万葉集その二百九十六(神風)

(神風展パンフレットより :靖国神社遊就館)
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「 神風が吹いた!」
今日、思わぬ僥倖が発生した時に使われているこの言葉は、古代「伊勢」という
地名に関連してのみ用いられていました。

「伊勢国風土記(逸文)」によると、
その昔、神武天皇の命によって天日別命(あめひわけのみこと)が伊勢国を平定した時、
土地の神・伊勢津彦は恭順の意を示すため国土を献上し、大風を起こして波浪に乗り
東方へ去って行ったので、この地を「神風の伊勢」と呼ぶようになったといわれています。

この伝説は、伊勢は暴風の国であり、伊勢神宮鎮座以前に土着の神・伊勢津彦が
存在していた事を物語っていますが、壬申の乱を契機として伊勢神宮と密接に
結びつけられていきます。

672年6月近江朝との戦いを決意した大海人皇子(おおあまのみこ)は吉野を出て
伊勢に向かいました。壬申の乱勃発です。
翌日、伊賀を経て四日市市北部の朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかわ)に到着した
皇子は遥か南方の伊勢の天照御大神を遥拝し戦勝と武運長久を祈願しました。
その霊験はあらたかで、戦闘中に暴風雨が吹き荒れて敵を惑わせ、
長子、高市皇子(たけちのみこ)を総司令官とする吉野軍は近江軍に大勝します。

大海人皇子は若い頃から天文、遁甲(とんこう:身を隠す術)をよくしたといわれ、吉野を
脱出したその日の夜、名張(三重県)の横河で大きな黒雲が天に立ち上がるのを見て
自ら式占を行い、自分が天下を得ると占ったそうです。

戦いに勝利した大海人は即位し天武天皇誕生。
天皇は伊勢神宮からの神功の風に感謝の意を捧げるため大伯皇女(おおくのひめみこ)を
斎宮として天照御大神に奉仕させることに決定し伊勢に向かわせます。(673年)
ここに、天皇個人の守護神という性格を持つ伊勢神宮は天照御大神を皇祖神とする
国家第一の神社とされ、国により維持されることになりました。
そして、「神風は天照御大神の神意によって国家の危急を救うために吹く」という
思想をたどってゆきます。

「 神風の 伊勢の国にも あらましを
    何しか来けむ 君もあらなくに 」
           巻2-163 大伯皇女(おほくのひめみこ)


( 激しい風が吹く神の国伊勢にでもいたほうがよかった。
 どうして私は大和などに帰ってきたのだろう。
 わが愛する弟はもうこの世にいないのに ) 巻2-163

686年、天武天皇崩御され持統女帝が誕生。
女帝は天武との間に生まれたわが子草壁皇子を後継者にすべく腐心します。
そして最大のライバルであった甥の大津皇子を謀反の罪で処刑したのです。
仕組まれた冤罪とも言われている事件です。
大伯皇女は弟大津皇子が処刑されたことに伴い斎宮の任を解かれ明日香に戻ってきました。
ただ一人の弟を無残にも失った皇女の心中は察するに余りあります。
こみ上げる慟哭、やりどころない怒りが「何しか来けむ」にこもっているようです。

大津皇子が持統天皇に謀反という口実を与えてしまったのは、姉に会うため無断で
伊勢神宮へ行ったことでした。
国家と天皇の守護神である伊勢神宮に参拝する時は皇后、皇太子といえども
奏上して許可を得る必要がありました。
それを突然無断で訪れたのですから失脚を狙っていた持統側としては絶好の機会で
あったことでしょう。

なお、万葉集で「神風の伊勢の国」と詠われたのは、この歌が最初とされていますが、
単なる枕詞として使用され、そこにはまだ政治的な意味合いは含まれておりません。

「 - - 日の御子(みこ) いかさまに思ほしめせか
  神風の伊勢の国は 沖つ藻(も)も 靡(な)みたる波に
  潮気(しほけ)のみ 香(かほ)れる国に 
  味凝(うまこ)り あやにともしき 
  高照らす 日の御子 」
                   巻2-162 持統天皇 


( - 天下をあまねく支配されたわが大君
     大君はどのように思し召されて
    神風の吹く伊勢の国においであそばすのでしょうか。
    沖の藻が靡いて 波の上に潮の香りばかりけぶっている国に。
    私はただただあなた様を慕わしゅうございます。
    私の日の御子よ!   ) 巻2-162

この歌は693年9月天武天皇の命日に冥福を祈る供養が行われたとき
持統天皇が夢の中で詠み覚えた歌とされています。

壬申の乱で行動を共にし伊勢を廻って美濃に入ったときの難渋した忘れがたい思い出。
その際に天武が伊勢神宮を遥拝し、その加護あって勝利をえたことを持統天皇は
誰よりも強く認識していたことでしょう。

持統天皇にとって伊勢神宮は天武と一体となって苦渋を乗り越えさせた給うた
偉大な太陽の神のいますところ。
その神に誘われるごとく天武の霊魂は「神風の伊勢」にいますという。
しかしそれでも愛するわが夫(つま)はこの明日香、わが側にいて欲しいと
切々と詠っています。

「- - 渡会(わたらひ)の 斎(いつ)きの宮ゆ 神風に い吹き惑(まと)はし
  天雲を日の目見せず 常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて
  定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷(ふとし)きまして - - 」

               巻2-199 (長歌 一部抜粋) 柿本人麻呂


渡会(わたらひ) : 伊勢の国の郡名 伊勢神宮の所在地

696年、天武天皇の長子高市皇子が43歳をもって生涯を閉じました。
壬申の乱の折、父、天武天皇の下で吉野軍の総司令官となり獅子奮迅の働きをし
勝利に導いた功労者です。
皇子は母が卑しい身分であったため長子でありながら天皇になることが
出来ませんでしたが、天武天皇亡き後、持統女帝の信任厚く太政大臣として
活躍した温厚篤実な人物です。

万葉集の中で最長かつ格調高い名歌とされる人麻呂の挽歌は壬申の乱の
大海人皇子(のちの天武天皇)の活躍の部分でクライマックスを迎えます。                    

( 渡会に斎き奉る伊勢の神宮(かみみや)から吹き起こった神風の力で敵を惑わせ、
  その風が呼ぶ天雲は敵を日の目も見せずに真っ暗に覆い隠して混乱させ
  ついに平定なさった瑞穂の神の国。 
  この国をわが天皇(天武、持統)が神のままに統治あそばされ -) 巻2-199

かくして、伊勢地方の土着神は国家神である天照大御神と習合され、さらに伊勢を
度々襲う暴風の観念とが結び合わされて「神風の伊勢」すなわち
「国家存亡の時の神助の風」として固定されるに至ったといえましょう。
(注:習合=異なる神仏を折衷、調和すること)

このことは、近江朝に反旗を翻し本来ならば逆賊とされるべき天武の皇位継承の正当性を
補填すべく皇祖神天照御大神、さらには現人神を創作した思想と軌道を一にしており、
その演出には柿本人麻呂の力が大いに与っていました。
そして、朝廷の権威が確立した聖武天皇の時代以降、「伊勢の神風」と「現人神」は
共にその用例を見なくなったのです。

「 大海人の 駆けぬけし道 花大根 」 藤本安騎生

(  壬申の乱 大海人皇子(天武天皇)が吉野に蜂起。
  伊勢を経て不破から近江を南下した道を詠う )
 
エピローグ:

『 「元寇」とよばれる蒙古襲来は二度あった。
  二度とも同じ台風にあうわけだが、一度目は文永11年10月20日、
  二度目は弘安4年閏7月1日である。
  これを現行暦に直すと、弘安のほうは8月23日で台風シーズンだが、
  文永のそれは11月26日となりこの時期の台風はきわめて珍しい。
  当時の人も後世の人も、だからこそ「神風」と呼んだのである。

 「 神風もわが日本の武器のうち 」(柳143)

という川柳は天保年間(1830~44)の作かと思われるが、百数十年後これを
特攻という形で実行に移したのは頂けない。 』
                       ( 阿部達二 歳時記くずし 文芸春秋社 )
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by uqrx74fd | 2010-12-05 08:53 | 自然

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