万葉集その四百(藤原鎌足)

( 談山神社 世界唯一の木造十三重塔)
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( 談山神社本殿 )
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( 同、本殿内部から )
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( 談山神社全景 多武峰観光ホテルから )
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( 蘇我入鹿を討つ 後方左 皇極天皇 多武峰縁起絵巻より 談山神社発行パンフレットより)

( 万葉列車 JR和歌山線 五条駅で )
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天智天皇の懐刀、藤原鎌足は もと中臣鎌足(幼名:鎌子)といい、614年大和国飛鳥
大原の神職の家に生まれました。

長じて、学問を好み聡明で正義感が強い鎌足は天皇をないがしろにして国政を我が物と
する蘇我氏の専制に憤りを覚え、それを正さんものと盟主を探し求め、
中大兄皇子(のちの天智天皇)こそ語るに足る人物であると見極めます。

皇子とはまだ面識がなかった鎌足。
何とか近づきになりたいと機会をうかがっていたところ、法興寺(のち飛鳥寺)で
蹴鞠(けまり)の会があり皇子も出席されると聞き早速見物に出かけました。

そこで天運としか言いようがない出来事が起きます。
皇子が鞠を蹴ったところ、皮鞋(みくつ)が脱げ落ち、たまたま近くにいた
鎌足が拾い上げて皇子に捧げ渡したのです。

まさに運命の出会い。
初対面ながら互いに心に響くものがあったのでしょう。
以来共に南淵請安のもとで儒教を学び、国家の改革を語り合います。
そして、645年藤花の盛りの頃、多武峰(とうのみね)社 (現.談山神社)本殿裏山で
蘇我氏打倒の極秘の談合がなされ、ついに飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討って
中央統一国家の建設の偉業、大化の改新に乗り出したのです。

鎌足は終生天皇が最も信頼する股肱の臣であり続けましたが、権謀術数の限りを
尽くした人物とは思えないようなおどけた歌を二首残しています。

まずは夫婦の掛け合いです。

「 玉櫛笥(たまくしげ) 覆ひを易(やす)み 明けていなば
             君が名はあれど 我が名し惜しも 」
                      巻2-93 鏡王女


( 「二人の仲を人に知られないようするなんてわけない」と貴方さまは夜が明けてから
  堂々とお帰りになりますが、あなたはともかくとして、私の浮名が立つのは
  まことに口惜しゅうございます。)

通い婚の時代、男は夕暮れに女のもとを訪れ明け方に帰るのが習いでした。
この歌は一夜を共にして夜明けになってもまだ帰ろうとしない鎌足に
「 長くいてくれるのは嬉しいが、おおっぴらにされるのは世間体が悪い」と
わざと自分を重んじた言い方をして、相手がどのような歌を返してくれるのか、
からかっているのです。

玉櫛笥は化粧道具箱のことですが、箱に蓋(ふた)と入れ物(身)があるので
「覆う」や「みもろの山」の「み」に掛かる枕詞として使われています。

鏡王女の出自については、舒明天皇の皇女もしくは皇孫とする説と額田王の姉で
あろうとする説があり正確なことは不明。
皇極女帝の宮廷に出仕して中大兄皇子に見そめられましたが、後に藤原鎌足の正妻と
なった女性で、降嫁するとき既に身籠っており、それが不比等であったとの説もあります。

「 玉櫛笥 みもろの山の さな葛(かずら)
          さ寝ずは つひに 有りかつましじ 」
                       巻2-94 藤原鎌足


( あなたはそうおっしゃるけれど、みもろの山のさな葛ではないが
  さ寝ず (つまり共寝しないで) よろしいのですか。
  もし、私がそんなことをしたら、あなたはとても我慢できないでしょう。 )

「さな葛」は常緑つる性モクレン科の植物ですが、ここでは「さ寝」を起こす序。
相手の使った枕詞「玉櫛笥」をそのまま返した言葉の遊びです。

「さ寝ず」の「さ」は接頭語で「共寝」の意。 
「ありかつまじし」は「あり」:生きる 「かつ」:出来 「まじし」:ないだろう
つまり 「生きていくことができないだろう」。

「 俺が帰ってしまったら、困るのはお前さんだよ。」 と 
 とぼけて歌い返した微笑ましい一幕です。


「 我れもはや 安見児(やすみこ) 得たり 皆人(みなひと)の
     得難(えかて)にすといふ 安見児得たり 」    
                     巻2-95 藤原鎌足


( おれはまぁ 安見児を得たぞ! どうだぁ!
  お前さんたちが手に入れられないと言っているこの安見児を
  おれはとうとう我が物にしたぞ! )

臣下との結婚を禁じられていた采女を妻となしえた喜びを天真爛漫に詠った作者。
天皇は大化の改新以来、参謀となって活躍した功臣に特例として結婚を認めたようです。
宴席の傍らに当の采女を侍らせて得意満面の鎌足ですが、すでに54~55歳。
56歳で亡くなっていますから当時としては老齢に達していたと思われます。

何故このような時期に天皇は鎌足に采女を与えたのでしょうか?
これには天智天皇の後継者問題が絡んでいるのかもしれません。
当時の皇太子は弟の大海人皇子、自他ともに認める次期天皇候補です。
然しながら天皇は我が子の大友皇子を後継にと願っていました。
ところが大友皇子の母親は伊賀の采女だったのです。

天皇の母ともなれば身分が軽い女性では血筋を重んじる貴族や地方の豪族に
受け入れられそうにありません。
やむなく天皇は鎌足と打ち合わせ、采女に対する卑賤観を取り除く政治的演出を
行ったのではないかと推定する説もあります。
その願いも空しく、天皇死後壬申の乱が勃発し貴族豪族は雪崩をうって大海人皇子の
味方となり、敗れた大友皇子は自害に追い込まれました。

669年、重病に陥った鎌足のもとへ天皇自ら病床を見舞われ、大織冠内大臣の極位と
藤原の姓名を授けて生前の功に報います。

鎌足は死後、摂津国阿威山(あいやま)に葬られましたが、唐から帰朝した
長男定慧(じょうえ)が不比等と相談の上、墓を故郷である大和国多武峰に移し、
十三重塔を建立してその霊を弔いました。
それから23年後の701年には神殿が建てられ、鎌足の神像を奉安して
談山神社の創祀となされたのです。

談山とは天智天皇と共に大化の改新を談(かた)った山の意で、出会いとなった、
蹴鞠の競技も今なお続けられています。
藤原氏はその後繁栄の一途を辿り、1086年白河上皇の院政が始まるまで
代々摂政関白として450年間もの間政治の実権を握り続けました。
徳川幕府でさえ265年。
藤原鎌足はそれを遥かに上回る未曽有の権力継承の創始者でした。

以下は 司馬遼太郎著 街道をゆく 近江奈良散歩 朝日文庫からです。

『 鎌足を祀る多武峰の創始は、七世紀後半である。
 唐に留学していた鎌足の子、定慧(じょうえ)が、木造の十三重の塔を造営した。
 いま存在している塔は1532年の再建だが、朱塗、檜皮葺の色調といい、
 十三重のつりあいの美しさといい、破調がほしくなるほどの典雅さである。
 本殿についても同様のことがいえる。
 藤原氏は華麗を好み、その氏神をまつる奈良の春日大社の社殿も、桃色に息づく
 少女のようなはなやぎをもっている。
 この多武峰は、春日造りである上に桃山様式が加わっていっそう華麗になった。』

    「 越天楽 奏で始まる 蹴鞠祭 」  平野照子
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by uqrx74fd | 2012-12-01 21:35 | 生活

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