万葉集その二百九十一(ちちの木は銀杏)

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                     (奈良二月堂近くの大湯屋の銀杏)

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             ( 奈良県御所市 一言主神社の乳銀杏 樹齢1200年)

夏の終わりまで青々としていた銀杏の葉は、秋の深まりとともに黄緑色となり、
やがて輝くような黄金色に包まれます。
夕日にあたる黄葉は華やかで明るく、その散り敷いたさまは豪華絢爛。
この世のものとは思われない夢の絨毯のです。

「 金色の ちひさき鳥のかたちして
    銀杏(いてふ)散るなり 夕日の岡に 」 与謝野晶子


イチョウが地上に出現したのは中生代ジュラ紀(1億5000万年前)の初期とされて
いますが何らかの理由により絶滅し、その後長い年月を経て再び出現したものと
推定されています。
イチョウは中国が原産とされていますが、わが国でも石川県能美郡の手取層、
北海道の石炭層、岩手県久慈市の地層などから「イチョウ葉の化石」が発見されて
おり、有史以前から存在していたようです。

現在、わが国では樹齢1200年以上のものが現存し、中でも仙台市宮城区銀杏町大銀杏
(樹齢1200年)、青森県西津軽郡深浦町の「垂乳根の銀杏」(樹齢1000年以上:
幹周り22m、高さ31mは国内最大とされている)は共に国の天然記念物に
指定されています。

大イチヨウが他の樹木と著しく違う点は、幹や枝から垂れ下がった「乳」とよばれる
突起があることで、それは乳銀杏とよばれ古代から霊力があり生命力を宿すものとして
崇められてきました。

古代の人たちは「イチョウ」を「ちち(乳)の木」とよび、乳が十分に出ない母親は
子供が健やかに育つよう、この木に祈ったのです。

「 ちちの実の 父の命(みこと)  ははそ葉の 母の命(みこと)
  おほろかに 心尽くして 思ふらむ
  その子なれやも ますらをや 空しくあるべき

  梓弓 末(すゑ)振り起こし 投矢持ち 千尋(ちひろ)射わたし
  剣太刀 腰に取り佩(は)き あしひきの八つ峰(を)踏み越え
  さしまくる 心障(さや)らず

  後の世の 語り継ぐべく 名を立つべしも 」 
                                   巻19-4164 大伴家持

「 ますらをは 名をし立つべし 後の世に
   聞き継ぐ人も 語り継ぐがね 」    巻19-4165 大伴家持


「ははそ」葉:「コナラ」の葉 「おほろかに」:いいかげんに
「さしまくる」指し任くる:任命する 「心障らず」:心に背くことなく

「 チチの実、ははそ葉 。
  それはわが尊敬する父上、母上の名。
  その「ちち」「はは」は、私を懸命に育てて下さいました。
  そのような私はそんなに不甲斐ない子でしょうか。
  いやいや、そんなことがあろうはずはありません。
  ますらをたる者 日々空しくこの世をすごしてよいものでしょうか。
  いやいや、そんなことが許されるはずもありません。

  私は、梓弓の弓末を振り起こして千尋のかなたへ矢を射かけ
  剣太刀をしっかり帯びて、あまたの嶺を踏破しながら
  信頼して任命して下さったお上の期待に応えるべく懸命に働くのです。
  そして後の世に語り継がれるよう名を立てるべきなのです。   ( 巻19-4164)

「 ますらをたるものは名を立てねばならない。
 後の世に聞き継ぐ人も、ずっと語り伝えてくれるように 」 (巻19-4165)

この歌の詞書に「勇士の名を振はむことを慕(ねが)ふ歌」とあり、山上憶良の
立志の歌(末尾ご参照)を参考にして、衰退していく大伴家の再起を願い自らを
奮い立たせたものと思われます。

藤原氏の台頭とともに衰えてゆく家運。最大の後ろ盾、聖武天皇、橘諸兄亡き後、
孤軍奮闘空しく昔日の栄光は望むべくもありません。
作者はもはや「プライドを保つだけが精一杯」という心境であったことでしょう
残された道は「武家の棟梁」ではなく「歌人」の道しかありませんでした。

この歌の「ちちの実」はイチジク、イヌビワほか諸説ありますが
イチョウが有力との推定がなされています。
万葉時代の銀杏に関する文献がなく、当時まだ存在していなかったのでは?
といわれていましたが、
『 樹齢1200年以上ののイチヨウが多く確認され、その存在が
確実視できことと、銀杏には“ちちの木”の別名もある 』ことが根拠です。

 ( 万葉植物事典  大貫茂 クレオ社、: 花の歳時記:淡交社 )

   「 明るさの 銀杏紅葉を 夕景に 」   稲畑汀子

「ご参考」

万葉集その百一(名を立てる)

「 互いに 睦みし 日頃の恩  
 別るる後にも やよ忘るな
  身を立て 名をあげ やよ励めよ 
  今こそ別れめ いざさらば 」       (仰げば尊し 2番)

今や卒業式のシーズンです。
この歌や「蛍の光」を聞くたびに幼き頃の師や友が懐かしく思い出されます。

今から1270年前、山上憶良は「身を立て 名をあげ」を「名を立てる」という言葉で
表現しました。

「 士(をのこ)やも 空しくあるべき 万代(よろずよ)に
    語り継ぐべき 名は立てずして 」 巻6-978 山上憶良


733年、当時74歳の憶良は重病に陥ります。
藤原八束(やつか:藤原房前左大臣の第3子)にとって憶良は親しく指導を受けている
師匠とも言うべき人でした。
早速お見舞いの使いを遣ります。
八束の見舞いの言葉を聞き、憶良は涙が溢れ出て止まりません。 ややあって涙をぬぐい、

( 自分の74年間の生涯を振り返ってみて、これといったことを何も
していないではないか。
  後世に語り継がれるような名を残すことが出来ずに、むなしく終わってしまって
よいものだろうか。誠に残念だ )  と言うのです。

これは自分自身に対する言葉であると同時に門弟八束に対する訓戒(伊藤博)でも
あったようです。
憶良は701年に遣唐使の書記に任命されて大陸に渡り、帰国後、鳥取伯耆国守、
聖武天皇東宮の家庭教師、筑前国守を歴任し、歌の世界でも万葉集を代表する
歌人の一人でありかつ当時の漢籍の素養の第一人者でもありました。

これだけの人物にしてこの言葉、いかに憶良の志が高かったか、その気概のほどを
ひしひしと感じさせられます。

当時19歳であった藤原八束は公明正大にして明晰な人物でした。
やがて上下の信望を一身に集めた立派な政治家に成長し、後の摂関家はすべて
この門流から輩出します。
憶良の立名の志は藤原八束によって受け継がれ、見事な花を咲かせたといえましょう。

明治35年、石川啄木は盛岡中学を中退した後に

「 友はみな 或る日 四方に 散りゆきぬ
     その後八年(やとせ) 名挙げしもなし 」
  
と嘆きます。
しかしながら、彼の名は没後に揚がり、後世不滅のものとなりました。
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by uqrx74fd | 2010-10-31 09:25 | 植物

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