万葉集その二百七十六(鰻の祖先は深海魚)

『 かの万葉集に

「石麻呂(いしまろ)に 我れ物申す 夏痩せに
  よしといふものぞ 鰻(むなぎ)捕りめせ 」 大伴家持 巻16-3853(既出) 


という一首がある。 大伴家持の歌だ。
そのころから、すでに鰻の豊かな滋養が知られていたことになる。

この歌で鰻のことをムナギといっているのは、鰻の胸のあたりの淡黄色からついた名で、
それが転じてウナギとよばれるようになったそうな 』 
                             ( 池波正太郎 むかしの味  新潮文庫 )

「 痩す痩すも 生(い)けらばあらむを はたやはた
    鰻を捕ると 川に流るな 」      巻16-3854  大伴家持
 

( しかしなぁ、痩せているとはいっても、命あってのものだよねぇ。 
 鰻を捕りに行って川に流されてしまったら元も子もないもんなぁ。)

石麻呂は百済から渡来した医師、吉田連宜(よしだのむらじよろし)の息子で
生まれつき体がひどく痩せていたようです。
作者は父、旅人とともに二代にわたり親交があった仲なので遠慮なく
からかったのでしょう。

石麻呂の父は世間で「仁敬先生」と敬われた名医。
「名医の子なのにガリガリに痩せているのかい」という思いもこもる一首です。

鰻の生態については古代から長い間謎とされてきました。
ギリシャの哲学者アリストテレス(紀元前384~322)はその著 動物誌で
「 ウナギは泥や湿った土の中に生ずる“大地のはらわた”と称する物から生ずる」と
述べ、皮膚呼吸をし地面を這い回るウナギはミミズと同種のものと誤解していたようです。

それから1800年後、ウナギの卵巣が発見されました。世紀の発見です。
精神分析の大家フロイトはそれに刺激されて雄ウナギの精巣探しに躍起になりますが、
残念ながら遂に確たる発見に至らず(本人は発見したと勘違いしていた)、その発見者は
ポーランドの学者、シモンシルスキーであるとされています。(1880年)

その後、多くの学者の研究や調査によりヨーロッパウナギとアメリカウナギは
バーミューダー諸島近くのサルガッソー海周辺で産卵することが突き止められました。

ニホンウナギの産卵場所が確認されたのは何とそれから120年以上も経った
2006年のことで、日本列島から南2千km離れたフイリピン東方マリアナ諸島、
スルガ海山と特定されました。

さらに東京大学塚本勝巳教授、西田睦教授らの研究でDNA変異分析の結果、
ウナギの祖先はアナゴやハモなどと同種ではなく、シギウナギやフクロウナギなどの
深海魚と近縁であることが分ったと発表されています。(2010年1月6日読売新聞)

ニホンウナギはマリアナ諸島の深海で産卵し、数十時間後に柳の葉のような形をした
レプトセファルスに変身します。
ほとんど泳ぐことができないレプトセファルスは海流に乗って移動し、
フイリピン東側の沖で黒潮乗り換え、その間に徐々に泳げるように姿を変えて、
シラスウナギとなります。

黒潮にのりながら遡上する川を探し、汽水域で新月の日を待って川を遡ります。
そして、長い時間をかけて棲みやすい場所を探して50~100㎞、長いものは
200kmも遡上したという記録もあるそうです。

住処を見つけた、雄は3~5年、雌は10年掛けて成熟し、クロコ、黄ウナギ、
銀ウナギと成長しした後、故郷の海へ産卵のために戻るのです。

「日本列島から数千㎞離れた深海の海山で産卵、柳の葉のようなピラピラの泳げない
幼魚が潮に流されて黒潮にのる、ゆらゆら揺れながらシラスウナギに変身、
棲むべき川を探して何百km、ダムなどの障害物をものともせず、うなぎ登りに
遡上して住処を見つけ、そこで苦節5年~10年かけて成長し、再び産卵のために
数千㎞の旅をしながら生まれ故郷に戻ってゆく」

ウナギとはなんと壮大なロマンをもつ魚なのでしょうか。

そのウナギが絶滅の危機に瀕しているのです。
私達が食べている国産のウナギは日本の河口などで捕まえた稚魚(シラスウナギ)を
養殖で成魚まで育てたものです。
ところが乱獲と気候変化などによりその捕獲量が40年前の15分の1に激減しています。

2010年4月8日、独立行政法人水産総合研究センターは世界で初めてウナギを
親まで成長させて子世代、孫世代の稚魚を誕生させる、いわゆる「完全養殖」に
成功したと発表しました。朗報、快挙です。

しかしながら、水質管理やエサ、さらには費用が掛かりすぎるなど商業的な
採算に乗るにはかなりの時間が掛かるそうです。

世界一ウナギ好きな日本人。今年の土用丑の日は7月26日。
末永く楽しめるよう、天然のシラスウナギを大切にし節度ある捕獲が望まれます。

『 なみいる魚族のうち、ただひとつ、うなぎには旬がない。
このうなぎに旬を設けるとすればそれは9月下旬から10月にかけての
ころではないだろうか。

黄金色の婚姻色を呈す頃で、いわゆる「下りうなぎ」とよばれている
時期のものである。
産卵のために古来、謎とされている深い海をめざして、これから長い旅路に
つこうとしているだけに、たっぷり栄養をたくわえて、脂も実によくのっている。
「下りうなぎ」こそ、まさしくうなぎのなかのうなぎである。』

                 (楠本憲吉 たべもの歳時記 夏 要約抜粋 おうふう社) 

  「 蒲焼屋 隣は尾石惣座衛門 」    柳多留

              註: 尾石惣は 「おいしそう」 の洒
ご参考
          万葉集その十六 (鰻召しませ)

7月28日は「土用丑の日」

土用は土の気が強まる時で本来は春夏秋冬の四季それぞれの終盤18日間を言います。

冬なら厳寒、夏なら猛暑が続き、春秋は季節の変わり目で健康上用心が必要な時期と
されていました。

丑というのがこれまた危ない。方角で云うと東北にあたり丑寅といえば「鬼門」
「丑三つ時」と言えばお化けや幽霊がさまよう時間です。

災害や悪霊は全部鬼門から入ってくるといわれており丑の日には
災害が起こる可能性が高いとされていました。

特に夏の土用は酷暑が続くと体力が消耗しやすく、
古代人にとってこの期間を無事に過ごすのは大変なことでした。

夏の土用をどのようにして乗り切るか?

丑の方角の守護神は玄武という黒い神様です。そこで
「黒いものを食べるという事におすがりしょう」となりました。

鰻、鯉、泥鰌、鮒、茄子、などを食べる習慣はこのようにして起こったのです。

今回は鰻にまつわる古代から近代までのお話です。

   「石麻呂(いわまろ)に我もの申す 夏痩せに
        よしというものぞ 鰻(むなぎ)とり食(め)せ 」
                    巻16の3853 大伴家持


石麻呂は本名を吉田連老(むらじのおゆ)といい家持の親友で痩せの
大食い老人でした。
痩男に頑丈な男を連想させる石麻呂というニックネームをつけたところにも
この歌の面白みがあります。


( 石麻呂さんよ どうしてあんたはこんなにガリガリに痩せているの?
 夏痩せには鰻がいいというから、鰻でも捕って食べなさいよ )

当時は鰻を丸ごと火にあぶって切り、酒や醤油で味付けしたものを
山椒や味噌などを付けて食べていました。

現在のような蒲焼となるのは江戸時代の中期からであります。

時代は下って江戸時代。
俗説によると有名な蘭学者である平賀源内があまり流行らない鰻屋に
「お知恵拝借」と依頼され「今日は土用丑の日」と看板に大書して
店頭に掲げたところ大評判になり江戸中に広まったと伝えられています。

それでは、お江戸のお笑を一席。( 小泉武夫著 食べ飲み養生訓 より)

鰻が買えない男が匂いだけでも効くのだと言って握り飯だけ
鰻屋の前に持っていき、蒲焼の匂いを嗅いで鰻を食ったつもりで
握り飯をがっついていました。
それを見つけた鰻屋が頭にきて「匂いの嗅ぎ代 30文いただこう」と
請求書を突きつける。
しかし役者が何枚も上のケチな男は堂々と小銭で30文、
ジヤラジャラと財布から取り出し、思い切り地面に叩きつけて 

「鰻を食わせたつもりで金を取るなら金をもらったつもりで
 銭の音を聞いて戻らっしゃい」

といって鰻屋を追い返したそうであります。

さて近代の歌人齊藤茂吉は極め付きの鰻好きでありました。
彼は会食するする時にすばやく他人の鰻と自分の鰻の大小を見比べて、
時には「取り替えてくれないか」と相手にねだる事もあったと
齊藤茂太さんなどが書いています。

「 ゆうぐれし 机の前に ひとり居(お)りて

        鰻を食ふは 楽しかりけり 」 
                   齊藤茂吉 (ともしび)より

                                             以上
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by uqrx74fd | 2010-07-18 09:29 | 動物

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