万葉集その三百十八(よき人よく見)

697年のことです。
天武天皇は皇后(のちの持統天皇)および六人の皇子達を伴い、吉野離宮に行幸されました。
その目的は、自ら体験した皇位継承をめぐる骨肉の争いが再び起きることがないよう
各々に誓約させて結束を固めることにあり、その場所に壬申の乱の旗印を掲げた地を
選んだのです。

従った皇子は、草壁(18歳)、大津(17)、高市(たけち:26)、河嶋(23)、忍壁(おさかべ:15?)、
芝基(しき:15?)の6人。
数多い皇子の中でも皇位継承の可能性がある人たちです。
皇子の宮廷における序列は年齢順ではなく、母の身分の高下などを考慮に入れて
決められており、草壁は天皇、皇后の実子であるだけに序列第1位は当然のことと
されていました。

然しながら、確固たる皇位継承の原則が確立していない当時、草壁が筆頭というものの
再び争いが起きないとも限りません。
戦乱で有力豪族の力が衰え、皇位を手にした天皇に権力が集中したとはいえ、
皇族の複雑な権力関係がいまだに存在し、とりわけ、人格、能力抜群の誉れ高い
大津皇子の存在も無視できないものがあったのでしょう。
ましてや草壁皇子は蒲柳の質の上,凡庸との評もあり、なおさらのことでした。

天皇の誓約要請にたいして、まず草壁が進み出て、
「皇子十余人、おのおの異腹の生まれですが一同、心を合わせて天皇の勅(みことのり)に
そむくことなく協力してまいります。
もし今後、この盟(ちかひ)に反するようなことがあれば、身命(いのち)亡び、
子孫(うみのこ)が絶えることも覚悟いたします。
そのことを決して忘れず、また違背することもありません。」

と声高らかに宣誓し、続いて他の5皇子も同じ誓いを述べました。

天皇は襟をひらいて6人の皇子を抱き
「もしこの盟(ちかひ)に違(たが)はば、たちまちにして朕(わ)が身が亡(ほろぼ)される
ことであろう」と宣(のたま)い、最後に皇后も
「これからは、おまえたちを同じ母から生まれた子として慈(いつく)しもう」と
盟約されたのでした。

我が子草壁の皇位継承を万全なものとする思惑があった天皇、皇后は儀式が滞りなく
無事に終わると、安堵の気持を抱かれたのでしょう。
宴の席に着くや天皇は上機嫌で高々と詠われました。

「 淑(よ)き人の よしとよく見て よしと言ひし
    吉野よく見よ 良き人よく見 」   巻1-27 天武天皇

原文 「 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三 」
 

( 昔の立派な人が、よい処としてよく見て「よし(の))」と言った 
 この吉野をよく見るがよい。 
 今の良き人よ よく見よ。 )
   
形容詞「よし」を「淑」「良」「吉」「好」「芳」「吉」「良」「四来」と
異なる文字で表記し、「よし」を8回、見るの「み」を3回繰り返しています。
リズミカルな響きをもった呪文のようなこの歌は歌いやすく、皇子達の記憶にも
強く残ったことでしょう。

「よし」の漢字はすべて佳字を当てており、そのうち最高の佳字は淑。
「淑人」を「よきひと」と訓むのは中国の古典、詩経の「淑人君子」の注解
「淑は善(よき)なり」によるものとされ、「立派な徳ある人」の意とされています。

この歌での「淑人」は天皇、皇后をさし、「良き人よく見」の「良き人」は6皇子を
暗示しています。

懸案事項が無事解決し、晴れ晴れとした開放感にひたり、文字を自由自在に操った
天皇の得意満面の表情が彷彿とされてくるような一首です。

然しながら、その7年後天武天皇が崩御されて1ヶ月もたたないうちに
大津皇子が謀反の疑いで処刑されます。
草壁皇子を天皇に立てるため、強力なライバルを早々と葬った持統天皇の陰謀とも
いわれる事件です。

ところが歴史は皮肉なものです。
689年、草壁皇太子は即位することなく28歳で急逝しました。
後継の軽皇子はわずか7歳。
やむなく持統天皇の庇護のもと皇子の成長を待ち、8年後の697年にようやく
15歳の文武天皇が誕生しますが、702年に強力な庇護者持統女帝が崩御。
そして、その文武も病弱で707年、在位10年にして崩御してしまうのです。
奇しくも残された文武の嫡男、首皇子(おびとおうじ)も701年生まれの7歳で
父親と同じ運命を辿ります。

持統天皇崩御後は、草壁皇太子の妻(天智天皇の娘)が元明天皇として立ち、
707年、元明の娘であり、文武の姉でもある元正天皇に即位します。
持統、元明、元正と三代の女帝が続いたのは、ひとえに、当時7歳の
首皇子の成長を見守り、男系の皇統を維持せんがためでした。
そして、皇子が聖武天皇として即位するのは父、文武崩御17年後の724年、
24歳のことでした。

  「 蕗(ふき)の薹(とう) 吉野離宮の 跡に摘む 」   吉年虹二
[PR]

by uqrx74fd | 2011-05-08 19:46 | 生活

<< 万葉集その三百十九(桐の琴をお...    万葉集その三百十七(竹の秋) >>