これ(作者註:吠声)は 宮中の儀式に欠くべからざるものとして長く残り、
幕末の嘉永元年(1848年)孝明帝の即位の次の年に京都御所でおこなわれた
大嘗祭の式次にすら、そういう近世になってすら「隼人発声」というものが
おこなわれた。

むろん、このときの隼人は、まさかあの日本最大の雄藩になっている
藩の士をつれてきたわけではなかった。

朝廷の小吏がかりに隼人になり、裸同然のすがたで宮門のわきに立ち
門外にむかって一声、二声高く吠えた。

ということなどを考えてゆくと薩摩隼人というのは存外朝廷と近い。
憎々しく反逆するにせよ、愛くるしくなつくにせよ、近畿あたりの
他の諸国の住民よりも上代以来中央政権と近い関係にあったことがわかる
薩摩性格の一面である。 』

              ( 司馬遼太郎 「歴史を紀行する」より:文春文庫)

     「 燕ひくくとべり 隼人の町とほる 」   山口青邨
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by uqrx74fd | 2009-05-18 19:47 | 生活

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