万葉集その三百四(国栖の里)

国栖(くず)の里は奈良県吉野川上流の山奥にあり古代は秘境ともいうべきところでした。
人々は今でも昔ながらの方法で楮の繊維を吉野川の水に晒して手漉きの紙を作ったり、
山から切り出した木を製材して生業を立てており、また「昆布」という変わった姓の人が
多いことでも知られています。

この地を訪れた谷崎潤一郎は、その著「吉野葛」(岩波文庫)で、

「史実による豊富な題材のうえロケーションが素敵で、渓流、茅屋(ぼうおく)があり
春の櫻、秋の紅葉、それらを取り取りにして面白い読み物を作れる」と述べています。

日本書紀によると
『 289年応神天皇が吉野に行幸されたとき、国栖人は酒を献上し、
歌舞を奏して歓迎した。
  その地は京より東南で、山を隔てて吉野川のほとりにある。
峰は高く谷深く道は険しい。
人々は純朴で日頃は木の実を採って食べ、また、蛙を煮て上等の
食物としている 』とあり、

天皇に奉納された歌舞は、手で口を打って音を出しながら歌の拍子をとり
上を向いて笑う独特の所作をするものであったらしく、それは、のちに
「国栖奏」(くずそう)とよばれました。
 
「 国栖(くにす)らが 春菜摘むらむ 司馬(しま)の野の
       しばしば君を 思ふこのころ 」 
                            巻10-1919 作者未詳


( 国栖人たちが 春の若菜を摘むという司馬の野。
  その名のように しばしば貴方のことを想うこのごろです )

 古代、国栖は「くす」または「くにす」とよばれていたようです。
 うら若き乙女は男に一目ぼれしたのでしょうか?
 眼(まなこ)を閉じ、うっとりと夢見ているような感じのロマンティックな一首です。
 司馬」の野は国栖付近の地と思われますが所在は不明。

 「 みよし野の 山のあなたに やどもがも
      世のうき時の かくれがにせむ 」 
                    読み人しらず 古今和歌集


( あの遠い吉野の山の なお向こうに宿るところが欲しいものだ。
 この世が厭になったら隠れ家にしょうと思うので- 。)

以下は 白州正子著 かくれ里 (新潮社)からです。

『 吉野は古くから伝統的な「かくれ里」であった。
  天武天皇が壬申の乱にいちはやく籠られたのは有名だが、西行も義経も
 南朝の天子方も、近くは天誅組の落人に至るまで「世のうき時」に
 足が向かうのはいつも吉野の山奥であった。
 いうまでもなく地理的な理由によるものだろう。
 大和へも河内へも伊勢へも近く、南は熊野へ通じる山つづきで、
 しかも険阻なことこの上もない。
 攻めるに難く、守るに易い要害の地であった。 』
                  

大海人皇子(おおあまのみこ)が近江で兄、天智天皇と決別し
吉野の浄見原(きよみがはら)に籠ったとき、国栖の翁たちは栗やウグイ(鯉科の魚)を持ち寄り、
舞を奏して皇子を慰めました。
皇子は大いに喜び、戦い勝利の暁には宮中に招待すると約束します。
壬申の乱ののち、即位して天武天皇となった皇子はその約束を果たし、都に招かれた
国栖の翁たちは宮中で舞を奉納し、その後も宮中の大嘗祭と元旦の節会の儀式に
毎年奏せられるという栄誉を担いました。

国栖奏は今なお引き継がれて、毎年旧正月の14日(本年は2月16日)に吉野川上流、
天武天皇を祀る「浄見原神社」で奉納されています。

『 舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導かれてあらわれる。
 桐竹鳳凰の紋を青摺りにした装束は川風になびき、冠、木沓(きぐつ)、
 芍(しやく)もここでは特別な気がしない。
 淵の上の細い石段をのぼると拝殿の屋形が作られ、その奥の岸壁に高く
 天武天皇がまつられ、岩の上に神饌物たる生きたカエルやウグイが
 供えられているのだ。
 右手に鈴、左手にサカキを持った二人の舞翁がこの岩陰の屋形に舞い始めると、
 笛の音、太鼓は岸壁に反響し、単純にして素朴な時間が古代のかなしみと
 歓喜をはらんでくる。

「 すずのねに しらきのふえの おとするは
           くずのおきなの まゐるものかは 」


歌翁たちの大らかな歌いぶりとともに舞はいよいよ白熱し笛は冴えわたる 』
                            ( 前 登志夫  吉野紀行 角川選書 )

「 国栖の野に 翁の笛や梅三分 」        中川晴美
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by uqrx74fd | 2011-01-31 20:19 | 万葉の旅

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