万葉集その二百六十五(鞆の浦)

 「春の海 ひねもすのたり のたりかな」 蕪村

『 私の家(うち)は先祖から広島県の鞆(とも)であった。- -
  筝曲「春の海」は瀬戸内海の島々の綺麗な感じを描いたもので、
  長閑(のどか)な波の音とか、船の櫓(ろ)を漕ぐ音とか、また鳥の声と
  いうようなものをおり込んだ。
  曲の途中で少しテンポが速くなるところは舟歌を歌いながら、
  櫓を勇ましく漕ぐというような感じをだしたものである。』 
                     ( 宮城道雄 「春の海」より要約 岩波文庫)

「 海人小舟(あまおぶね) 帆かも張れると見るまでに
      鞆の浦みに 波立てり見ゆ 」 
              巻7-1182  作者未詳 (173:古代の船 既出) 


( 鞆の浦の海が荒れてきたようだ。
 海人が小舟の帆を張っていると思われるほどに白波が立っているよ)

普段は穏やかな鞆の海上に風が出てきて、白帆のような波が立っているさまを
詠った一首です。

鞆の浦(広島県福山市)は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、東西の潮流の分岐点、
すなわち、東は紀伊水道、鳴門海峡、西は豊後水道、関門海峡から瀬戸内海に
流れ込む潮がちようど鞆の浦あたりでぶつかり合うため、古くから潮待ちの
要港として栄えました。

「鞆」とは弓を射るときに使う皮製の防具のことで、その昔、神功皇后が
征韓のとき往路ここに寄港し、海の守護神、大綿津見(おおわたつみ)に戦勝と
海路の平穏を祈り、凱旋の時に鞆を奉納したことに由来すると伝えられています。

( 他に「トマ」転訛説あり。「ト」は瀬戸と同じ水道、「マ」は対馬と同じ島の意)

「 ま幸(さき)くて またかへり見む ますらをの
      手に巻き持てる 鞆の浦みを 」  巻7-1183 作者未詳


( 無事に戻ってまた見よう。
 ますらをが手に巻き持つ鞆と同じ名前を持つこの美しい鞆の浦を )

作者はここに寄航してさらに西へ船旅を続けていくようです。
地名起源の伝説を読み込み、かって神功皇后が旅の平穏を祈ったように、
自身の前途の幸運を願ったのでしょう。

   「鞆の津の 古りし雁木(がんぎ)や 鳥雲に」 亀井朝子

雁木とは江戸時代に築かれた船着場の石段で、潮の順位を見せ、満ち引きに
関係なく荷物の積み下ろしが出来るようにしたものです。
( 現在、200mにわたって残されている)

「山紫水明」 この言葉は中国のものではなく
頼山陽、鞆滞在の時の造語とされています。
「山水の景色は清麗、朝暮の眺望はことによい」の字義通り鞆の浦は
古くから景勝の地として知られており、江戸時代、朝鮮通信使(使節)は
「日東第一形勝」(日本で一番美しい景勝地)と褒め称えています。

鞆の浦は景観だけではなく昔から話題に事欠かない土地柄で
幕末には坂本竜馬が率いる海援隊の「いろは丸」(170トン)と紀州藩の軍艦、
明光丸(880トン)とが衝突し、竜馬が巨額の賠償金を大藩からせしめた事件、
最近では、映画「崖の上のポニヨ」製作にあたって宮崎駿監督がここに滞在して
構想を練り一躍有名になり、さらには港の一部を埋め立てるという景観を
破壊しかねない計画が裁判になり差し止め判決が出るなど- -。

そして鞆の浦の食の名物はなんといっても鯛。

『 春、魚島の季節になると、鯛は産卵のため外洋から三つの関門を潜って
瀬戸内に入ってくる。 
みんな燧灘(ひうちなだ)の走島を目がけて来て、走島の近くの岩礁に卵を産み、
それがすむと一方的に西の関門から外界に出る。
どういふものか鯛は瀬戸内に入ってくるときには三つの関門から入ってくるが、
ことごとく長門の関門から出て行って、豊予、紀淡の関門から出て行く鯛は一つもない。
これは瀬戸内の七不思議の一つだと思っておる。』 

(井伏鱒二 [ 鞆ノ津茶会記]より要約 福武文庫)

筆者註:魚島の季節=鯛が多く取れる陰暦三月から四月の頃をいい
魚島時(うおじまどき)ともいう。

  「 燧灘(ひうちなだ)目差し鯛網 船続く 」  岡田一峰
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by uqrx74fd | 2010-05-03 07:38 | 万葉の旅

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