万葉集その三百八十六(大和三山妻争い)

( 大和三山 左から香久山。畝傍山、耳成山 井寺池後方から )
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( 天の香久山 藤原宮跡付近から )
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( 畝傍山 藤原宮跡から )
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( 耳成山 同上  )
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( 井寺池付近案内図  檜原神社の前で )
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(  藤原宮跡 後方は香久山  持統天皇の「衣干したり天の香久山」はこのあたりから詠んだ?)
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( 藤原宮復元模型 奈良万葉文化館で )
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緑なす大和国原に浮島のような美しいシルエットを見せる大和三山。
畝傍(199m)、耳成(140m)、香久山(152m) は、いずれも丘のような低い山ながら、
その配置がほぼ正三角形となる絶妙な天の配剤により、古来から多くの人たちの
ロマンをかき立ててきました。
「播磨風土記」に伝えられる出雲の神の「三山争いの仲裁伝説」や
万葉集の「三山妻争いの歌」は「天智、天武天皇、額田王の三角関係」にまで
思いを馳せさせ、私たちに尽きることがない話題を提供してくれています。

「 香具山は 畝傍惜(を)しと 耳成と 相争ひき
  神代より かくにあるらし
  いにしへも しかにあれこそ
  うつせみも 妻を 争ふらしき 」 
                巻1-13 中大兄皇子(後の天智天皇)

「 香具山と 耳成山と あひし時
    立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら) 」 
                 巻1-14 同上

訳文(1-13)

( 香久山は畝傍を手放すのが惜しいと耳成と争った。
どうやら神代の頃からこんなふうであったらしい。
だからこそ、今の世の人も妻をとりあって争うのであろう。)

訳文(1-14)

あひし時:組み合う、戦うの意。

( この印南国原は、香具山と耳成が妻争いをしたとき、阿菩大神が神輿を上げて
やってきたという地だ。)

この歌は661年、斉明天皇が征新羅のために九州行幸された途中、播磨灘海岸辺りで
詠まれたもので、印南国は現在の兵庫県加古川市、明石市にかけての一帯とされています。
播磨国風土記に
「出雲の阿菩大神(あぼのおおみかみ)が大和の国で三山が争いをしているのを聞き
仲裁しょうと播磨の国、揖保(いぼ)郡の上岡まで船に乗って急行してきたところ、
もう喧嘩は収まったと聞き、では、と船を裏返しにしてそのままここに鎮座した 」
と伝えられている地です。
作者は土地通過儀礼として
「ここ印南は大和三山とも大いに関わりがある由緒ある場所」として
祈りと歌を奉げたものと思われます。

ところが、播磨国風土記には畝傍、耳成、香久山の三山が「相争う」と書かれているだけで、
「妻を争う」とは書かれていないのです。
土着の豪族の勢力争いを比喩化したものか、あるいは万葉集よりも古い時代から
大和に男女の三角関係の云い伝えがあったのかもしれませんが、
中大兄皇子が「妻を争ふ」と詠ったことから色々な憶測を呼ぶことになります。

一見、易しそうなこの長歌は、原文「雲根火 雄男志等:うねび ををしと」をめぐって
世紀の大論争を巻き起こしました。
著名な学者の侃々諤々の応酬があったのにも拘わらず未だに決着がついておりません。

即ち「雄男志等」を「雄々し」と解するか「を惜し(を愛し)」とするかで
山の性が変わり歌の解釈が一変するのです。(本稿の訳文はA説に従っています)

「雄男志等」(ををしと) 

 A説 「を惜し(を愛し)」とする→ (男)香久山が (女)畝傍を (男)耳成と争う

   一番多い説、すっきりするが「 雲根火 雄男志」という男らしい原文の
   表現にそぐわないという難点がある。

 B説 「雄々し」とする1、→ (女)香久山が (男)畝傍を (男)耳成と争う
     (女)香久山が(男)畝傍を雄々しいと思うのはよいが、何故(男)耳成と争うのか?
     それは(女)香久山が気移りしたため今まで付き合ってきた(男)耳成といさかいが
     起こったとする。
             → 女と元カレの争いを「ツマを争ふらしき」と表現できるのか?
                という難点がある
 C説 「雄々し」とする2、→ (女)香久山が (男)畝傍を (女)耳成と争う
              当時の妻問婚の風習にそぐわない。少数説

現在では、A、B説が相譲らず、納得行く定説を打ち立てたら万葉学上不朽の名声を
残すだろうとまで言われている難問です。

素人判断では (男)香久山が (女)畝傍山を愛しいと (男)耳成と争ったという
A説に組したいところですが- -。

さらにこの長歌を天智、天武天皇が額田王を争ったとする三角関係に結びつける
解釈もあり否が応でも古のロマンの空想の世界へと導いてくれます。

「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
      野守は見ずや 君が袖振る 」  
                       巻1-20(既出)  額田王


( 美しい茜色に照り映える紫野を行きつ戻りつしながら袖を振るあなた。
 そんなにあからさまに振ると標野の番人(野守)に見つかってしまいますよ) 

「 紫草(むらさき)の にほえる妹を 憎くあらば
     人妻ゆゑに 我(あ)れ恋ひめやも 」  
                 巻1-21(既出) 大海人皇子(後の天武天皇)


( 紫草のように色あでやかな妹よ。そなたをどうして憎く思えるでしょうか。
  今は人妻になったあなたですが、わたしはなお一層恋しくてならないのです。)

二人は十市皇女をいう子までなした仲なのに、額田王は今や兄天智の妃。
どのような経緯で天智天皇のもとに走ったのかは謎とされています。

ただ、この二首は相聞歌ではなく宴席での余興歌として雑歌に分類されていることや
額田王は当時40歳前後となっており、自らの意思で天武を離れて天智に仕えたとも
みられているので妻争いの歌との関連なしとするのが通説です。

(詳しくは万葉集遊楽316 あかねさす紫野をご参照ください)

然しながら、学問上の解釈はともあれ、私たちが甘樫の丘や、葛城古道、あるいは
藤原宮跡から秀麗な三山を眺めながら 「裳裾引くような畝傍山は額田王」
「優しそうな香久山は天智さん」「一番低い耳成は弟の天武さん」
「 まだ妻争い? それとも3人仲良くしているのかな?」と
古代への思いを馳せることは楽しいものです。

学問上の解釈がすべて正しいとは限りません。
歌は心。
自分の心を知る者はその人自身のみであり、1300年前の作者の心の奥底を
現代の人が窺い知ることは不可能でありましょう。

「 耳成も滴る山となりにけり 」 川崎展宏

以下は、堀内民一著 大和万葉旅行からです。

『 大和三山は、ながめるところどころ、四季、時間、晴雨それぞれによって
  種々な趣をあらわす山だ。
  その趣を心に感じてながめるよろこびこそ、大和の万葉旅行特有のものである。
  さすがに千年の風雪に生きてあたらしく、美しい。
  「 大和三山が美しい。
  それはどのような歴史の設計図をもってしても要約出来ぬ美しさのようにみえる」
                         (小林秀雄:筆者註、蘇我馬子の墓)
  と書いているが、三山の美しさを語るとなると、もはやどんなことばも
  追いつかないのである。』
                                   ( 講談社学術文庫より)

    「 夕近き畝傍山頂つばめとぶ」 田上悦子

                                       ※ 後に追加画像があります。
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by uqrx74fd | 2012-08-25 21:21 | 生活

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