万葉集その三百七十五(明日香:橘の寺)

( 明日香朝風峠より 耳成山 左後方二上山)
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( 明日香朝風峠より 稲渕の棚田 )
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( 秋の棚田:稲渕 )
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( 橘寺全景 )
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( 秋の橘寺 )
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( 橘寺二面石 悪面)
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( 橘寺二面石 善面)
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( 橘寺で)
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近鉄飛鳥駅を下車すると、そこは幻の古都の跡。
のどかな田園風景がひろがり、なんとなく1300年前の世界に舞い降りたような気分です。
普段は、てくてく歩きの明日香ですが今日は車でちょっと遠出。
まずは稲渕を目指します。

高松塚古墳を左に見ながら緩やかな登り坂にかかると、耳成山が目に飛び込んできました。
ぽっかりと浮かびあがった青いシルエットはまるで海に浮かんだ島のようです。
いつもは1時間も掛かって登る朝風峠にわずか10分で到着。
峠の切り通しに降り立つと程よい日差しの中、爽やかな薫風が通り過ぎてゆきました。
はるかに棚田が広がり青々とした早苗がさざ波のように揺れています。

「 朝風に靡くみどり、若き早稲田の稲穂
  日輪の光に映ゆる 姿たのもし 」  
         (永遠なるみどり 田中千恵子作詞 西条八十補 古関裕而作曲)


思わず口ずさんだこの歌は、50年前に神宮球場で声を大にして歌った応援歌。
今日は年来の学友たちとの万葉の旅なのです。

車はゆっくりと田園の中を走り、稲渕の入口で小休止。
飛鳥川の上に張られた男綱の中央に巨大な男根の形をしたものが揺れています。
上流の女綱と対になっており、子孫繁栄と五穀豊穣を祈り悪疫を防止する村の守り神です。

近くの南淵請安の墓へと進みます。
この辺りは帰化漢人が大変多かったところで、請安(しょうあん)もその一人でした。
608年、遣隋使小野妹子に従って留学生として隋に渡り、32年間もの間滞在して
儒教などを学び、帰国後、南淵(稲渕)に居を構え、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、
のちの天智天皇)や藤原鎌足に儒学を教えたと伝えられている人物です。
小高い丘の上の桜の木の下で眠る先生にしばし黙祷を捧げて再び車中に。

吉野に通じているこの道は、かって天武天皇、持統女帝が若かりし頃、また近世では
芭蕉や本居宣長が歩いたと伝えられていますが当時はまだ険しい山道。
さぞ難儀なことだったでしょう。
やがて、栢(かや)の森に到着。
女綱が奇形を見せながら飛鳥川の上でゆらゆらと揺れていて、なんとなく
蠱惑的(こわくてき)な風景です。

「 勧請縄張る村境 蛍とぶ 」 田辺洋子

このあたり一帯は人家も少なく、飛鳥古京の面影を強く残したところで、
万葉人は次のように詠っています。

「- 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし
   春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 川しさやけし
   朝雲に 鶴(たづ)は乱れ  夕霧に かはづ騒(さは)く -」
                      巻3-324(長歌の一部 山部赤人


( 明日香の古い都は山が高く 川は広くて大きい
 春の日はずっとその山を眺めていたいし 秋の夜は清かな川の音に聴き入る
  朝雲の中、鶴が乱れ飛び、 夕霧の中で河鹿が鳴き騒いでいる )

(語句解釈) : 「明日香の古き都」:飛鳥清御原宮 「とほしろし」: 大きい
          「見が欲し」:  見たい  「かはづ」: 河鹿(かじか)

田園風景を満喫し、石舞台を経て飛鳥の中心で静かな佇まいを見せる橘寺へ。
聖徳太子創建7ヶ寺の1つであるとともに太子誕生の地とも伝えられているみ寺です。
別名「仏頭山上宮院菩提寺」ともいい、太子が推古女帝に勝鬘経(しょうまんぎょう)を
講じたとき、寺の南側に仏頭の形をした山が出現し、三尺の蓮の花が空から降ったと
いう奇瑞(きずい)に由来する山号だそうです。
建立当時は寺運の隆昌をみせ、東西8丁(872m)、南北6丁(654m)の境域を有し、
60余の殿堂を備えていたそうですが、680年「橘寺の尼の房(いえ)に 失火(ひつき)て
十房(いへとを) 焚(や)きき」(日本書紀)とあり、火災で多くの堂塔が失われました。
またこの記述から当時は尼寺だったことが窺えます。

今は白い壁に囲まれたこじんまりとした佇まいの中、創建当時の名残として
礎石と二面石、そして万葉歌1首が残るのみですが、驚いたことに、なんと! 
その歌は寺で少女を犯したという歌なのです。

「 橘の 寺の長屋に 我が率寝(ゐね)し 
    童女放髪(うなゐはなり)は 髪上げつらむか 」
                             巻16-3822 古歌


( 橘のあの寺の坊さんたちの寝る長屋で、おれが一緒に寝たおぼこ娘は
 あの垂れていた髪を上げてしまっている娘になっただろうか )

童女放髪(うないはなり)は8歳位から15~16歳ごろの少女の振り分け髪をいいます。
どうやら寺僧が詠んだものと思われますが、僧が尼寺に忍び込みで見習いをしていた
少女を無理やり犯したものなのでしょうか?
それとも当時は尼寺ではなく、寺男が少女を宿坊に連れ込んだものなのでしょうか?
いずれとも判じかねますが、永井路子氏は想像逞しく以下のように詳細に解説して
おられます。

『 橘寺の長屋に引っ張り込んでなかば暴力的に犯したあの子、まだ十になるやならずの
 おかっぱのあの子は、胸もふくらんでいず、むきだしにされた股(もも)のあたりにも、
 性の萌(きざ)しもないくらいだった。
 が、あれから数年、いまごろあの子も、もうおとなになって、髪を上げたかなぁ。
 何も知らない少女を連れ込んでいたずらしたのはだれなのか。
 そのあたりの農民かそれとも寺の奴隷か。
- だれにも内証、ほんとに内証、、、

 こんなふうに肩をすくめていう男は、おそらく少女と同じ年頃の若者ではなくて
 すこし年上の男のような気がする。

 さすがにこれをひどい歌だと思ったのだろう。
 こんなただし書きがあり、歌を書き直している。

[  寺の中は俗人の寝所ではないから、こんなことをするはずがない。
  また若い女ですでに髪を上げたものを「放:はなり」というから、
  この下に「また髪上げつらむか」という言葉がくるのはおかしい。
  だから次のように改める。 〕

「 橘の 照れる長屋に 我が率寝(ゐね)し 
    童女放髪(うなゐはなり)に 髪上げつらむか 」
                  巻16-3823 椎野長年


こうなれば橘の実の輝いていた長屋で、私がいっしょに寝たあの童女は
もうはなり髪に髪をあげたろうか、という意味になる。

がわたしは古歌のほうが面白いと思う。- -
いささか淫猥(いんわい)でどぎつい歌だが、しかし今のポルノと違ったたくましい
野放図さと言葉の豊かさがある。
これに比べると千語、万語を費やしたポルノ小説がいかに言葉貧しく、内容も
おそまつだということがわかると思う。
こうしたたくましさ、おおらかさに、いまさら戻ることは、現代人には不可能かも
しれない。
が、それだけに「万葉」のこの世界は日本人にとって、ひとしお貴重なのである。』
                               (  万葉恋歌 光文社より ) 

「 二面石 悪面撫でる 善(よ)き児かな 」   筆者

本堂の礼拝が終わり奇石二面石へ。
左悪面 右善面とあり、人間の心の善悪両面を伝えるものだそうです。
明日香には猿石、亀石、鬼の俎板など不思議な石が点在しますが、一体誰が
どういう目的で造ったのかよく分かっていません。

折柄、小学生の集団に出会いました。
「こんにちは」「こんにちは」とそれぞれ礼儀正しく挨拶をしてくれます。
こちらも挨拶を返しながら
「君たちこの石は何か知っている?」
「知りません」
「これはねぇ、人間には良いことをしようという気持ちと
 悪いことをしようと言う気持ちがあり、いつも心の中で戦っているの。
 だから、良いことをしなさいと教えてくれているんだよ。」
「わかりました。有難うございます」

と礼儀正しくお辞儀をして去る子供たち。

「 あぁ、この学校は礼儀や言葉遣いをしっかりと教えているのだな。
わが国もまだまだ捨てたものではないのだ。」 
と清々しい気持ちになってこの寺を後にしたことでありました。

「 丘飛ぶは 橘寺の燕かも 」 水原秋桜子
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by uqrx74fd | 2012-06-10 05:20 | 万葉の旅

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