万葉集その二百四十一(いい湯だなぁ!)

「天然の岩にしたしみ ひたる湯に
      とどろきふるふ 荒磯のなみ 」   中村憲吉


日本人の温泉、風呂好きは世界の中でも際立つ風俗といわれています。

単なる清潔好き? いやいや、これは我が民族が古代から連綿と受け継いでいる
何ものかが私達の意識の深層に刷り込まれているのではないか? そして
その秘密解明の鍵は『「ゆ」という一字にあり』、と思われるのです。

風土記によると、道後(伊予国)、牟婁(むろ:紀伊国)、
湯本、湯河原
(伊豆国)、有馬(摂津)などは、古代からすでに著名な湯治場として
知られていたようです。

歴代の天皇も温泉地に行幸されることが多く、とりわけ舒明天皇と皇后(のち斉明天皇)は
「639年、伊予に仮宮を造り、12月からなんと!翌年の4月まで4ヶ月間逗留された」
との記録があります。(日本書紀)

「 - こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭(いざには)の 
  岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思ほしし 

  み湯の上の 木群(こむら)を見れば 
  臣(おみ)の木も 生(お)ひ継ぎにけり

  鳴く鳥の 声も変(かは)らず 
  遠き代に 神(かむ)さびゆかむ 幸(いでま)しところ 」
 
               巻3-322(長歌の一部)   山部赤人


( 険しく聳え立つ伊予の高嶺  
 その嶺に続く射狭庭の岡(いさにわのおか:道後温泉一帯)に立たれて
  歌の想いを練り 詞(言葉)を色々と選ばれておられた

 その貴い出湯(いでゆ)の上を覆う林をみると
 臣の木も昔のままに絶えないで生い茂っている
 鳴く鳥の声も変わっていない

 これからも、末代まで、ますます神々しくなってゆくことだろう
 古に行幸(いでまし)された この跡所(あとどころ)は )

この歌は作者が道後温泉に公用で旅した時に詠われたものと思われます。(年月不明)

かって、舒明天皇と皇后(のち斉明)が行幸されたことや、また新羅遠征の途次にも
斉明天皇がこの地に長く滞在された古を偲んで往時と変わらぬ繁栄のさまを述べ、
併せて自ら一行の永遠の栄を祈ったものです。

「臣の木」とは「樅(モミ)」説あるも不詳。この部分は639年舒明天皇行幸の折、
この木に稲穂をかけて小鳥を飼った故事をさしています。

「 とほつ世の 女帝(をみなみかど)を なぐさめし
         紀伊の行幸(みゆき)は この湯にありき 」 中村憲吉


天皇の「入浴」について興味深い記述があります。折口信夫、柳田国男両氏の説を
下敷きにした、荒木博之氏の一文です。

『 古代宮廷における天皇の日常起居の生活において、湯を奉る時間が最も神聖とされた。
「御湯殿日記」という日々録が、途方もない長年月の間、時には天皇自らが筆を執って
 書き続けられたのは、この御湯殿で何か神聖にして特別な秘儀を行っていたからである。

その秘儀をとりしきっていたのが「壬生部、乳部」などと表記される「ミブ」と
いわれる人々で「ミブ」は産室を意味するとともに、稲をある期間穂のついたまま
蔵置きする場所も示している。

御湯殿は産室と同じように産神の来臨するところであった。
ミブ部の役割は人間あるいは穀物に再生の力、生命力を与える神霊の祭事の管理である。

このような神霊は五穀を豊かに実らせ、人に不老不死の力を与え、ひいては共同体の
繁栄をもたらす生命力そのものといってよいものであった。』
                     (やまとことばの人類学:朝日選書から要約)

かように物々しい入浴では、帝もゆっくりと寛ぐことも出来ないのではないかと、
いささかご同情申し上げたくもなりますが、一方、庶民たちは天真爛漫。
数少ない息抜きの場として温泉を楽しんでいたことが下記の歌に伺えます。

「 足柄(あしがり)の 土肥(とひ)の河内(かふち)に 出(い)づる湯の
    よにも たよらに 子ろが言はなくに 」  巻14-3368 作者未詳


( ここ足柄の河内でお湯が勢いよく湧き出て、ゆらゆらと揺れています。
  私の心もあの湯と同じ。いつも不安で揺らいでいるのです。
  あの子は「迷っている」などと少しも言っていないのに、やっぱり心配だなぁ。)

「湯が湧き出ている」と表現した唯一の歌ですが、元々は民謡であったとも。
「足柄の河内」は現在の神奈川県湯河原町とされ、梅の産地であることから「小梅湯」
「こごめ湯」ともよばれ、「こごめ」には「子産め」という意味も含まれているそうです。

「 ゆ種(だね)蒔く あらき小田を求めむと
     足結(あゆ)ひ出(い)で濡れぬ この川の瀬に 」巻7-1110 作者未詳


( 豊穣を祈って斎(い)み清めた籾(もみ)を蒔く新しい田んぼを探すために、袴を膝の下で
  しっかり結んで(足結ひ)出かけたが、その足結を川の瀬で濡らしてしまったよ )

「初々しい女性を求めに旅仕度して出かけたが、邪魔が入ってなかなか思うように
いかないという歌(伊藤博)」、あるいは「水が豊富なことを褒めた農耕儀礼の歌
(万葉集全注)」ともされている一首ですが、問題はこの歌の「ゆ種」の「ゆ」です。

「ゆ」は一般には「斎(ゆ)」つまり「神聖な」意とされていますが、
この歌の原文表記が「湯」となっているのです。

この歌について「日本古典文学全集:小学館」によると、
『 「実際に種蒔に際して「種籾」を数日間「ぬるま湯」に浸して籾の発芽を早め」、
さらに「湯の再生力を付与して豊穣を祈った農耕儀礼」』
との指摘がなされています。

「ゆ」には「熱くなった水」「温泉」のほか「薬湯(くすりゆ)」「せんじ薬」「薬湯(やくとう)」の
意があり(広辞苑)、さらに、万葉集での「薬」は「若返り、不死、再生の霊薬」と
されています。

そのようなことから、古代の人達は「ゆ」という言葉の中に霊的な意味を持った
特別な思い、すなわち「日々再生の願い」を籠めていたことが
数々の文献から伺われるのです。

「 滑(なめ)らなる 岩はだに触(ふ)りて 吾がひたる
     御湯は古りにし 玉湯とぞおもふ」  中村憲吉

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by uqrx74fd | 2009-11-15 13:23 | 生活

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