万葉集その三百十五〈紫草:ムラサキ)

紫草はムラサキ科の多年草で日当たりのよい草地に自生し、初夏に五弁の白い花を
咲かせます。
根が赤紫色をしているのでその名がありますが、古代から紫染めの重要な染料とされ
また乾燥させて皮膚病、解熱、火傷、などの薬用にも用いられていました。

気品と艶やかさを併せもつ紫は古代から、やんごとなき人の色とされ、聖徳太子が
制定した冠位十二階で最上位に位置せられて以来王者の地位を保ち、また
中国では紫禁、紫宮、紫微、紫宸、紫庭などが帝王の住居をあらはし、紫雲、紫霞、
紫気などは神仙の瑞兆をいう言葉とされています。

一方、西洋では紀元前15世紀ころ地中海の東、フエニキアという都市国家でアクキガイ科の
貝の内臓から採った液で紫に染める技術を完成させたと伝えられており、1gの染料を
得るのに2000個の貝を要したそうです。
それは「帝王紫」とよばれ、クレオパトラやシーザも貝紫の衣服を愛用し王族限定の
ものとされていました。
紫は洋の東西を問わず、エリート中のエリートの色だったのです。

「 紫草(むらさき)の 根延(ねば)ふ横野の 春野には
     君を懸(か)けつつ うぐひす鳴くも 」 
                 巻10-1825 作者未詳


( 紫草の根が張っている横野。 その春の野で鶯が鳴いています。
  その鳴き声はあなたを慕っているようですよ。)

横野は大阪市生野区に式内社、横野神社あたりとされています。
「根延ふ」(根が張る)と「春」を掛け、鶯に自分の気持を託したもので
ウキウキした気分が感じられる一首です。

野生の紫草が染料として大量に求められるに従い、豊後、相模、武蔵、常陸、下総、
上野、下野、甲斐、信濃、石見、出雲、大隅、日向など多くの地で栽培が
おこなわれるようになり、特に、中世の南部藩(岩手県)の紫草は名が高く、
宮沢賢治は「紫紺染について」という短編を著しています。

「 託馬野(つくまの)に 生ふる紫草(むらさき) 衣(きぬ)に染(し)め
     いまだ着ずして 色に出(い)でにけり 」 
                      巻3-395 笠郎女


( 託馬野に生い茂る紫草、その草で着物を染めました。
 出来上がった着物をまだ着ていないのに、もう人に知られてしまいましたわ )

作者が大伴家持に贈った歌で、託馬野(つくまの)は滋賀県米原市あたりの野。                                
「託(つく)」には「色がよく付く」が掛けられています。                           
「紫草」は家持、「衣」は自分自身を暗示しており「まだ契りを結んでいないのに
あなたを思い慕っている事が世間の評判になってしまった」の意がこもります。


以下は 水尾比呂志著 「日本の色 朝日選書 大岡信編」 からの要約です。

『紫の根は掘り出したままの状態では、かすかな赤紫色呈するだけだが、
 乾燥すると深紫色に変化する。
 のみならず隣接するものに色を移すという特殊な性質を持っている。
 紫根に含まれる色素が顕著な発揮性を有し近くのものを染めるのである。
 それを「紫のゆかり」という。

 王朝人は「ゆかり」すなわち「縁」を生じる紫を恋の象徴とし耽溺した。
 彼らの理想の恋は、匂ふばかりの美しい女(ひと)の想ひにわが身が染められ、
 わが身の想ひも、また女を染めてひとしく紫のゆかりを結ぶ悦びにあったと思われる。
 その法悦の色としても、紫はまたとなき美しい色にほかならない 』

「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の
    八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる子や誰(た)れ 」
                巻12-3101 作者未詳(既出)


( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
  その椿の名がある海石榴市で出会ったお嬢さん。
  あなたの名前はなんとおっしゃるの? )

海石榴市(奈良県桜井市)には椿の木が多く植えられており、また歌垣が行われる場所と
しても知られていました。
八十の衢は街道が四方八方に通じている要路をいい、道で出会った男が声を掛けたのです。
男が女性に名を尋ねるのは求婚を意味し、紫は女、自分を灰に掛けています。
その返事は「行きずりの方に母からもらった大事な名前など教えられませんわ」でした。

以下は染色家 吉岡幸雄氏 「日本人の愛した色: 新潮選書」からです。

『 紫が高貴な色と尊ばれるのは、その染材となる植物そのものが希少であることに
  加え、実際に染めるのに大変な手間のかかる色でもあるからだ。
  植物染料には大きく分けて「単色性染料」と「多色性染料」とがある。
 「単色性染料」は色素を抽出した液に布や糸を浸ければそのまま色に染められるもの
 「多色性染料」は色素が定着するのに仲介するものを必要とし、それを媒染剤とよぶ。

  紫の色を出すための媒染剤には椿の灰を使う。
  生木を燃やして灰をつくり、その灰を樽に入れて熱湯を注いで二晩ほど放置し
  灰の成分を溶出させる。
  紫根を石臼で搗き、麻の袋に入れお湯の中でよく揉み紫の色素を搾り出す。
  これを3回繰り返し合わせたものを染液としてつかう。
  そこに何回も糸や布を入れ、そのつど椿の灰の液で同じ時間をかけて糸や布を手繰る。 
  何回も工程を重ねるほどに濃い色となる。 』

王朝文学の代表者、清少納言は
「すべて紫なるは、何も何もめでたくこそあれ。 花も糸も紙も 」(枕草子 75段)
と紫を賛美し、また、源氏物語は作者の名前が紫式部ゆえ「紫の物語」「紫のゆかりの物語」と
よばれるに相応しく、登場人物は「桐壺」(桐の花は紫色)「藤壷」「紫の上」など紫に
通じる名前、さらに「紫の紙」で書く場面など、まさに紫で埋め尽くされています。

 「 紫の ひともとゆゑに 武蔵野の
    草はみながら あはれとぞみる 」 (よみ人しらず 古今和歌集)


( 私の好きな紫草が一本生えているゆえに、いままで親しめなかった武蔵野の草は
 全部いとおしく思われるようになったよ )

東国にやってきた都の貴族が天離る鄙の風土になかなか馴染めなかったところ
ふと、武蔵野で自分が知っている紫草を見つけた時の親しみの気分を詠んだものですが、
のちに紫草を自分が愛する女にたとえ、その一族すべてがいとおしく思われるという
意味に解されるようになった一首です。

平安時代、武蔵野は紫草の代表的な生殖地として知られていましたが、江戸時代には
絶滅しており、一人の農夫が再び甦らせるべく挑戦しました。

「 杉並区などの資料によれば、江戸時代、豪農 杉田仙蔵という人物が
  紫草の栽培を試み、紫染めが盛んであった南部に出向いたり京の染色法を
  調べたりして苦労を重ね、鮮やかな「紫」を生み出した。
  それは「江戸紫」とよばれて江戸っ子に大いにもてはやされた。
  なお、井の頭池の水を染色に用いたことから池畔には一対の「紫燈籠」が
  江戸近郷の紫根問屋や紫染屋から1865年に寄進され建っている。」
             ( 吉岡幸雄 日本人の愛した色より要約 新潮選書)

江戸紫は歌舞伎などの鉢巻に用いられている青味がかった紫色。
赤味の紫は京紫といい古代紫の系統とされています。
古代の人の憧れであった紫草の栽培は19世紀中頃、石炭の副産物コールタールの
成分から誕生した化学染料の普及により急速に衰退し今や再び絶滅の危機に
瀕しています。
 
    「 紫と男は江戸に限るなり」 川柳
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by uqrx74fd | 2011-04-17 20:23 | 植物

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