万葉集その四百十一(菅原の里)

( 菅原神社 奈良市菅原町)
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( 喜光寺  同上 )
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( 同上  万葉歌碑 )
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( 垂仁天皇陵 )
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( 近鉄尼ヶ辻への道の途中で 後方若草山 )
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( 垂仁天皇陵付近で  柿を啄むメジロ )
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( 菅原の里の面影を残す垂仁天皇陵近辺 )
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( 帯解寺 )
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菅原の里は昔、埴輪などの土器を朝廷に貢納していた土師氏(はじし)という氏族の
本拠地で後に菅原の姓を賜ったのでその名があり菅原道真の出生地とされています。
今は新興の住宅やマンションが立ち並び、近鉄西大寺駅の周辺、奈良市菅原町という
町名にその名残をとどめているのみですが、少し先の垂仁天皇陵辺りまで歩くと、
田畑が広がり当時の面影を偲ぶことが出来ます。

平城京に近かった昔は西側の山々を背にした長閑(のどか)な田園地帯で、
鬱蒼とした木々に囲まれた貴族の邸宅もあったことでしょう。

万葉集に菅原の地名が出てくるのは1首しかありませんが、
後々まで歌い継がれた恋の歌です。

「 大き海の 水底深く 思ひつつ
     裳(も) 引き平(なら)しし 菅原の里 」
           巻20-4491 石川郎女 (いしかはの いらつめ)


( 大きな海の水底 その深い底のように、私の心の奥深くに想いをこめ、
  裳を引きながら、行ったり戻ったりして、あの方のお出でを 
 今か今かとお待ちしていた菅原の里。
 それも、今は遠い昔の思い出になってしまったことです ) 

作者は藤原宿奈麻呂(すくなまろ)の妻であった女性で、

「 かって、夫の来訪を待ちかねて裳裾を引きながら、何度も菅原の里を
  行ったり来たりして心を弾ませていたのに。
  今は彼の愛も薄れ、とうとう離別させられてしまった。
  あぁ、あのひたすら情熱を燃やしていた頃が懐かしい 」

と往時を回想しながら、楽しかった思い出に浸っています。

お相手の男、宿奈麻呂は藤原宇合の第二子、不比等の孫で、25歳の時、藤原広嗣の乱に
座して伊豆に流され、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の折には朝廷側に立ち、兵を率いて
追討する(49歳)という波乱の人生を送り、死後、太政大臣を追贈されるという
「終わりよし」の人生を送った人物でした。

755年2月初旬、三形王(みかたのおほきみ)という官人の邸宅で
立春を前にした宴会が催されました。
春を寿ぐ歌が3首続いた後、宴に参加していた大伴家持が

「 古い歌にこんなのがありますよ。
  この歌の女性が夫をしきりに待ちかねたように、私も鶯が我が宿に来て鳴くのを
  切望している次第です」と披露したようです。

家持は「 他人より自分の家の庭にまず最初に来て鳴け!」 という趣旨の歌を
詠むほど鶯の初音に強い執着を持っていました。
石川郎女の歌は「大海の水底」という奇抜な表現と赤い裳裾を靡かせている
艶やかな天平美人を想像させ、青と赤の色の対比も鮮やかなことから多くの人に好まれて
歌い継がれていたのでしょう。

「西大寺 西日に松も 輝けり 」 竹村秀一

近鉄西大寺駅から住宅街を通り抜けて歩くこと約1.5㎞。
鎮守の杜もない町のまん中にぽつんと菅原神社が鎮座まします。
入口の「菅公御生誕の地」と彫られた大きな石碑がひときわ目を引き、
碑も社も建て替えられたばかりなのか、清々しい雰囲気が漂っています。

道真に因んで植えられた梅の蕾のふくらみを愛でながら、ふと、前川佐美雄氏の話を
思い出しました。

『 昔はどこの農村も家々に鶏を飼っていたが、この菅原の村だけは飼わなかった。
鶏は「とき」をつくる。 夜明けに鳴く。
鶏が早く鳴くと道真はそれだけ早く家を出なければならない。
筑紫に配流される道真に同情して嘆き悲しんだ。
鶏を飼わなかったのはこのゆえだが、これをこの村の人から聞いたとき
私は感動した。』
                      ( 大和まほろばの記 角川選書より要約 )

「 西の京 塔のかたちに 霜のこる 」 山田春生

参拝を終えて、西の京の方角に向かって歩くと程なく喜光寺の前に出ました。
もと、菅原寺とよばれていた行基ゆかりのお寺です。
元明、元正、聖武、三帝の勅願寺で、大仏建立に尽力をしながらこの寺に住んで
いた行基はその完成を待たずに亡くなりました。

かっては東大寺と比べられ、隆盛を誇る大寺でしたが、度重なる火災や災害で消失し、
今は室町時代建立といわれる本堂にその面影をとどめているのみです。
菅原の里という縁からでしょうか、寺の隅に石川郎女の歌碑が建てられています。

「 薬師寺の 塔見えて来し 枯蓮田」     伊川玉子

行基の遺徳を偲びつつ喜光寺を後にしてしばらく歩くと、田園が広がり、
遠くに若草山、右手に薬師寺の塔、左手には垂仁天皇陵が迫ってきました。
のどかな風景です。

垂仁天皇には次のような逸話があります。

「 その昔、不老不死の薬「時じくの木の実」を田通間守(たじまもり)求めさせ、
常世の国(外国)に遣わした。
間守は10年間探し求めて、その実のなる木 (橘ともいわれる)を手に入れ
帰国したが天皇は既に崩御された後であった。
間守はその木の一部を皇后に献上すると共に、残りは天皇の御陵のほとりに植え、
嘆き悲しんで亡くなった。 」

池に囲まれた巨大な御陵の周りは田畑が続き、メジロが柿の実を啄んでいます。
近鉄尼ヶ辻駅に向かう途中、垂仁天皇に因んで「橘を植えよう」という看板が立ち、
畑に小さい木が十数本。
まだ植えられたばかりのようです。
さらに歩くと、皇室に腹帯を奉納したと云われる安産の神様「帯解寺」の前に出ました。

駅まであと1分足らず。
好天気に恵まれ、歴史の里を感じさせてくれた気持ちの良い一日でした。

「垂仁陵へ 野焼の煙 及びけり 」  三好かほる
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by uqrx74fd | 2013-02-16 17:26 | 万葉の旅

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