万葉集その三百一(大仏開眼)

『 聖武天皇というひとは、われわれに東大寺と大仏を遺したひとである。
 奈良朝三代目のこの天皇はその後の日本の天皇からみるといかにも王者にふさわしい
 専制権をもち、即位した早々は累代つづいた律令体制の生産力が充実して、国家が
 富んでいた。 この富を一代で傾けるのである。

 しきりに土木を興し、都を奈良だけでは満足せず、生涯に何度も変えた。
 山城の木津川のほとりに恭仁京(くにきょう)を造営し、それが完成しないうちに
 近江甲賀の地に紫香楽宮(しがらきのみや)の造営を命じ、さらに難波京に移り、
 最後は奈良に帰ってくる。
 また諸国に命じて、国分寺と国分尼寺をそれぞれ造営させるという、気の遠くなる
 ような土木事業をつぎつぎおこす。
「唐の長安というのは大変なにぎわいです」と唐から帰ってきた僧玄昉(げんぼう)や
 吉備真備(きびのまきび)からその様子を聞き、唐文明のきらびやかさに眩惑されるところが
 あったのだろう。』 
                      ( 司馬遼太郎 街道をゆく: 甲賀と伊賀の道 朝日文庫)

743年聖武天皇は盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造営の詔を発しました。
曰く、「 天下の富と権勢を保有する者は天皇である自分である。
この富と権勢をもって尊像を作ることなどたやすいことであるが、大仏の御心に
かなう真の魂を注入するには、個々の集団のささやかではあるが自発的、平等的な
物心両面にわたる無償の奉仕が必要と考える。
よって、一枝の草や一握りの土のような僅かなものでも、これを捧げてこの事業に
協力したいと願うものがあれば心から歓迎する。
ただし、国司や郡司はこの事業のために民衆の生活を侵害したり、強制的に物を
徴収するような事があってはならない。」 (主旨要約)

日本書紀によると天皇がこの様な心境に至ったのは詔を発する3年前の難波宮行幸の折
河内の智識寺に立ち寄り、盧舎那仏を拝して大きな感銘をうけた事によるとされています。
智識とは仏に結縁(けちえん)するために田畑、穀物、銭貨、労働力などと差し出す
行為や同信の仲間、団体をさします。

「 あまたらす おおきほとけを きづかむと
    こぞりたちけむ いにしへのひと 」  会津八一


(宇宙に広く満ち広がる大いなる仏を造り上げようと、こぞり立ったであろう。
古えの人は)

聖武天皇は即位後次第に烈しくなってゆく政界の対立に悩まされていました。
藤原不比等死後、天皇親政を支持する橘諸兄と中心とする勢力と権力確立を狙う
藤原氏との対立。
藤原派による親天皇派長屋王謀殺。
天皇側近、玄昉、吉備真備に対する敵意と藤原広嗣の叛乱。
その最大の原因は皇嗣として娘の阿倍内親王を皇太子に立てたのに対して、
諸氏族は認めようとせず、政情が不安定だったことです。

権力をめぐる争いは次第に律令国家の存立にかかわる深刻な状態になりつつありました。
加えて農村にうち続く疫病と飢饉、戦乱、相次ぐ遷都による労力の負担による村の荒廃。
逃亡という形をとった農民の抵抗。
社会のあらゆる面で対立が激化する一方です。

天皇は世にも稀なる巨大な大仏を建立することによって抗争するエネルギーを吸収し
人心の統一をはかりたかったものと思われます。

この困難な工事に大いに力を発揮したのが市井の僧、行基でした。
当時、朝廷から迫害を受けていた行基は数千人の衆生を率いて道路をつくり、橋を掛け、
堤を築き、墾田をすすめ、更に孤児や病人を養う布施屋も作って人々を救済していました。
天皇は吉備真備の助言により行基に従う人の中から400人の出家を認め、全面的な助力を
求めたのです。
このことは大仏建立を成功に導く大きな鍵となりました。

「 ひんがしの やまべをけづり やまをさへ
    しぬぎてたてし これのおほてら 」  会津八一


( 平城京の東方の山のほとりを削り、山をさえ押しふせる様に建てたこの大寺よ)

744年、甲賀寺(滋賀県 紫香宮:しがらきのみや)初めて大仏の像体骨柱建つ
745年、放火による火災、地震、水害続発し遂に都を平城京に戻すことに決定
     同年金鐘寺(こんしゅじ:のちの東大寺)で原型組み立て本格的な造立を
     はじめる。

大仏が完成に近づいた頃、一大問題が発生していました。
像に塗るべき金がないのです。
海外からの輸入も検討していた矢先、749年、陸奥の国から金が産出したとの
報告があり、陸奥国守、百済王敬福(くだらのこにしき きょうふく)が管内の
小田郡から産した黄金が献上されました。
今まで国内で産出しなかった金が採掘できたのは百済系渡来人の技術が発揮されたものと
思われ、その知識や技術を持つ人材を陸奥に派遣していた用意周到な人事が功を奏したのです。 
( 現在、宮城県遠田郡:黄金山産金遺跡として遺されている。)

天皇は狂喜します。
産金は神仏が大仏を造立を祝って表出してくれたものと受け止めたのです。
そのことを寿ぎ、長大な詔を発せられました。
その詔の中で大伴家は累代天皇によく尽くしたと称えられ、感激した大伴家持は
長歌と短歌を詠み感謝の意を捧げます。

「 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あずま)なる
   陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く 」
                        巻18-4097 大伴家持 


(天皇の御代が栄えるしるしと、東の国の陸奥山に黄金の花が咲きました。)

大仏がようやく完成を迎えたのは造立の詔から9年経った752年のことでした。
塗金はまだ首から下は未完成でしたが天皇の健康状態が思わしくなく開眼供養を急ぎます。

その年の4月9日。
既に譲位していた聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇(阿倍内親王)をはじめ
百官が居並び、参集した僧尼は1万人。
開眼師はインド僧の菩提遷那(ぼだいせんな)。
春の麗らかな気候の中、美しい造花が無数に撒かれ、色とりどりの華やかな旗(幡:ばん)が風にはためく。
多くの鳥が放され、門前には数万の大衆。
さらに、シルクロードの国々の舞楽や音楽が奏せられるという国際色豊かな儀式で
「仏教伝来以来かかる盛儀はかってあらず」(続日本紀)と伝えられています。

「 東(ひんがし)の山人清み 新鋳(にひゐ)せる
    廬舎那仏(るしゃなぶつ)に 花たてまつる 」 (東大寺要録)

「 法(のり)の下 花咲きにたり 今日より
    仏の御法(みのり) 栄えたまはむ 」   (同)


開眼供養を詠った歌は残念ながら万葉集には残されておりません。
東大寺に保存されている上記の歌(他に一首あり)と漢詩のみ。
一体何があったのか? 万葉集の謎の一つとされています。

平城京で大仏造立と開眼供養を取り仕切ったのは藤原仲麻呂。
本来ならば歌を詠むべき大伴家持が詠わなかったのは、光明皇太后の庇護のもとで
専制甚だしかった仲麻呂に対する無言の抵抗だったのでしょうか?

今はただ、何事もなかったように御仏が静かに座っておられるのみです。

「 おほらかに もろてのゆびを ひらかせて
    おほきほとけは あまたらしたり 」 会津八一


 ( 大きく豊かに両手の指をお開きになって
  この大仏は宇宙に広く満ちひろがっておられるのです。)
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by uqrx74fd | 2011-01-10 08:54 | 生活

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