万葉集その二百四十八(松と門松)


「 かくて 明け行く空のけしき 昨日に変わりたりとは見えねど
  引き替へ めずらしき心ちぞする。
  大路のさま 松立てわたして 花やかにうれしげなるこそ 又あはれなれ」
                               (徒然草:十九段)

( あわただしかった大晦日、
明けゆく空の景色は昨日とは変わっていないはずなのに、
さすが京の都の新年。
門松が立てつらなり、華やかにうれしげであることよ )

古代の人達は松や杉など常緑の木に神々が降臨すると信じていました。
「門松」は新年に神様に来ていただくための目印で、「松の内」は
「 もろもろの 神も遊ばん 松の内  (露月) 」とあるように
新しい生命力を寿ぎ、神様と共に大いに飲み食いする期間とされています。
(元旦から15日まで、現在では7日までのところが多い)

門松を立てる習慣は、平安から鎌倉時代にかけてとされていますが、万葉人も常緑の
古色蒼然とした松に不変の生命力と威厳を感じ、神の憑代(よりしろ:神が留まる)として
畏敬の念を抱いておりました。

「 茂岡に 神(かむ)さび立ちて 栄えたる
    千代松の木の 年の知らなく 」
                  巻6-990 紀 鹿人 (きのかひと)


( ここ茂岡(奈良県桜井市)に、立派な松が神々しく立ち茂っております。
  この木は一千年もの年を経た木なのでしょうか?
  私には想像もつかないような長い歳月です。)

大伴坂上郎女の実弟、大伴稲公(いねきみ)宅で催された宴席での歌で、
邸宅の立派な松を誉めると共に主人の繁栄を讃えています。

「茂る(茂岡)、神さび、栄え、千代松、無限(年の知らなく)」と、
これ以上めでたい言葉を取り揃えることができないと思われるような祝い歌です。


   「常磐なる 松の緑も春来れば
       いまひとしほの色まさりけり 」 古今和歌集  源 むねゆき


( 永久不変の松の緑でも春が来ると 一段と鮮やかな色に見えることだなぁ。
  まるで染液に今一度浸したような美しさであることよ。 )

いつもと変わらないはずの松の緑も、新年を迎えて何となく華やかに見える。
それは作者の春を迎える喜びの心でもありましょう。

    
『 東京では門松が取払われたこのごろだが、銀座あたりを通ると
職人が門松をはずしたあとの穴に、門松のてっぺんだけチョンと切ったのを
さしているのを見かける。
あれは古くはトブサ(鳥総)といって神様と別れを惜しんで、松の先だけは
そこに残しておくという一つのおまじないらしい。

一体古い習慣というものは地方にゆくほどそのまま保存され、
都会では姿を消していってしまうのが定石とされているのに、
地方ではあまりみられなくなったトブサに限って、東京の真ん中に
残っているというのもおもしろいではないか 』
           ( 金田一春彦 ことばの歳時記より要約 新潮文庫 )

「 新年春来れば 門に松こそ立てりけれ
      松は祝ひのものなれば 君が命ぞ長からむ 」 
                               ( 梁塵秘抄 )

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by uqrx74fd | 2010-01-04 15:13 | 植物

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