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万葉集その二百六十六(初鰹)

「目には青葉 山ほととぎす はつ鰹 」   山口素堂

日本列島の山野が新緑で彩られるころ、鰹は黒潮に乗って沖縄、九州、紀州、
小笠原諸島、伊豆、房総、東北は金華山沖辺りまで北上し、秋にはフィイリピン、
遠くは赤道方面まで南下して生まれ故郷に戻ってゆきます。(季節的回遊魚)

古代から鰹は貴重な栄養源とされてきましたが痛みやすく、冷凍などの保存技術が
なかった時代は干したものを食べていたので「堅魚(かたうお)」とよばれていました。
それが「かつお」に変わり、漢字も「堅+魚」から一字の「鰹」になったと
いわれています。

万葉集での鰹は一首、それも浦島伝説の一部にしか詠われていません。
浦島物語については後の機会に譲るとして、今回は鰹の部分だけを抽出します。

「 - - 水江(みずのえ)の 浦の島子が 鰹釣り鯛釣りほこり
  七日まで 家に来(こ)ずて - - )   巻9-1740 高橋虫麻呂歌集


( あの水江の浦の島子が鰹や鯛を釣っていて夢中になり、七日経っても家に帰らず-)

「釣りほこり」とは、次から次へといくらでも釣れるので夢中になり調子に乗ることで、
当時は鯛も鰹も豊富に獲れたのでしょう。
鰹は蛋白質、ビタミン類、鉄分が豊富な上、うまみ成分であるグルタミン酸が多く
大和朝廷でも重要な食料として各地から貢納させていました。

「 伊良胡崎に 鰹釣り舟 並び浮きて
    西北風(はがち)の波に 浮かびつつぞ寄る 」 西行 山家集


( 伊良胡崎の沖の方からの風向きが良くないというので、鰹を釣る舟が一斉に並んで
 西北からの風に立つ波に揺られながら浜辺をさして近寄ってくることだよ )

沖の風に暴風雨の気配があったのか、鰹釣り船が慌てて浜に引き揚げてくるさまを
詠ったようですが、平安時代でも鰹漁が盛んであったことを窺がわせてくれる一首です。
伊良胡崎は三河国(愛知)渥美郡。
西行は晩年に伊勢の二見が浦に庵を結んでいました。


「 鎌倉を 生きて出(いで)けむ 初鰹 )  芭蕉

江戸時代になると鰹は現在のように刺身として生食され、また鰹節に焙乾されるよう
になります。
芭蕉の句は鎌倉で採れた鰹を生きたまま早飛脚で江戸に運ばれ人々に初鰹として
もてはやされたさまを詠んだものです。
当時鎌倉を旅していた貝原益軒は

「 江島を出て腰越を通る。- 鎌倉の海、今は鰹といふ魚をとるとて
海に浮かべたるおほくの漁舟有。生なる鰹おびただしく持ちはこぶ 」と
その活況のさまを書いております。(壬申紀行  筆者注: 江島=江の島)

「 まな板に 小判一枚 初鰹」 (宝井其角) 

江戸っ子は女房、子供を質においてでも初鰹を食えと粋がり、数少ない鮮魚の値段は
高騰しました。
小判一枚は今の値段で7万円くらいでしょうか。
歌舞伎役者、中村歌右衛門は鰹一本3両(20万円位か)で買ったとの記録も残されています。
    
「 初鰹 銭とからしで 二度なみだ 」

当時鰹の刺身は生姜ではなく、芥子(からし)醤油を付けて食べていたようです。
 無理して買った人は後の支払いにやり繰り算段したことでしょう。

狂歌の大家、蜀山人はこの初鰹狂騒曲のさまを大いに皮肉っています。
「 鎌倉の海よりいでし初かつお
       みな武蔵野の はらにこそいれ 」


 註:「はら」 原と腹を掛ける

明治時代、若山牧水は和歌山に旅し、
「 熊野勝浦港は奥広く、水深く小島多く景色はなはだ秀れたり。
港口に赤島温泉あり滞在三日」と述べ、初鰹を満喫しました。

「 したたかに われに喰(くは)せよ 名にし負う
        熊野が浦は いま鰹時 」       若山牧水

「 今ははや とぼしき銭のことも思はず
         いっしんに喰へ これの鰹を 」  若山牧水)


食通に言わせると初鰹より秋の鰹の方が美味とのことですが、秋の季語に
戻り鰹がないところをみるとやはり若葉の頃の鰹のほうが粋なのでしょうか。

「 生鰹節(なまり)は鰹節にするときの未乾燥品だが、それを野菜と煮合わせたり
  ことに、割いたのを胡瓜や瓜と合わせて甘酢をかけまわしたものは私の大好物だ。
  - - 鰹のタタキも悪くないが私にはやはり刺身がよい。
  そして鰹の刺身ほど 初夏の匂いを運んでくれる魚はない 」

         ( 池波正太郎 味と映画の歳時記 新潮文庫)

「 ふじ咲(さき)て 松魚(かつお)くふ日を かぞへけり 」 宝井其角 

by uqrx74fd | 2010-05-09 19:49 | 動物

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