万葉集その二百七十五(万葉仮名の謎: 義之、大王)

万葉集の原文はすべて漢字で表記されています。
我国固有の文字がなかった時代、漢字を借りて日本語を書きあらわしていたのです。
それは、漢字そのものの意味を生かして用いたものではなく、日本語の言葉の
音に近い漢字を選び出して当てたもの、例えば「あいうえお」を「阿井宇江尾」と
表記するいわゆる「万葉仮名」とよばれる独特の応用法です。

 註:例外的に ① 漢字の意味を汲み取って日本語の言葉と同じものを当てる 
                  例: 咲花(さくはな) 薫(にほふ)
            ②  和語に翻訳できない仏教用語はそのまま使う 
                  例:布施、餓鬼) などもある。  

然しながら、万葉仮名は驚くばかりの多種多様な漢字が使われ、さらに特殊な
使われ方をされたものも多く、平安時代の終わり頃になると、万葉集は世にも難解な
古歌集と成り果ててしまっていたようです。

そのため、951年、村上天皇の詔がくだり、清原元輔をはじめとする
5人の歌人、学者が宮中の梨壷で万葉集に訓点を施す解読作業がなされました。

現在私達が読んでいる漢字、仮名まじりの57577の整然たる表記は、この五人を
はじめ、それ以降の多くの歌人、学者達によって何世紀もの間の苦闘を積み重ねて
創造された努力の結晶なのです。

今回は一千年の間読み解くことが出来なかった超難解歌を明晰な頭脳と直観力、
推理力で見事に訓み解いた江戸時代の古典学者、本居宣長の物語です、

「 標(しめ)結ひて 我が定め義之(てし) 住吉(すみのえ)の
    浜の小松は 後も我が松 」
               巻3-394 余 明軍 (よの みょうぐん


( 締を張って我がものと定めた住吉の浜の小松。
  この松は将来とも私の松なのですよ )

評判の遊女を今後とも占有する気持を述べた歌のようです。
古代、住吉には遊女が多くいて、都の男たちを魅了していました。
作者は百済の王孫系の人で、大伴旅人の従者でしたが、故郷に約束をする
美しい女がいたのかもしれません。

「 黒髪の 白髪までと結び大王(てし)
     心ひとつと 今解かめやも 」  巻11-2602 作者未詳


( 黒髪が白い髪になるまで、ずっと心変わりすまいとしっかり結び固めた私の心。
  それを今更、どうしてゆるめたりすることがありましょうか )

女の浮気心を咎めてきた男に対する女性の歌。 それとも
一途に一人の男に尽くしてきた女が他の男に言い寄られて、はねつけた歌でしょうか。

作者未詳歌ながら「大王」という万葉仮名を用いたこの女性は極めて才智豊かな
教養人だった思われます。

さて、この二つの歌の「義之」「大王」はどのようにして「てし」と訓み解かれた
のでしょうか。

本居宣長曰く

『 「義之」は「てし」と訓むべきである。
   何故ならば「義」は「羲」間違いであって、かの中国の「王羲之:おうぎし」の
   ことである。
   王羲之の書の名高いこと、古今にならぶものがない。
   わが国でも古くからこの人の書を重んじ、賞賛するがゆえに、この人のことを
   「手師」(てし)と書いた。
   書のことを手というのは、古くは日本書紀にも書博士を手博士、手書きとも
   云っている。

   また、「結大王」の「大王」も「てし」と訓むべきである。
   何故ならば大王は「王羲之」のことであるからである。
   その故は、王羲之の子に王献之という、これも一流の書家がおるゆえに
   親子を区別するために父を大王、子を小王といい、大王は王羲之のこと、
   すなわち「手師(てし)」であるからだ。 』(筆者意訳)
 

『 義之→羲之→書家→手師→大王→てし。この一連の見事な推理。
「羲之、大王」を「てし」と訓まねばならない理由の説明には一分の隙もない。

義之の字を見つめているうち「羲之」の名が透けてみえてくるところは
ある種の学者や読書人にとって不可能ではあるまい。

しかし王羲之をはじめとする書家のことを、上代、中古の人々が
「手師」と呼ぶ習慣があったという事実を思い起こすことは連想の飛躍が
なければならないと同時に、すでに「日本書紀」にそのような例があった
ことを知っているという知識の裏付けが必要である。

このような推理の全過程は学者における、いわゆる「雑学」的知識の重要性を
物語るものにほかならない。

「大王」というもう一つの、一見突飛な用字法も王羲之の名に結びつけられる
ことが想起されるに及んで、万葉歌人たちがいかに王羲之に関する知識を
広く持っているかも証明された 』
                       ( 大岡信 万葉集より要約 岩波現代文庫 )

万葉人の文字遊びに後世の人たちが一千年も頭を悩ませた王羲之(東晋307~365年頃)は
一流の書道家であると共に、武人としても重鎮、その人柄は穏健で気品が高く、
貴族としての風格を備えた人格者であったと伝えられています。

書として最も有名なのは行書学習の必習書とされる「蘭亭叙(らんていじょ)」。
また、楷書としては「楽毅論(がっきろん)」が第一にあげられており、これは子の
王献之に与えて秘法を子孫に伝えようとしたものとされています。

我国では天平時代に光明皇后が「楽毅論」を臨書(手本に忠実に写すこと)されたものが、
正倉院に収められており、その書は
『 筆力勁健(けいけん:強くすこやか)、久しく鑑賞しても倦くことのない美しさがあり
 皇后の高い教養と温かい仏心と崇高な人格が偲ばれる。
まさに正倉院の書蹟の中の随一と称されるべき』(中田勇次郎 元京都市立美術大学学長)
との最高級の評価がなされています。

万葉集に収録されている4516首の歌の殆どが多くの先人の努力によって
解読されていますが、まだ読み解けない歌が19首残っています。
これからも、まだまだ夢にまでうなされる研究が続けられてゆくことでしょう。

「 万葉集 巻二十五見いでたる
    夢さめて 胸のとどろきやまず 」 佐佐木信綱


全20巻の万葉集。ところが何と巻25を見つけた。世紀の大発見!
はっと目覚めたあとの胸のとどろき。


ご参考: 本居宣長の原文

『 「義之」は「てし」と訓(よむ)べし。
これを「てし」とよむのは「義」の字を「て」の仮字に用いたるにあらず。
「義」はみな「羲」の謝りにて、から国の王羲之という人のことなり。
この人、書に名高きこと古今にならびなし。

御国にも古へよりこの人の手跡をば殊にとふとみ、賞する故に
手師(てし)の意にて書(かく)る也。
書のことを手といふは、いと古きことにて、日本紀にも書博士を
手のはかせ共、てかき共訓(よみ)たり」

「結大王(むすびてし)」これらの「大王」も
「てし」と訓(よみ)て義理明らか也。
これもかの王羲之のことにて同じくて手師の意也。

この故は羲之が子の王献之といへるも手かきにてあれば父子を
大王、小王といひて大王は羲之のことなればなり- -』

                                以上
読者の皆さんへ
  以下はブログ運営者側が挿入したコマーシャルです。
  どのような内容か筆者も判りかねますので、開かないで下さい。
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by uqrx74fd | 2010-07-11 13:09 | 生活

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