万葉集その三百六十二(梅と蘭)

( 下曽我梅林 2012.3.7日撮影)
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( 同上 )
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( 同上 )
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天平2年(730) 正月の13日、大宰府長官、大伴旅人の邸宅で「筑紫歌壇ここにあり」と
大いに名をあげた一大イベント、世にいう「梅花の宴」が催されました。
主客合わせて総勢32名、一人一首づつ詠み合うという、後の歌合せや俳諧連歌の先駆を
なす我国文藝史上画期的な歌会で、都で流行の漢詩に対し「やまと言葉」で詠われたことも特筆されます。

開宴に先立ち主人の大伴旅人は以下のような挨拶をしたと思われます。(序の記述)

「 折しも初春の佳き月で、気は清く澄んで快く、風はおだやかにそよいでいる。
  梅は佳人の鏡の前の白粉(おしろい)のように白い花を咲かせ、
  蘭は貴人の飾り袋のように良い香りを発している。

  そればかりか、夜明けの峰には雲がかかり、松はその雲の薄絹をまとって
  あたかも蓋(きぬがさ)をさしかけたようだ。

  夕方の山の頂には霧がかかり、鳥は霧の帳(とばり)に閉じ込められながら
  林に飛び交うている。

  庭には春生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋来た雁が帰って行く。-(以下省略)

  さぁ、われらもこの園の梅を題としてやまと歌を作ることにしょう。 」

まずは主客の歌から。

「 正月(むつき)立ち 春の来(きた)らば かくしこそ
    梅を招(を)きつつ 楽しき終(を)へめ 」
             巻5-815 紀卿(きのまへつきみ)


( 正月になり春がやってきたなら、毎年このように梅の花を迎えて
  楽しみのかぎりを尽くそうではないか )

「日本暦日原典」(内田正男著)によると天平2年1月13日は陽暦の2月4日、
 つまりこの日は立春であったそうです。
 旅人はこの春立つ日を期して宴を開き、紀卿の歌もそれを踏まえて
 冒頭の挨拶としたのです。

「 梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず
    我が家(へ)の園に ありこせぬかも 」 
                 巻5-816 小野大夫(をののまへつきみ)


( 梅の花よ 今咲いているように散り過ぎてゆくことなく、
 ずっと我らの園に咲き続いて欲しいものです )

最初の歌を受けて二番手が開宴を寿ぎ、後の歌人につないでゆきます。
「ありこせぬかも」は「あってほしいなぁ」の意。

さて、上記の序文「蘭は貴人の飾り袋のように良い香りを発している」の原文は
「 蘭は珮後(はいご)の香を薫(ゆく)らす」 と漢文調で書かれています。

「蘭:らん」は漢語。 
わが国では「らに」とよばれ、現在の「春蘭:シュンラン」とされています。

以下は 久保田淳著「野あるき花物語」(小学館)からの一部抜粋です。

『 春蘭は早春の山地に気品のある花を咲かせる東洋蘭の一つです。
  花は淡い黄緑色の咢(がく)に包まれた白くて紅紫の斑点のある唇状の花弁です。
  この花を摘んで塩漬けにして吸い物に入れたりします。
  食べるために摘んでしまうのはもったいないような気がするのですが- -。
  別名を「ほくろ」というのは、花弁の斑点を人の顔のほくろに
  見立てたのでしょうか。 』

「山にして 落葉かき分け 春蘭を
     子らと掘りつつ 楽しきろかも 」  香取秀真


春蘭は古くから我国にも自生していたようですが、当時は梅が大いに
もてはやされていた時代であったため貴族たちの興趣を惹かなかったのでしょうか。
あるいは、野にひっそりと咲いていたので目立たなかったのかもしれません。

このような美しい花がどうして詠われなかったのか不思議な気がいたしますが、
漢文に造詣が深かった大伴旅人のお蔭で蘭が万葉時代に知られていたことが窺える
貴重な一文です。

  「春蘭の 花に逢ひたる 山路かな 」     松本つや女
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by uqrx74fd | 2012-03-10 18:16 | 植物

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