万葉集その三百四十五(御蓋山:みかさやま)

( 御蓋山 後方は春日山 )
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( 能登川 春日山原始林にて)
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御蓋山は奈良市の東部、高円山と若草山との間にある山で、春日神社に接し
神域の一部をなしています。
円錐形の山容が笠に似ているところから三笠山とよびならわしましたが、
後年、隣りの若草山が三笠山とよばれたので混同を避けるため「御蓋山」と書き、
「おんかさやま」とよぶ人もいます。

標高283mの小山ながら万葉人は春日山と共にご神体として崇め、山の背後から上る
朝日を拝み、折につけ麓を逍遥して桜や新緑、紅葉を楽しみ、月を愛でて多くの歌を
詠みました。
御蓋山は平城京のシンボルだったのです。

「 春日にある御蓋山に月の船出づ
   風流士(みやびを)の飲む酒坏(さかづき)に 影にみえつつ」

    巻7-1295 作者未詳 :旋頭歌 (既出 133後の月)


( ここ春日の御蓋山に月が出ました。まるで船のようですね。 
 おやおや、我ら風流人が飲む杯にまでお月さんが映っているぞ。)

官人たちの月見の宴での歌ですが、月の船は三日月なのでしょうか。
自らを風流人を称したこの優雅な作者は、杯に映った月を詠むという今までにない
新しいセンスの持ち主です。

「 雨隠(あまごも)る 御蓋の山を高みかも
    月の出で来ぬ夜は更けにつつ 」

      巻6-980 安倍虫麻呂(大伴坂上郎女の従兄弟)


( 御蓋の山が高いからか、月がなかなか出てきてくれませんね。
  もう夜も更けようとしているのに )

「雨隠る」は雨の時に蓋(傘)の下に隠れるの意で御蓋山の枕詞
御蓋山はそれほど高い山ではありませんが、その背後の春日山が高いので、
なかなか月が姿を見せません。
待ち焦がれているじれったさが感じられるような一首です。

「 しぐれの雨 間(ま)なくし降れば御蓋山
    木末(こぬれ)あまねく 色づきにけり 」

     巻8-1553 大伴稲公(いなきみ:家持の叔父)


( 時雨が休みなくふるので御蓋の山は木々の先まで
すっかり色づいてきました)

山の紅葉を時雨のなせるわざとみて喜んだ歌です。
繊細な目で季節の移り変わりを敏感にとらえており、もはや古今和歌集の
世界に近い調べが感じられます。

「 能登川の水底さへに照るまでに
        御蓋の山は咲きにけるかも 」
               巻10-1861  作者未詳


( 能登川の水底まで照り映えるほどに、御蓋の山の花は美しく咲き満ちています。)

花は桜と思われますが正確なところは不明です。
能登川は春日山の奥を源流とし、高円山と御蓋山の間を流れて佐保川に合流しています。
その流れ出る水は聖水とされました。

「 天の原 ふりさけ見れば春日なる
          三笠の山に 出でし月かも 」 

         安倍仲麻呂 (古今和歌集:百人一首)


( 大空ははてもなく東へかたむく
 ふりあおげば夜空は円く
 鏡のような月がかかって- -
 ああふるさと 春日なる三笠の山
 かの山にさしのぼっている同じ月を
 私は今この遥かな岸にみつめている 
       訳文: 大岡 信  百人一首  講談社文庫より )

古今和歌集の詞書によれば、唐に留学していた作者が日本への帰国の旅の途中、
明州(現在の寧波:ニンポー)で友人達が別れの宴を張ってくれた時に
この歌を詠んだとあります。
大らかな調べ、雄大な景観、郷愁を誘う名歌として多くの人々の口にのせられた
一首です。

安倍仲麻呂は奈良時代の遣唐留学生で、弱冠16歳にして716年、遣唐使
多治比県守(たじひのあがたもり) の船で吉備真備らとともに入唐しました。

当時、唐は玄宗皇帝の時代で隆盛をきわめており、仲麻呂は中国名を晁衡(ちょうこう)と
名乗って玄宗に仕え寵愛を得て活躍し、また、盛唐の代表的詩人、李白、王維とも
交遊したといわれています。

憧れの先進国で華やかなりし文化に身も心も魅了された仲麻呂は、唐に滞在すること
37年の長きにわたりましたが、さすがに老年になり故郷日本が恋しくなったので
しょうか。
 753年遣唐使藤原清河とともに帰国することになりました。

ところが、不運にも途中で嵐に遭遇し、難破して安南(ベトナム)に漂着。
再び唐に戻ることを余儀なくされた仲麻呂はついに帰国を断念して
政府高官に登りつめ73歳の生涯をかの地で終えたと伝えられています。

2004年10月のことです。
中国陜西省(シャンシ-)西安市で安倍仲麻呂と一緒に唐に渡った留学生の
墓誌が発見されたと大きく伝えられました。
没後1250年も経っているにも関わらず一留学生の墓誌が残っていたとは
奇跡的なことです。

その墓誌には
「 姓 井 字(あざな)は真成 国号 日本
 生来の才能あり、礼儀正しさは比類なく、勉学に努めて飽きなかったが、
突然の出来事により36歳で亡くなった。
皇帝はその死を悼み称号を贈って功績を讃え、盛大な葬儀を国費で行った。
多くの人が悲しんだが、日本の人々も悲しんでいるだろう。
遺骨は異国に埋葬するが魂は故郷に帰ることを願う。」

という意味の事が記されているそうです。
阿倍仲麻呂も当然その葬儀に立ち会ったことでしょう。

「飛べ麒麟」の著書で安倍仲麻呂の生涯を生き生きと書かれた辻原登氏は

『 仲麻呂はこの歌を詠んだとき、共に選ばれ一緒に唐にやってきて、
祖国のために奮励した親友 井 真成を葬った悲しみを胸に抱えていたのである。
  歴史的事実の新たな発見は、あまのはらの歌をより味わい深く、われわれを
  勇気づける響きを奏でてみせてくれる。』と述べられています。

        ( 安倍仲麻呂と井真成 別冊太陽 平城京所収 )
   
「仲麿は もろこし団子 にて月見」 ( 川柳 柳樽)

    中国の月見ゆえ唐土(もろこし)団子
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by uqrx74fd | 2011-11-12 20:44 | 生活

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