万葉集その二百八十五(平城遷都)

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  ( 上記写真は復元された大極殿 右上は朱雀門 :筆者撮影)

「 あをによし 奈良の都は 咲く花の
   にほふがごとく 今盛りなり 」 巻3-328 小野 老(おゆ) (既出)


奈良の都といえば大極殿、朱雀門に代表されるような瓦葺の大屋根、丹塗りの柱に
白壁といった豪壮かつ美しい建物や幅74mにもおよぶ朱雀大路を中心に
碁盤目のように整然と区画された街が思い起こされます。

そこには皇族貴族の豪邸、大寺院が甍を並べ、それを取り巻く周辺には
官人から庶民にいたるまでの大小さまざまな家々。
柳が植えられた街中は東西の市で賑わい、美しく着飾った人々が行き交う。
平城京跡に立つと今にもそのさんざめきが聞こえてきそうです。

708年、即位早々の元明天皇は突如遷都の詔を発しました。
姉、持統天皇が造営した藤原京を廃し、唐の長安を範とした新都を造営するというのです。
都の場所は奈良盆地の北端の地、平城。
東、北、西、の三方はそれぞれ春日山、奈良山、生駒山が聳え立って都の鎮めとなし、
南は平野が開け、東に川が流れる理想的な地です。
さらに瀬戸内海に面した難波に繋がる木津川、大和川の水運を利用できるのも
都選定の大きな要素となったようです。

2年間の準備期間を経た710年、天皇は遷都を決行します。
藤原京をあとにした行列が長屋原(天理市)にさしかかったとき、女帝の御輿が
にわかに停止しました。

「 飛ぶ鳥 明日香の里を置きて去(い)なば
     君があたりは 見えずかもあらむ 」  巻1-78 元明天皇 


( 飛ぶ鳥の明日香の里よ。
  この里をあとにして行ってしまったなら、あなたのいらっしゃるあたりは
  もう目にすることが出来なくなってしまうのではないだろうか。)

長屋原は藤原京と平城京の中間の地。
女帝はこの場所で50年間過ごした明日香古京と決別し平城京の領域に進むのです。
御輿のすだれをあげて遥か南方を望むと畝傍山が見え、その左に低く真弓の
山並みが続いています。
真弓の丘の一角には即位する事なく逝った最愛の夫、草壁皇子が眠っているのです。

二人の間に生まれた文武天皇も早世し、自らの慌しい即位。
亡き天武、持統天皇とも過ごした故郷を振り返る女帝の胸には万感の思いが
去来したことでしょう。

女帝は当初この遷都に気乗りしなかったようです。
そのことは、708年に発せられた詔にある、
「 宮を新しく作る者は労が多く、宮に居住する者は楽をするのだから
今急いで都を遷(うつ)す必要がない。
しかし、私は臣下のものの考えに沿う」という言葉からも伺えます。

天皇は何故自らの意に反した遷都を決意されたのでしょうか?
人口の急増で藤原京が手狭となり、それに伴う下水道処理能力が限界に達したこと、
あるいは、相次ぐ後継者の死による天皇の政治基盤の弱体化など、さまざまな
理由が挙げられていますが、最大の要因は隆盛する唐の影響があったものと思われます。

702年、33年ぶりに第7次遣唐使が派遣されました。
2年後に帰国した遣唐使長官、粟田真人から報告を受けた女帝や政府高官は
唐の繁栄振りと長安城の威容に比べて藤原京はあまりにも貧弱で都城としての
要件に欠け、このままでは国家権力の維持が危ういと感じたようです。

粟田真人も「対外的にも天皇の権威を誇示し、国家統一を象徴する都の造営を
急がなければ外国使節が来日したときに国威が損なわれる」と強調したことでしょう。
当時の朝廷の実力者であった右大臣藤原不比等は、古くからの豪族が多く住む
藤原京からの遷都は自身の権力確立の絶好の機会と諸手をあげて賛成した
ものと推察されます。

註: 上記歌の「飛ぶ鳥」は明日香の枕詞。686年朱鳥を献ぜられた天武天皇はこれを
    瑞兆として元号を朱鳥(あかみどり)に改元し、宮号に飛鳥を冠せられたことに由来。

「 大君の命(みこと)畏(かしこ)み  にきびにし家を置き
  こもりくの泊瀬(はつせ)の川に 舟浮けて
  我が行く川の 川隈(かはくま)の  八十隈(やそくま)おちず
  万(よろず)たび かへり見しつつ 玉鉾(たまほこ)の  道行き暮らし 
  あをによし 奈良の都の佐保川に い行き至りて- - 
                             巻1-79 作者未詳


  或本 藤原の京(みやこ)より寧楽(なら)の宮に遷る時の歌

( 我が大君の仰せを恐れ多くも謹んでお受けし、馴れ親しんだ我家を
  あとにいたしました。
  山深い初瀬の川に 舟を浮かべて出発し、 
  行く川の多くの曲がり角ごとに  
  幾度も幾度も故郷を振り返り
  漕ぎ進んでいるうちに日も暮れてまいりました。
  そして、青丹が映える奈良の都の佐保川にたどり着いたのです。)

「にきびにし」:馴れ親しんだ  「川隈」(かはくま):川の曲がり角
「こもりく」、「玉鉾」、「あをによし」はいずれも枕詞

遷都には泊瀬川と佐保川の水運が利用され、人々は旧都明日香や藤原京から
多数の建物を解体し平城京に運びました。
そのことは、平城京跡から出土された柱の根元に穴があり、それが筏を組むために
縄を通した痕であったことからも裏付けられています。

また、宮の建物の中心であり、元旦の朝賀や天皇の即位、国家的儀式が行われる
大極殿造営に必要な資材は瓦をはじめ、再利用できるものはすべて藤原京から
移築されました。
勿論、資材はこれだけでは足りず、近隣から木材をはじめさまざまな物資が陸路や
水運を利用して運ばれ、新都に使われた瓦は実に500万枚と推定されています。

藤原京大極殿の解体は遷都当日に着手し、平城宮新殿の完成は5年後の
715年頃であったようです。
遷都が実行されたというと、そのときには新しい都が出来上がっていたと
思われがちですが、実はそうではなく大寺院などの移築、新築などを含めると
729年頃まで20年近くも工事が続けられ、その間都は槌音が絶えなかった
ことでしょう。

完成した平城京の中心である平城宮は京の北中央にあり、約1km四方の正方形に
東の張り出し部分を加えた形になっており、現在の奈良市中心部や東大寺、
興福寺、春日神社はその張り出し部分にあたります。

宮城の中心部分に大極殿二棟、その関連の建物群、天皇の居住所である内裏、
さらにその周辺には多くの役所の建物が立ち並んでいました。
平城宮は築地塀で囲まれ、各所に出入りする門があり、大路に面する中央に朱雀門、
ここから南へ真っ直ぐ伸びている道が朱雀大路で京の入口羅生門まで続いています。

朱雀大路の幅員(はばひろ)は74m(含側溝)。街路樹として柳や槐(えんじゅ)が植えられ、
その東西南北に水路が張り巡らされていました。
大路を中心に東を左京、西を右京と大きく分けられ、碁盤目状に整然と区画された
堂々たる計画都市です。

当時の日本の総人口は約600万人。そのうち約10万人がこの都に居住していたと
推定されており、官庁の勤務者は8000人~10,000人。
平城京全体の広さは20,64平方キロ (東西約4,3km南北約4,8㎞)。
ちなみに範とされた長安は83,16平方キロ(東西9,9㎞ 南北8,4km)の広さで
総人口4120万人のうち約120万人が都に居住していたとされます。

平城京は長安の4分の一の規模ながら一人あたりの人口比では三倍近くも
広かったのです。
かくして古代最大規模の都は大仏完成とともに天平文化の華を咲かせて繁栄を極め、
1300年後の今日までその面影を伝えてくれています。

「 奈良七重 七堂伽藍 八重ざくら 」  芭蕉

この句は下記の歌を踏んだものです。

 「 いにしへの 奈良の都の八重桜 
          けふ九重に にほひぬるかな 」 

                  伊勢 大輔(いせのたいふ) 古今和歌集 

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by uqrx74fd | 2010-09-19 08:00 | 生活

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