万葉集その三百八十三(明日香:川原寺、飛鳥寺)

( 川原寺跡:現・弘福寺)
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( 川原寺復元模型 飛鳥展図録より )
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( 飛鳥寺 )
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( 同 裏側 )
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( 同 手前の石塔は蘇我入鹿の首塚 )
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( 飛鳥寺遠景 )
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( 梅花うつぎ:飛鳥寺境内にて )
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( 水落遺跡説明板 :写真の真中をクリックすると拡大出来ます。)
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橘寺の山門を出ると、県道を挟んだ向かい側に真言宗 弘福寺(ぐふくじ)とよばれている
お寺があります。
こじんまりとしたお寺ですが、かっては斉明天皇の川原宮が営まれたところで、
亡き天皇を弔うために天智天皇(天武とも)が勅願する川原寺として創建(670年頃)され、
盛時には約4万7000坪の敷地に300人近い僧が住み、中金堂(現本堂)を中心として、
塔、西金堂、講堂などが整然と立ち並び、飛鳥寺、大官大寺、薬師寺と共に
飛鳥四大寺の一つとされていました。

都が平城京に遷され、他の大寺は都へ移転しましたが川原寺のみ飛鳥に残ったため、
以降、寺勢が衰え、さらに度重なる罹災で往事の伽藍はすべて焼失してしまい、
今は広々とした跡地に復元された礎石の模型と本堂前にある瑪瑙(めのう=大理石)の
礎石が残されているのみです。

「 花冷えや 塔の礎石の白瑪瑙 」 神田美穂子

日本書記に686年、新羅の客をもてなすために川原寺の伎楽を筑紫に送ったとあります。
古の時代、この寺に大きな伎楽団があり楽器も多く保持されていて、雅楽などの
演奏も盛んに行われていたことを窺わせる記述ですが、川原寺の僧も「倭琴」(わごと) を奏でる練習をしていたのでしょうか。
万葉集に琴の面(おもて)に落書きされた
「世間(よななか)が常なく 儚(はかな)いことを厭(いと)う歌二首」残されています。
                     註:倭琴=(膝にのせて奏する6弦の小さな琴) 

「 生き死にの 二つの海を 厭(いと)はしみ
    潮干(しほひ)の山を 偲(しの)ひつるかも 」
                      巻16-3849 作者未詳 


( この世は、生きて行く苦しみと死に対する恐怖がたゆとう海のようです。
 あまりにも煩わしいので、苦海が干し上がったところにあるという山に
 至りつきたいと心から思い続けております。)

万葉集には珍しい欣求浄土の仏教思想が詠まれた歌です。
『 潮干の山は生死海の海水をことごとく干し上げてそこに燦然と現れる山、
具体的には須弥山(しゅみせん)などと思われ、極楽浄土の世界をさす』とされています。
                        (井村哲夫 国文学52号)
 
「 世間(よのなか)の 繁き仮蘆(かりほ)に 住み住みて
    至らむ国の たづき知らずも 」 巻16-3850 作者未詳


(  煩わしいことばかりが多い人の世の仮の宿りに住み続ける我が身。
   願い求める国へ到りつく手立ては、今もって分からないままです 。)

橘寺の僧が少女を犯すという俗な思いを詠ったのに対し、川原寺の僧のものは
落書きとはいえ悟りの境地に達したいと願う真剣な思いが込められており
内容も極めて高度なもので、自由闊達な橘寺、厳しい規律の川原寺の生活を
窺わせる歌です。

「 とんぼ湧く 礎石ばかりの 川原寺 」 都合ナルミ

白い壁が美しい川原寺の前に立ち後方を眺めると青田が続く彼方に甘樫の丘や
香具山が望まれ、すぐ横に飛鳥川が流れています。
秋になると周りは彼岸花で埋め尽くされることでしょう。
万葉時代この辺りは真神原(まかみのはら)とよばれ、狼(真神)が出没する寂寥たる
荒野であったとは想像もつかないことでした。

朝風峠から稲渕、栢森、石舞台、岡寺、橘寺、川原寺と巡ったところで、
丁度お昼になり、万葉文化館で一休みすることにします。

奈良県立万葉文化館は2001年9月に開館された万葉集をテーマとする美術博物館で、
平山郁夫画伯を初め154名の画家が万葉歌をモチーフにして描いた日本画が常時
展示されているほか、富本銭の発掘跡や古代の生活の復元展示、関係図書など
多岐にわたり整備されている万葉集総合古代学の殿堂です。

緑なす山々を借景にした広い前庭を眺めながら、懐石弁当を戴いた後、
館内をゆっくり見学し裏庭から飛鳥寺に向かいます。
ここからは徒歩の散策です。

「 飛鳥寺の 鐘なりわたる 刈田かな 」 古川京子

587年、仏教伝来をめぐり廃仏派の物部氏に完勝した蘇我馬子は、全力をあげて
本格的な寺の造営に取り組み、百済からの渡来人による新技術と蘇我氏の莫大な財力、
民を総動員した労力を結集し596年に塔を完成させました。

さらに、605年に鞍作止利(くらつくりのとり)が中心となって我国最古の金銅仏(4、85m)
釈迦如来(飛鳥大仏)の造立を開始し609年ついに最初の本格的な寺院、即ち
東西の塔を囲んで三つの金堂をもつ堂々たる伽藍配置の法興寺(当時)が落成したのです。

この寺は後に、中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会い、大化改新のきっかけになった
所としても知られています。
皇子らの蘇我入鹿誅殺という「乙巳(いっし)の変」で天皇家に摂取され、平城京遷都と共に
元興寺として都へ移されましたが、大仏は当地に残され飛鳥寺として存続しました。
その後、罹災で堂宇伽藍はすべて焼失し、本尊釈迦如来(大仏)は残ったものの
焼けただれ、長年雨ざらしのまま放置されて無残なお姿になっていたそうです。

現在、飛鳥寺とよばれている安居院は1826(江戸時代)に建立され、ようやく本尊が
堂内に安置されました。
火災に遭ったお顔は継ぎ接ぎが目立ち痛々しい感じがいたしますが、
その大陸的な風貌は白鳳初期の特徴をよく残しています。

「 故郷(ふるさと)の 明日香はあれど あをによし
    奈良の明日香を 見らくしよしも 」
                巻6-992 大伴坂上郎女 元興寺の里を詠む歌一首


( 飛鳥寺が立つ故郷の明日香は思い出深くよいところであるが
 奈良の新しい都の飛鳥寺(元興寺)を見るのもよいものだ。)

作者は飛鳥から平城京に移され、今は元興寺とよばれる寺を見るにつけて
故郷の飛鳥寺を懐かしく思い出しているようです。
寺院の移設に当たって、瓦や木材が再利用されたらしく、甍を見上げるたびに
故郷の野山や川が脳裏に蘇ってきたことでしょう。

「 首塚をかすめて平家蛍とぶ」 江口ヒロシ

飛鳥寺の裏手にまわると蘇我入鹿の首塚。 
真偽は別として中大兄皇子に討たれた首がここに落下したと伝えられていますが、
蘇我氏の守護神であったはずの飛鳥寺の裏に建てられているとは何という
歴史の皮肉なのでしょうか。

周りを見渡すと一面のレンゲ畑。
私たちは後方に見える甘樫の丘に向かって田畑を横切りながら歩き出しました。

ほどなく660年中大兄皇子が作った我国最初の水時計(漏刻)があったと
いわれている広々としたところに出てきました。
1981年に発掘され「飛鳥水落遺跡」と命名されていますが、かなり大掛かりな
建物と装置があったことが想像されます。
このあたりは明日香のほぼ中央に位置することから、水時計で時刻を計り、
鐘と太鼓で人々に時を知らせていたのです。
                  (詳しくは万葉集遊楽61 時の記念日をご参照下さい)

遺跡の左側に飛鳥川が流れ、橋を渡ると間もなく甘樫の丘です。

「 飛鳥路の 雨細やかや 夏薊(なつあざみ) 」 藤武由美子
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by uqrx74fd | 2012-08-04 18:06 | 万葉の旅

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