万葉集その三百七十七(山の辺の道:敷島の大和)

(山の辺の道の花々)
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( 金屋の石仏 yahoo画像検索より)
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( 山の辺の道の花々 )
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( 平等寺 )
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( 志貴御県座神社:しきの み あがたいます じんじゃ)
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( 同上説明板)
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( 神社後方の山々 奥の高い山は音羽山)
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( 山の辺の道 )
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海柘榴市観音をあとにして広い通りに出ると古風な家のたたずまいが続いています。
家々の玄関先には美しい鉢植えが置かれ、庭先のツツジも美しい。
道脇の小さな水路には澄み切った水が勢いよく流れ込み、その涼やかな音に
心も洗われるようです。

「右 山の辺の道」の指標に従って細い道に入ると畑と民家の先に「金屋の石仏」と
よばれる御仏二体を奉ったお堂が右手に。
格子窓を通して拝観すると花崗岩に刻まれた2,2mの等身大の釈迦、弥勒像が
安置されています。(重要文化財に指定)
石棺の上に刻まれた平安後期の作と推定されていますが、その穏やかで凛としたお顔と
波形の法衣をまとう立ち姿は棟方志功氏が「大和中の仏像を含めて日本の最高品の一つ」と
絶賛されている逸品です。

一礼を済ませてさらに野道を進むと坂道の手前に「山の辺の道 右大神神社」の標識。
左へ少し下ったところには樫や杉が茂った森の中に南面する社、志貴御県座神社
(しきのみあがたいますじんじゃ)がひっそりとたたずんでいます。
創建730年、祀られているのはアマツニギハヤノミコト(天津饒早日命)だそうですが
詳しい由来はよく分かっていません。
重要なのはその拝殿の西側に史跡「磯城瑞籬宮跡」(しきみずがきのみやあと)、即ち
10代崇神天皇の宮跡の碑があることです。
( 実際の跡は少し離れたところにある天理教の大きな建物と小学校あたりらしい)

うっかり見逃してしまいそうな地味な存在ですが、この地こそ我が国古代王権が
確立され、日本を別称する言葉として使われた「磯城島(敷島)のやまと」の
発祥の地なのです。
保田興重郎氏は次のように述べておられます。

『 三輪川をさしはさんで瑞籬宮(みずがきのみや)や金刺宮のある景色は、
かなたに雄略天皇の朝倉宮の泊瀬の谷がのぞまれ、谷あひの北は多武峰、
また南は忍坂(おさか)の山、倉橋の山がこの都の東側に聳え、南には鳥見山、
多武峰の山、そして三輪山の日おもての山麓が都の地である。
その三輪山のふもとを廻って、山裾の西側をのびてゆくのが、山の辺の道であった。
瑞籬宮は国の初めの土地である。

その風景の美しさは、国と民のふるさとという情緒に彩られる。
ここから拝する泊瀬川の谷あひを昇る日の出の姿が「日出づる国」の
となへのもとである。
国といふことばと土地といふことばとは、遠い太古には同じ意味だったのである。』
               (  長谷寺、山の辺の道 新学社より)

「 敷島や やまと島根も 神代より
     君がためとや かためておきけむ 」 
                      よみ人しらず 新古今和歌集


( この日本の国も神代の古から わが君の御為に神々が作り固めて
 おかれたのでしょうか。)

神話時代からの歴史の悠久性を詠うことによって祝歌としたもので
本歌は次の万葉歌です。

「 いざ子ども たはわざなせそ 天地(あめつち)の
    堅(かた)めし国ぞ 大和島根は 」   巻20-4487 藤原仲麻呂


( 皆々の方々、たわけた振る舞いなどは決してなさって下さるな。
 この島国大和は天地の神々が造り固めた国ですぞ )

757年宮中の豊明節会宴席での歌、当時朝廷は、橘奈良麻呂の反逆事件を
鎮圧したばかりで、「たはわざ」とは正気でない行い即ち帝に背くことをさし、 
孝謙女帝の気持ちを代弁して詠ったものと思われます。

万葉集で「敷島の」と詠ったものは純情な乙女の愛の歌です。

「 磯城島(しきしま)の 大和の国に 人さはに 満ちてあれども
  藤波の 思ひもとほり 若草の 思ひつきにし
  君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜を 」 
                          巻13-3248 作者未詳

  「磯城島の大和の国に 人ふたり 
             ありとし思はば 何か嘆かむ 」
                        巻13-3249 同上
 作者未詳

長歌訳文
( この磯城島の大和の国に 人はたくさん満ちあふれていますが、
  藤の蔦が絡みつくように思いがからみつき、若草のように瑞々しいあなたに
  心が寄り付き、貴方ただお一人にお逢いしたいと、そればかり思い焦がれて
  まんじりともせず、この長い夜を明かすことになるのでしょうか ) 13-3248 
    
語句解釈

「もとほる」: めぐる、まつわる 
「思ひつきにし」: 自分の思いが相手の上にばかりとりつく
「目に恋ふ」: 相手に逢いたいと想い焦がれる

短歌訳文
 ( この敷島の大和の国にあなたと同じ人が二人いると思うことができるなら
  なにをこんなに嘆くことがありましょうか。
  ほかに誰もいないからこそ こんなにも嘆くのです。 ) 13-3249

「人ふたり」 自分にとり他に二人といないかけがえのない人の意で、
作者は男につれなくされ、一晩中ため息をついて悩んでいるのでしょうか。
あるいは、何らかの事情で通えぬ男を案じているのかもしれません。
ただ一筋の恋という思いが強く感じられる名歌です。

「人ふたり」という言葉の解釈に誤解が多く、犬養孝氏が大学の試験問題に
この歌を出したところ、
「この大和の国は天皇、皇后両陛下さえいらっしゃれば何で嘆くことがあろうか。
戦争で負けたけれど何の心配もない」 真面目に書いたり
「この広い日本の国に、私とあなたの愛し合う二人さえいると思うなら何で嘆こうか 」とあったが、
私が愛するのは、ただあの人だけという愛情一すじの歌であると
強調されておられます。 (万葉のいぶき PHP)

「 万代(よろづよ)の 春のはじめと 歌ふなり
     こは敷島のやまと人かも 」 太田垣漣月


古事記によると、崇神天皇が瑞籬宮にあった当時、疫病が蔓延し民の半分が
犠牲者になったと言われています。
また、諸国で豪族が争乱して治安も乱れ、国は崩壊寸前でした。
色々手を尽くしましたが、よい解決策がありません。

悩みに悩みぬいた天皇は遂に神様に縋るほかないと決意し、精進潔斎して
神意を問うたところ、夢の中に大物主神が現れ

「このたびの疫病の流行は私の意思によるものである。汝がこの病を止めたいと
思うなら意富多々泥古(おおたたねこ)をもちいて我が前を祭れ。
そうすれば国も安らかになるであろう」 と告げました。

目を覚ました天皇は早馬を四方に放ち、意富多々泥古(おおたたねこ)を
探したところ、河内の美努村(みののむら)で見つかりました。
素性を聞くと大物主神がイクタマヒメに生ませた子の子孫だったのです。
天皇は大いに喜び三輪山に大物主神を祀りオオタタネコを神主としたところ、
お告げ通り疫病はぴたりとおさまりました。

しかるのち、軍隊を北陸、東海、丹波に派遣して反乱を平定し人々の生活を
安定させ、さらに国の礎を築くために民から色々な品を貢納させます。
徴税の始まりです。
これに拠って崇神天皇は三輪山の祭主となり、各地の神と豪族を従えて
絶対王権を確立したのです。
服従した豪族や民から武器をすべて供出させ天理の石上に兵器庫を建てて
保管しましたが、司馬遼太郎氏によると「はるかな後世、桓武帝のときこれらを
京都に移したが人夫14万7千人を要した」(街道をゆく1甲州街道、長州路ほか)
そうで、如何に強大な権力を握ったかが窺われます。
豊臣秀吉の刀狩はこの故事に倣ったのでしょうか。

「 大和座(います) 大国魂(みたま) 霞立つ 」 川崎展宏

保田興重郎氏が語られた美しい山並みとその裾野に広がる平野の雄大な景観は、
今や前に建ち並ぶ家々に遮られ、往時の眺めを望むべくもありませんが、
このあたりは北緯34度32分線の近く、即ち太陽の道にあたる(水谷慶一氏)とされ、
古代祭祀遺跡の立地条件を無言のうちに教えてくれています。

空を見上げると三輪山から上った太陽は西の二上山の方角に向かっています。
私たちは次なる訪問地、大神神社へと木立が鬱蒼と茂る坂道を登ってゆきました。
あとわずか500mで神の山に到着です。

「 山の辺の 道のはじめの 草雲雀(くさひばり) 」 深川知子
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by uqrx74fd | 2012-06-24 07:52 | 万葉の旅

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