万葉集その三百七十六(山辺の道:海石榴市:つばいち)

( 海石榴市 馬井手橋から 正面は忍坂山(おさかやま)
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( 古代の市 奈良万葉文化館より )
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( 同上 )
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( 歌垣 奈良万葉文化館より)
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( 海石榴市観音への道 )
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( 海石榴市観音 )
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( 金屋への道 4月上旬)
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( 野辺の花  同上 )
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( 海石榴市で、木瓜(ぼけ)の花 同上)
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山の辺の道は古代大和朝廷の時代に開かれたもっとも古い道で、
三輪山の南麓、海柘榴市(現桜井市金屋)を起点として北へ進み、
青垣の山裾を縫いながら天理の石上神宮までの約16㎞、さらに奈良へと
全長およそ30㎞の道のりです。

周辺の山や川、野や里の風景が美しく、梅、桜、桃、椿、菜の花、
レンゲ、ツツジ、山吹、銀杏 柿の木、コスモス、曼珠沙華、そして
秋の七草など、四季折々の木々花々が私たちを迎えてくれ、また、
古代遺跡や名所旧跡も多く点在し、神話や古代ロマンの世界へ
誘(いざな)ってくれます。

海柘榴市(つばいち)はJR、近鉄桜井駅から北東2㎞のところにあり、
このあたりは古代、崇神天皇の「磯城瑞蘺宮」(しきみずがきのみや)や
7世紀頃の欽明天皇「磯城島金刺宮」(しきしまかなさしのみや)が営まれた
跡だそうです。

私たちは今、この海柘榴市で三輪山を見上げながら大和川(初瀬川)の
ほとりにいます。
馬井手橋(うまいでばし)の中央に立ち、南に向かうと、左手に三輪山の裾野、
中央に忍坂山(おさかやま:現、外鎌山) 、右手にはひときわ高い音羽山。
かえりみると、遥か彼方に二上山と葛城山。
その山に向かって流れる一筋の川は古代難波の淀川にまで続いていたのでしょうか。

目の前の何の変哲もない情景からは想像も出来ないことですが、かって
この地は、百済の使節が難波から大和川を船で遡行して上陸し、我国に
初めて釈迦仏と経典をもたらした(538年)仏教伝来の地であり、608年には
遣隋使小野妹子が隋の使者を伴って帰国した時、朝廷は錺馬(かざりうま)
75匹を仕立てて盛大に出迎えた国際色豊かな舞台でもありました。

当時の川幅は恐らく今の倍以上あり、大船が航行できるほどの満々たる水を
たたえ、多くの船が行き来していたことでしょう。
今はただ当時の栄華の跡を偲ばせるよすがとして河川敷に馬の置物が
あちらこちらに置かれているのみです。

「 みもろの 神の帯(お)ばせる 泊瀬川(はつせがは)
    水脈(みを)し絶えずは 我れ忘れめや 」 
                           巻9-1770 古歌集


( 私はこれから遠方へ参りますが、三輪のみもろの山の神が
 帯にしておられる泊瀬川、この川の流れが絶えない限り
 ここを忘れることがありましょうか。決して忘れはいたしません。)

詞書によると702年大神神社の宮司、大神大夫が長門守に任ぜられたとき
三輪山の麓を流れる初瀬川のほとりで宴をした時の歌とあります。

作者は持統天皇が吉野行幸を計画された時、「今は秋の収穫期、民に迷惑が
掛かるので中止せよ」と職を賭して諫言した硬骨漢。
天皇の怒りに触れて左遷されたのかもしれまません。
送別の席で「この美しい故郷を忘れまい。必ず戻ってくるぞ」との
強い気持ちが籠る一首です。

「みもろ」は神の来臨する場所をさす言葉で「み+むろ(室)」ないし
「み+森」と理解されており、ここでは三輪山をさします。
また、大和川は流れる場所によって初瀬川、三輪川ともよばれていました。

聖なる三輪山が帯にして佩いていると讃えられた川は大和平野を潤し、
多くの人々の生活の糧を与え続けてきたことでしょう。

「椿市(つばいち)は、大和にあまたある中に、長谷寺に詣づる人の
 必ずそこに止(とど)まりければ、観音のご縁あるにやと、
心ことなるなり。」 ( 清少納言 枕草子14段) 
  :心ことなる:格別

海柘榴市は東の道が伊勢、南は飛鳥、西は難波、北は奈良、京洛に通じる
古道が交わり四通八達した要衝(ようしょう)の地であり、さらに外港まで
整備されていたので様々な物産が集まり、物々交換を行う大規模な市が
立ちました。
海石榴市(つばいち:椿)という名は当時の市は露天であったため、
木陰を確保するために椿の街路樹が植えられていたことに由来します。

市が開かれれば人も大勢集まります。
ましてや聖なる三輪山の麓、春秋の季節には歌垣が盛大におこなわれました。
多くの男女がこれという相手を求めて歌を掛け合い、互いに結ばれる機会を
作っていたのです。
「 海石榴市(つばいち)の  八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し
     結びし紐を 解かまく惜しも 」 
                              巻12-2951 作者未詳

( 海柘榴市のいくつにも分かれる辻に立って、広場を踏みつけ踏みつけして
 踊ったときにお互いに結び合った紐 。
 その紐を解くのは惜しくてならないわ。 )

八十の衢:諸方へ四通八達に道が分かれる要衢の辻

踊りながら歌を交換していたものでしょうか。
歌垣はフリーセックスの場といえども互いの愛を誓って結びあった紐を
解くのはためらわれる。
腹に巻きつけた一本の紐とはいえ貞操の証を解くのは神を恐れぬ行為。
やはりきちんと結婚を決めてから解きたいと願う純情な乙女です。

なお、この歌の大地を踏みならす動作は

「 乙女らに 男立ち添い 踏み平(な)らす 
    西の都は 万代(よろずよ)の宮 」 (続日本記 称徳天皇770年)


と詠われているように、のちには国の平安を祈る呪術的動作として、
儀式化されたようです。

「 紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 
    八十(やそ)の衢(ちまた)に逢える子や誰(た)れ 」
                          巻12-3101 作者未詳(既出)

( 紫染めには椿の灰を加えるものです。
 海石榴市の分かれ道で出会ったお嬢さん! 
 あなたは何処のどなたですか?
 お名前を教えてくれませんか? )

紫染めの触媒に椿の灰汁(あく)を使います。
この歌では紫を女性、椿の灰を男性の意を含めて“混わる”すなわち結婚の
誘いかけをしています。
当時は女性の親だけが知っている「本名」と「通り名」があり本名を
男に告げることは求婚の承諾につながりました。
さて女性はどのように返事をしたでしょうか?

「 たらちねの 母が呼ぶ名を申(まお)さめど
     道行く人を 誰(た)れと知りてか 」 
                   巻12-3102 作者未詳(既出)


( 母が呼ぶ名前を申さないわけではありませんが、でもどこのどなたか
  分らない行きずりの方にそう簡単にお教えすることなど出来るもので
  しょうか?)

ラブハントは当然の事と声をかけた男に対して、
「教えないわけではないが」と思わせぶりに気を引いておいて、
やんわりと断った女性。
どちらも機知ある魅力的な問答で、多くの人たちに愛唱されたことでしょう。

「 海柘榴市の乙女のさげし若菜籠 」 有馬朗人

私たちは、楽しそうに歌う乙女の様子を思い浮かべながら
人家と田畑に挟まれた細い道に向かって歩き出しました。
いよいよ山辺の道へ出発です。

ほどなく村の路傍に「海柘榴市観音道」の石標が見えてきました。
民家の間をぬって進むと奥に小さな観音堂がひっそりとたたずんでいます。
格子窓を通して拝するお堂の中には1500年代のものと伝えられる二体の
小さな石仏が安置されていますが、み顔は黒ずんでいてよく見えません。
毎月27日の観音講には地元の人たちが集まって線香や花を供えて御詠歌を
唱え、小豆粥を戴きながらお堂の中で夜を過ごすそうです。
前の衝立には
「 ありがたや われらのねがひ かなやなる
        名もつば市の ここのみほとけ 」

と書かれています。
そうです。
「海柘榴市」という名を唯一残したみ仏。
それは、古代と現在を繫いでくれている細い細い一筋の糸なのです。

私たちは繁栄の極みであった古の街の面影を頭に描きながら、
お堂に一礼をして次なる目的地へと歩んで行きました。

「 海柘榴市の 野路に飛び交ふ 虫や何 」 佐藤春夫
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by uqrx74fd | 2012-06-17 07:56 | 万葉の旅

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