万葉集その二百八十四(むろの木=ネズ)

「むろの木」はヒノキ科ビャクシン属の針葉樹で「実が多くつく」すなわち「実群(みむろ)」の
意からその名があるといわれています。
葉は硬質。鋭く尖っており触ると痛いので、昔の人は鼠の通り穴に置いてその出没を
防いだことから「ネズミサシ」、「ネズ」の別名があり、漢方ではその実を
杜松子(としょうじつ)といい利尿、リュウマチに薬効があるそうです。

「 我妹子(わぎもこ)が 見し鞆の浦の むろの木は
      常世(とこよ)にあれど 見し人ぞなき 」 巻3-446 大伴旅人


( 旅の途中、愛する人とともに見た鞆の浦のむろの木は今も変らず聳え立っている。
 それなのに、あの人はもうこの世にいないのだ。)

「 鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに
        相見し妹は 忘らえめやも 」 巻3-447 大伴旅人


( 鞆の浦の海辺の岩の上に生えているむろの木。 
この木をこれから先も見ることがあれば、その都度、共に見たあの人のことが
思い出され、決して忘れることはないだろうよ )

727年の暮、大伴旅人は妻、郎女を伴って大宰府に赴任する途中、鞆の浦に
寄航しました。
そこには霊木とされる「むろ」の巨木があり、二人は旅の安全と長寿を願って
敬虔な祈りを捧げます。

ところが長旅がたたったのでしょうか。
任地に赴任して幾許(いくばく)も無いうちに最愛の妻が逝ってしまったのです。
茫然自失し悲嘆に暮れる作者は既に63歳。
心の痛手を紛らわすため、酒と歌の日々を重ねます。

それから3年後。
大納言に昇進した旅人は都に戻る途中、再び鞆の浦の港で「むろの木」を仰ぎみました。
「 常世を思わせるような幾百星霜をも経た常盤の緑をたたえた巨木は3年前と
少しも変わっていない。
それなのに一緒に祈った妻はもういない。あの祈りは効果がなかったのか。 」

恨みの一言も言いたかったでしょう。
切々たる哀愁、追慕の念、寂寥感が私達の胸に迫ってまいります。

『 大木になった磯のむろの木を見上げながら、生々たる大自然の悠久に対比する
人間のあわれさに、しみじみと亡き人への慕情を訴える旅人の心の波は、
きらきら光る海にかこまれた、鮮明な鞆の海景のなかの、そこの磯鼻、
ここの浜辺にも、感じとることができるのだ。

時はすぎてゆき、逝ってしまった愛する人の二度と帰らぬ歎きは、
鞆の浦の旅人にはかぎらないのだ。
旅人は、みずからがその翌年7月25日、67歳をもって世を去ることは、
夢にも思わなかったところであろう。』 
(犬養孝 万葉12ヶ月 新潮文庫より)

「 しかし旅人の抒情は青年のようにみずみずしい。
万葉の限りもない魅力 」(伊藤博) の歌々です。

旅人が詠った磯の巨木は中世末期にはすでに跡形もなくなっていたらしく、
豊臣勝俊は「九州の道の記」で
「今は あとかたも はべらねば さだかにしる人も さぶらはず 」と述べています。

然しながら、福山市金江町の丘に、幹の太さ4,5m、推定樹齢1700年の
むろの大樹(天然記念物)があり、当時の面影を伝えてくれています。

「 みさごゐる 磯辺に立てる むろの木の
   枝もとををに 雪ぞつもれる 」    源実朝


鞆の浦に行った事がない実朝が「むろの木」を詠ったのは、万葉集を
よく学んでいたからかと思われます。
夫婦仲が良い「みさご」を枕詞に用いているのは大伴旅人夫妻を偲びながら
詠んだものでしょうか。

鞆の沼名前(ぬなくま)神社の境内に我国プレハブの元祖、組立式の能舞台があります。
桃山時代、豊臣秀吉が将兵の退屈を慰めるために戦場へ持ち運び、茶の湯や
能を楽しんだ名残とされていますが、その舞台で、大伴旅人の万葉歌を
題材にした「鞆のむろの木」(帆足正規作)が折に触れて演じられているそうです。

「 この丘に来て はしなくも 香ににほふ
        むろの若木を 見出でつるかも 」  若山喜志子

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by uqrx74fd | 2010-09-12 08:50 | 植物

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