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万葉集その三百七十九(山の辺の道:檜原へ)

( 狭井神社 )
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( ゆり祭り 卒川神社 奈良市 ) yahoo画像検索より
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( 山の辺の道の花 )
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( 玄賓庵 )
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( 山の辺の道の花々 )
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( 檜原神社 )
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( 檜原神社から二上山を望む )
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大神神社祈祷殿横の坂道を山裾に沿って北へ辿ると鄙びた茶店があり、その右側に
狭井神社(さいじんじゃ)への参道が奥の方に続いています。
この社は大神神社大物主神の御魂を奉斎しており、三輪山登拝を希望する人は、
ここで所定の手続きをして木綿襷(ゆふたすき)を受け、御祓いをすませてから
お山に入ることが許されます。
裏手にはこんこんと湧き出る薬井戸があり、霊水を容器に入れて持ち帰る人々も。

薬と酒の神様としても崇められているこの社では崇神天皇の時代に大物主神が
疫病を鎮めた故事に由来する「鎮花祭(はなしずめさい)」が毎年4月18日に
行われ(大神神社と共催)、薬草の忍冬(すいかずら)と百合根さらに県内外の製薬業者から
献じられる2万点にもおよぶ医薬品が神前に供えられ、万民の健康を祈願するのです。

また、6月17日には三枝祭(さいぐささい:ゆりまつり)が奈良市内の摂社
「卒川神社:いざがわじんじゃ」で行われ、大神神社から運ばれたササユリが
奉納されます。

「 三輪山の 笹百合かざし 巫女舞へり」  志賀松声

狭井神社を出て左側の下り坂を降り切ったところに川ともいえないような小さな
せせらぎがあり、わざわざ「狭井川」の標識が立っています。
古事記に

「 この河を佐韋河(さいがわ)という由は、その河の辺に山由理草(やまゆりぐさ)
 多かりき。 -山由理(やまゆり)の本(もと)の名、佐韋(さい)と言いき 」


とあり、昔この辺りで山百合が群生していたらしく、狭井神社(さいじんじゃ)の名前も
この記述に因んでいるのです。

その昔、神武天皇が狭井川のほとりで百合の香りに包まれながら伊須気余理比売
(イスケヨリヒメ)と一夜を共にして、

「 葦原の 醜(しけ)き小屋(をや)に 菅畳(すがたたみ)
    いや清(さや)敷きて わが二人寝し 」  古事記


( 葦茂る原の 粗末な小屋で 菅の畳を清らかに敷き重ね
  共に寝たことだ。 楽しかったぞぉ。)

と詠われ、その姫を皇后に選ばれた(日本書紀)と伝えられています。
ロマンティックな天皇ですねぇ。

ここから先は起伏のある曲がりくねった道。
上ったり、下ったりしながら進むと、両側に杉、檜、松などが茂り、
かの人麻呂が詠った情景を思い起こさせます。

「 いにしへに ありけむ人も 我がごとか
    三輪の檜原に かざし折りけむ 」 
                巻7-1118 柿本人麻呂歌集


( 遠く過ぎ去った時代にここを訪れた人も、われわれのように三輪の檜原で
  檜の枝葉を手折って挿頭(かざし)にしたことであろうか。)

右手に三輪山を仰ぎつつ九十九折(つづらおり)の道を進んでゆくと、
桃や柿、みかん畑が広がってきました。
薫風が吹き渡り、清々しい空気を胸いっぱいに吸い込みながら土道を歩く心地よさ。
やがて森蔭に入る緩やかな坂道の向こうに、謡曲「三輪」で知られている
玄賓庵(げんぴんあん)の白い築地塀が近づいてきました。

「三輪川の 清き流れにすすぎてし、
  衣の袖を または けがさじ」 玄賓僧都(げんぴんそうず)


(このあたりに隠棲して、俗世間や俗僧と交わることなく、
三輪川の清き流れでせっかく綺麗に洗い清めた僧侶としての本来の生き方を、
いかに天皇の思(おぼ)し召しとはいえ、名利のためにけがすことはできませぬ。)

と桓武、嵯峨天皇の厚い信任を得ながらも俗事を嫌いこの地に隠棲した
高僧ゆかりの庵です。

結界が結ばれ、山岳仏教の雰囲気が感じられる堂宇で一休みさせて戴きながら、
日本庭園などでみかける「添水:猪おどしともいわれる」は、勤行を
邪魔する獣を追い払うために玄賓僧都が考案したと物の本にあったことを
思い出しました。
添水(そうず)と僧都(そうず)と掛けていたのですね。

榊 莫山氏は玄賓庵を訪れた時、先代の住職の奥さんから

「 玄賓和尚というのはなぁ、そうら、えらい坊さんやった。
  毎日毎日、勤行ばっかりや。
  腹へったら、ソバ粉をねってダンゴにして食うてはったんや。
  ソバちゅうのは元気をつけるけどなぁ、性欲は でんのや。
  えらい坊さんにとっては、けっこうな話や。
  だから嫁はんはいらん。子供はできへんわなあ。」
「 婆さんの話は、真実をうかがって愉快。
山寺にふさわしい情緒にも富んで凡俗の耳をそばだたせる。」
と述べておられます。 (大和千年の道 要約:文春新書 )

しばしの休息を終え、庵を右へ曲がると正面に小さな滝があり、左手に苔むした
小さな石仏が道しるべのように鎮座しておられます。
左へ迂回して、なだらかな坂道をゆっくり上りきると、急に視界が広がり
檜原神社の横の入口へと導かれてゆきました。

天照大神が伊勢に遷るまで奉斎されていたので元伊勢ともいわれている大神神社の
摂社の一つで、本殿も拝殿もなく、赤松に囲まれた玉垣と三つ鳥居の簡素な佇まい。
奥に「磐座:いわくら」がまします清々しいお社です。
                     註:(「摂社」:本社ゆかりの神を祀る社)

「檜山伐り運ぶ道の躑躅かな」 河東碧梧桐

お社にお供えするかのように一株の大きな紅つつじが満開です。
犬養孝氏が「万葉の旅」を書かれた昭和39年当時、今の鳥居はなく、
赤松が茂る中に大きな燈籠がぽつんと立っているだけの寂しい風景でした。
新しく建てられたお社にもかかわらず御神体山が後ろに控えているからでしょうか、
その古風な造りに太古の昔からの威厳すら感じさせます。

「 鳴る神の 音のみ聞きし 巻向の
    檜原の山を 今日(けふ)見つるかも 」
                   巻7-1092 柿本人麻呂歌集


( 噂に轟く巻向の檜原。今日やっとこの目で確かめることができましたよ。)

万葉集での檜は9首、そのうち6首までが三輪、巻向、初瀬の檜原が詠われ
大半が人麻呂の歌です。(5首)
常緑の檜と三輪山の聖なる印象が重なり、心が動かされたのでしょうか。
当時は、野も山も檜で埋め尽くされていたことでしょう。

「 桃咲くと 檜原の鳥居 幣白き」 堀 文子

私たちは社殿の前に立ててある幣を手に取り、互いに御祓いをして、
拝殿に向かって拍礼を捧げました。
何をお祈りしたのでしょうか、それぞれが楽しげに語らい、笑い合っています。

「行(ゆ)く川の 過ぎにし人の 手折らねば
     うらぶれ立てり 三輪の檜原は 」 
                 巻7-1119 柿本人麻呂歌集


( ゆく川の流れのように人々がこの世からいなくなり、
 檜の葉を手折って挿頭(かざし)にする人もいないので、
 三輪の檜原もさびしそうにしょんぼりとしていることよ。)

年々歳々人は変われど自然の情景は昔のまま。
作者は眼下を流れる巻向川を眺めながら様々な思いに耽っているようです。
この地に遊び、共に枝葉を手折って頭に挿していた人も今はもういない。
愛する人にも先立たれ、自らの心を檜に投影した寂寥感漂う一首です。

11月になると恒例の祭儀。
大神神社からやってきた巫女が鈴を手に持ち、リイーン、リイーンと鳴らしながら
神楽にあわせて舞い踊ります。
白い砂の上。緋の衣が秋空に映え、鈴の音に導かれて神の世界へと誘われる儀式です。

 「 いく世経ぬ かざしをりけむ いにしへに
     三輪の檜原の 苔のかよひ路 」  藤原定家  拾遺愚草 


古へに思いを馳せながら丘の上から眺める景色は雄大そのものです。
手前に柿畑や桃畑が広がり、その向こうに大和三山。
はるかに二上山と葛城、金剛の山々。
夕日が二上山に沈むさまは、さぞ別世界のように神々しいことでしょう。

「 五月雨の 雲のかかれる まきもくの
   檜原が峰に 鳴くほととぎす 」 源実朝 金槐和歌集
               

                          ※「五月雨:さみだれに同じ 」

by uqrx74fd | 2012-07-07 20:09 | 万葉の旅

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