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万葉集その二百八十 (防人:さきもり)

防人とはその名の通り「み崎を守る人」、沿岸警備兵のことです。

663年、百済救援のために派遣した日本軍が朝鮮、白村江(はくすきのえ)の海戦で
唐、新羅の連合軍に空前の敗北を喫しました。

危機感を抱いた大和朝廷は唐軍侵攻に備え、北九州沿岸、壱岐、対馬に
防人と烽火(のろし)台を配置し、内陸には水城(みずき:水を貯えた堤防)や山城を築いて
防備を固めます。

防人は東国の農民の中から派遣され、中央政府が割り当てた人数を国司が指名し、
選ばれた者は自前で武具を調達、道中の食料を持参し、部領使(ことりつかい)
という役人に引率され、野宿をしながら遠く難波津まで連れていかれました。

難波で中央政府官人の検閲を受けた後、官船で瀬戸内海を経て
那大津(なのおおつ:博多)に到着。直ちに北九州、壱岐、対馬に配置。

そして、平時は人気のない海浜や離島で自給自足生活を送り、万が一敵侵攻の場合は、
援軍もない状態で全員戦死の覚悟で臨んでいたのです。
任期は3年。玄界灘の強風の中での生活はさぞ辛かったことでしょう。

755年、兵部省の高官であった大伴家持は防人が東国から難波津に向かったとき、
これを検閲することになり、国府に対して防人歌を提出する事を命じました。
提出された歌は166首にのぼりそのうち82首が拙劣歌として切り捨てられ、
84首が万葉集巻20におさめられています。( 別巻にも防人歌があり、総数98首)

こうした家持の配慮がなければこの様に多くの防人の歌とそれによって明らかになった
歴史の実態を我々は知ることが出来なかったことでしょう。

防人の階級は上から 国造(くにのみやっこ)、助丁(すけよぼろ)、帳帳主、火長、
上丁(かみつよぼろ)、防人、とよばれ、万葉集巻20の防人歌にはすべて出身国と
階級が付されています。

「 ふたほがみ 悪(あし)け人なり あたゆまひ
    我がするときに 防人にさす 」

    巻20-4382 大伴部広成(おほともべのひろなり) 下野の国那須の防人


( 布多富「ふたほ」の里長はたちの悪い人だ。
  急病でおれが苦しんでいるのに防人に指名しやがって )

「ふたほ(布多富)」は地名、 那須の郡の村落(里)  「かみ」は上:その村の長 
 「あた」:急 「ゆまひ」:やまひ(病)が訛ったもの

作者は日頃、里長と折り合いが悪かったのでしょうか。
個人的な腹いせから不公平な人選も行われていたことを伺わせる一首です。

「 韓衣(からころむ) 裾(すそ)に取り付き 泣く子らを
    置きてぞ来ぬや 母(おも)なしにして 」

  巻20-4401 他田舎人大島(をさたのとねりおほしま) 信濃の国造


( 韓衣の裾に取りすがって泣きじゃくる子ら、母親もいないのに
その子供たちを置き去りにして出てきてしまった。あぁ。)

妻に死なれ男手一つで子供を育てているにも係わらず、出征を強いられた男。
集団の最高責任者、国造(くにのみやっこ)という立場から已む無く泣き叫ぶ子を
振り切って旅立つ断腸の思いがひしひしと伝わってくる一首です。

韓衣;大陸風または外出用の衣服。ここでは兵士の官服か。

防人はなぜ近くの西国から徴発しないでわざわざ東国に求めたのでしょうか?
その理由は、① 武勇にすぐれていたこと ②地域が広く人口が多いこと 
③ 逃亡の恐れがない、万が一逃亡しても東国訛りが強いのですぐ発見できる。
などが挙げられています。

「 我(わ)ろ旅は 旅と思(おめ)ほど 家にして
    子持ち痩すらむ 我が妻(み) 愛(かな)しも 」
           巻20-4343 玉作部広目  駿河の防人


( 自分の旅は辛くともこれが旅だと諦めているけれども、家に残って
 子供を育てている妻は苦労で痩せてしまっていることだろうなぁ。 
 あぁ-。 いとおしいお前。)

「貧しくとも誠実な中年農民の姿がありありと眼前に浮かんでくる」(佐佐木信綱)
一首で自分の境遇を率直に詠いあげています。

「 国々の防人集い 船(ふな)乗りて 
    別るを見れば いともしべなし 」

    巻20-4381  神麻続部島麻呂(かむをみべのしままろ)  河内の国上丁


( 国々の防人たちが集まり、船に乗って遠く別れてゆくのを見ると
 なんともやりきれない思いがするよ )

難波津から船で出てしまえばもはや運命は自然に任せるしかありません。
権力の前に如何ともしがたい言いようのない絶望感がひしひしと伝わってきます。

「 今日(けふ)よりは かへり見なくて 大君の
   醜(しこ)の 御楯(みたて)と 出で立つ我れは 」

  巻20-4373 今奉部与曾布(いままつりべのよそふ) 下野の国の火長


( 今日からは後ろなど振り返ったりすることなく、つたないながらも
 大君の御楯となって出立してゆくのだ。おれは!)


防人歌のほとんどは肉親との別れの悲しみ、望郷の想いを詠い、出征に前向きの
心意気を示すものはほとんどありません。

この歌は数少ない中の一首ですが、作者は火長という立場上、出立の儀式の宣誓式で
音頭を取ったものと考えられ、「かへり見なくて」には深刻な悲壮感が漂って
いる(伊藤博)ようです。

註. 火長:兵士10人の長。火は同じ釜の飯の意か。

先の戦争で「現人神」「皇御軍士」(すめらみくさ:天皇の兵士)と詠われている歌
とともにこの歌は忠君愛国の士気を鼓舞するため軍部に大いに利用されました。
万葉集の作者の真の心情をまげて誤用、悪用されたのです。
そのため戦後万葉集を忌避する人たちが多く出てしまったことは実に残念なことです。

「 防人の 妻恋ふ歌や 磯菜摘む 」    杉田久女

家持が防人歌の提出を命じた目的は

『 効率が悪く、諸方面において疲弊が甚だしい、しかも怨嗟の声が多い
東国防人制に固執するよりも、徴兵交代が容易であり、機動性も増す
西海道七国からの徴兵策への軍備再編制にあった。そのための実情把握
であったのではないか』との指摘もなされています。
                    (山口博:万葉集の誕生と大陸文化 角川選書)

「 海原(うなはら)に霞たなびき 鶴(たづ)が音(ね)の
    悲しき宵(よひ)は 国辺(くにへ)し思ほゆ 」 
                    巻20-4399 大伴家持


( 海原一面に霞がたなびき 鶴の鳴き声が悲しく聞こえる夜は
 ひとしお故郷が思い出されることだ。 )

家持は苦しむ防人に同情し、自ら防人の立場に立ってその悲しみを詠いました。
そして757年。100年以上続けられた東国徴兵は廃止されます。
家持が防人の歌を集めてから2年後のことでした。

「 兵隊とは地の果ての人間だ。
  兵隊とは、光栄ある囚人の世界に過ぎない。」

田辺利宏 ( きけ わだつみのこえ 岩波文庫より)


以下はご参考; 本稿関連作品(既出) 「現人神の登場」、「住吉の神様は現人神」

万葉集その百五十(現人神の登場) 

672年、古代最大の内戦「壬申の乱」が勃発しました。
天智天皇の後継者である大友皇子と天智の弟大海人(おおあま)皇子との甥叔父間の
皇位継承争いです。
近江朝から見れば大海人は賊軍。大義名分が不可欠となった大海人は
「我こそ皇祖天照大御神の直系の正統なり。我軍は神に守られた軍団であるぞ」
と声高に味方の士気を鼓舞します。

当時、兄弟間の皇位相続が多かったことに加え、大友皇子の母が身分が低い采女であった
ため(大海人の母親は斉明女帝)このキヤッチフレーズに多くの豪族が共感し
大海人軍は圧倒的な勝利をおさめます。

乱平定後、天武天皇として即位した大海人は、声高らかに次のように讃えられます。

「 大君は神にしませば赤駒の
     腹ばう田居を都と成しつ 」 巻19-4260 大伴御行(家持の祖先)


( わが大君は神であり、超人的なお方であるぞ! 強靭とされている赤馬でさえも
 動くのに難儀していた泥沼の湿原地を都に造り変えられた。)

この歌が天皇を神と詠った最初のもの(他に一首あり)で現人神登場の序章です。
天武天皇はさらに「古事記」「日本書紀」の編纂を開始して天孫降臨と
「天照大神の子孫が日本の国の王となるべきものである」という天照大神のお告げ、
いわゆる「天壌無窮の神勅」を創作し皇位継承の正当性の裏付けとします。

「 ちはやふる 神の御坂に 幣(ぬさ)奉(まつ)り
         斎(いは)ふ命は 母父(おもちち)がため 」
        巻 20-4402 神人部子忍男(みのひとべのこおしを)


( 神のいますこの御坂に幣を捧げ奉ります。どうぞ無事に国境をお通し下さい。
ほかでもない母父のためにも大切な私の命なのです)

   註:幣=五色の紙や布を細かく切ったもので紙吹雪のように撒く

天武天皇は政治基盤をより強固にするために律令制度を中心とした中央集権国家を
めざし天皇親政としました。

然しながらもう一つの大きな障害を乗り越えなければなりません。
それは「国つ神」とよばれるそれぞれの土地の神々の存在です。当時、土地を通行する
旅人の半数を殺したという恐ろしい神もいたのです。(播磨風土記)
人々は国境を越えるたびに幣を供えて旅の安全を祈り恐れ慄きながら旅をしていました。

中央集権国家の確立のために迅速な情報の伝達が不可欠です。そのために幹線道路を
整備し駅馬、駅舎を備えましたが通行する肝心の官吏が土地の神々を怖がっていたの
では話になりません。
そこで考え出されたのが神々の中央集権、つまり
「天皇が天つ神として地方の国つ神に君臨する」 という考え方です。

「 山川も依りて仕ふる神(かむ)ながら
     たぎつ河内に舟出せすかも 」 巻1-39 柿本人麻呂


( 山の神も川の神も天皇に御仕えする時代になりました。
  天上の神であられる天皇は今ここに吉野川の激流に船出なさろうとしています)

ここに至って天皇は、国つ神に君臨する絶対神へと昇華します。
時の天皇は持統女帝。自身を天つ神である天照大神(女神)に重ね合わせています。
その後、宮中儀礼行事のたびに群臣が列席する中「天皇は神」と詠われ、宮廷歌人
柿本人麻呂が大きな役割をはたしました。

それから30年後。律令国家としての政治基盤も安定し天平時代は最盛期を迎えます。
聖武天皇吉野行幸の折の山部赤人の歌からは「天皇は神」という言葉が消え、
自然の美しさを讃えながら皇室の繁栄を暗喩する内容に変化していきます。

更に藤原貴族の台頭による天皇の力を牽制する動きや仏教の興隆などにより現人神は
「三宝(仏法僧)に仕える奴」に転落し、完全に消滅するに至りました。
「現人神」は乱世における古代国家統一の手段として創造された産物であったのです。
 

                                          「完」
万葉集その二百十二(住吉の神様は現人神)

739年のことです。
名門貴族、石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ:父は元左大臣石上麻呂)が
不倫の罪で土佐に配流されました。
相手の女性は参議式部卿 藤原宇合(うまかい)の未亡人、久米連若売( くめむらじの わかめ)。
この事件は宇合死後一年半経過しており、本来ならば罪に問わるはずがないもの
ですが生前から噂があり、何かと世間を騒がせていたようです。
ただ、事の真相は不明で人望ある乙麻呂の失脚を図ったという陰謀説もあります。

「 大君の 命(みこと)畏(かしこ)み さし並ぶ 国に出でます
  はしきやし 我が背の君を
  かけまくも ゆゆし畏し  住吉(すみのえ)の現人神
  船舳(ふなのへ)に うしはきたまひ
  着きたまはむ  島の崎々   寄りたまはむ 磯の崎々
  荒き波 風にあはせず  障(つつ)みなく  病(やまひ)あらせず
  速(すみや)けく 帰したまはね    もとの国辺(くにへ)に 」
                        巻6-1020 1021 作者未詳


( 勅命をかしこんで承り、私の愛しい夫が海を隔てて並んでいる国(土佐)に
 配流されます。
  言葉にして申すのも憚(はばか)られ恐れ多いことでありますが
 人となって姿を現し給う住吉の神様!
 どうか船の舳先(へさき)に鎮座され、わが夫をお守り下さい。
 これからの船旅で到着する島々、寄航する崎々で荒波にも暴風にも遭遇せず、
 また不測の事故や病気にもなることがないよう。
 そして一日も早くこの国へお帰へし下さいませ )

さし並ぶ:土佐と紀伊は同じ南海道に属しかつ海を隔てて並んでいるという意味。
     四国へは和歌山市加太の港から出発したのでこのような表現となっている。
はしきやし:愛(はしき)やし、  かけまく:口に出す 
うしはき: 「領(うしは)きで占有する。 ここでは鎮座するの意」 
住吉の現人神:住吉の神は人の姿となって現れ舳先に立って航海を守るとされていた。

この真摯な祈りが届いたのでしょうか、
乙麻呂は2年後に赦免され、以降順調に累進を遂げたといわれております。

なお、この歌は第三者が歌物語風に仕立てたものと推定され、
歌番号が1020、1021となっているのは、当初「はしきやし 我が背の君を」までを
独立した短歌と見なされていた為とされています。

現在の住吉一帯は大規模な埋め立てにより昔の面影がありませんが、当時は
大社の前から遣唐使船などが出港し、わが国最古の国際港にしてシルクロードの
玄関口でもありました。

住吉神社は海神である上筒之男(うわつつのお)、中筒之男(なかつつのお)、
底筒之男(そこつつのお)の三神と神功(じんぐう)皇后を合祀しており、
四座の神殿はすべて西の海の方向に向かって鎮座されています。

男神三神の名の真ん中の「筒」は星の古語「星(つづ)」で古代航海は夜空の星を
頼りにし星を神と崇めていたことによるものだそうです。

住吉の神は古代から現在にいたるまで「航海の守護神」であると共に
「住吉に歌の神あり初詣」(大橋桜披子)と詠まれているように「和歌の神」
さらには「田植の神」(住吉のお田植神事)としても知られております。

さて、その住吉の現人神が後年思わぬ人助けをなさいます。

昭和10年、一木喜徳郎、美濃部達吉の天皇機関説に端を発する軍部による
言論弾圧は日ごとに激しさを増していました。
(註:「天皇機関説」:国家の統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関で
あるとする憲法学説)

そのような時、作家の久米正雄が新聞に満州国皇帝 溥儀(ふぎ)を
「アラヒトガミ」と形容した記事を掲載し不敬罪に問われそうになる事件が発生します。

『 久米は文学報国会の現職の事務局長なので不敬を問われて辞任したとなれば
  どこまで累が及ぶか分らない。
  そのとき口を開いたのが折口信夫だった。

「 私どもの方から申しますとアラヒトガミという言葉は決してカミゴイチニン
だけを申し上げるのではございません。」
( 作者註:カミゴイチニンの「カミ」は「お上:天皇」)


このあと折口はアラヒトガミというのは生き神で今では天子さま(天皇:作者註)
お一人指すというのが普通だが古代においては違う。
神性を表す一つの言葉に過ぎないから固定的に天皇のみに用いるわけではない。
住吉の神という例が万葉集にもある。と述べたのである。
事態はこの折口の発言により沈静化した。 』 


              (上野誠 魂の古代学より要約抜粋 新潮選書)

  泣く子も黙る軍部を沈黙させた万葉集と住吉の神様恐るべしです。

                                              以上

by uqrx74fd | 2010-08-15 07:47 | 生活

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