万葉集その四百十二(孝謙女帝)

[ 孝謙天皇(重祚後称徳天皇)勅願の西大寺山門 ]
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[ 同上 本堂 ]
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[ 同上 鐘楼 右側に万葉歌碑 ]>  
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[ 孝謙天皇の歌碑 ]
 「 この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に 我が見し草は もみちたりけり 」
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[  サワヒヨドリ  藤袴と区別がつきません  yahoo画像検索より ]
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[ NHK放映大仏開眼のDVDカバー 正面 吉備真備 左 孝謙天皇 下 阿倍仲麻呂 ]
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[  西大寺大茶盛式  奈良県観光協会hpより ]
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その昔、我国に破天荒な天皇がおられました。
何と! 道鏡という僧侶に天皇位を譲渡しようとしたのです。
その人の名は孝謙天皇 (重祚後 称徳天皇)。
幸いにも吉備出身の硬骨漢 (女帝に言わせると逆臣) 和気清麻呂の機転により、
事なきを得ましたが、万が一にも女帝の思惑が成功していたら天皇制は崩壊したで
あろうと思われる国の根幹にかかわる大事件でした。

若き頃、阿倍内親王とよばれた女帝は聖武天皇と光明皇后の第二皇女として生まれ、
同母弟 基(もとい)親王が早世したため738年、21歳で史上唯一の女性皇太子に立てられます。
容姿も端麗であったらしく、743年、久爾京(くにきょう)内裏で百官を前に
五節の舞を披露したそうです。

吉備真備という当代一流の知識人の教育を受け、749年、父帝の譲位により即位。
政治の実権は光明皇太后と藤原仲麻呂が掌握していましたが、新帝に格別の不満もなく
日々の政務をこなされていました。

次の歌は、750年、遣唐使が難波を出航するにあたり、入唐使 藤原清河らに
酒肴を賜われ、無事任務を果たして帰還することを願って詠われたもので、
宣命形式になっています。

「そらみつ 大和の国は 
 水の上は 地(つち) 行くごとく
 船の上は 床(とこ)に 居るごと
 大神の 斎(いは)へる国ぞ

 船の舳(へ)並べ 平けく 早渡り来て
 返り言(ごと)  奏(まを)さむ日に 
 相飲まむ酒(き)ぞ  この豊神酒(とよみき)は 」 
                         巻19-4264 孝謙天皇

(  神威あまねく 大和の国
   水の上は 地上を行く如く
   船の上は 床にいる如く
   大神が慎み守りたまう国である

 そなたたちの 四つの船 
 その船は 舳先を並べ つつがなく早く唐国に渡り
 すぐ帰ってきて 復命を奏上するように祈る。
 この霊妙な美酒は
 その日に また共に飲むための酒であるぞ )

「そらみつ」は大和の国の枕詞。
「 神が見下ろした神威あまねく聖なる大和」の意で日本書紀の 
「ニギハヤノミコが天の磐船に乗って空から大和を見納め、
「虚空見日本国」(そらみつやまとのくに)」と云われたことによるそうです。

 宣命とは天皇の命令を漢字で和文形式に書かれたものを言いますが
使者、高麗福信という人物を遣わして口頭で読みあげさせ、さらに反歌が添えられています。

反歌

「 四つの船 早帰り来(こ)と  白香(しらか)付く
    我が裳の裾に 斎ひて待たむ 」  巻19-4265 同上


( 四つの船よ すぐ帰って来いと 白香付くこの我が裳の裾に
  祈りをこめて無事の帰りをお待ちしているぞ )

白香は祭祀用の純白な幣帛の一種。
女性の裳の裾には呪力があるとされていました。
切に無事を祈る心がこもった歌です。

「 この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に
    我が見し草は もみちたりけり 」  巻19-4268 孝謙天皇


( この里は年中ひっきりなしに霜が置くのであろうか。
  夏の野で私がさっき見た草は もうこのように色づいていることよ )

政治上の権限を一手に掌握し辣腕をふるっていた藤原仲麻呂は光明子皇太后の甥にあたり、
平城京近くの田村の里に屋敷を構えていました。
この歌は、ある夏の終わりの日、皇太后と共に仲麻呂の邸宅に行幸された女帝が
紅葉した沢蘭(サワアララギ)を見て仲麻呂家を寿いだものです。
サワアララギはキク科フジバカマ属の多年草で現在名はサワヒヨドリとされています。

「 この渓(たに)の 秋づく早く 瀬の光り
    さはひよどりの 花は仄(ほの)かに 」 岡本高樹


それから9年後の758年、女帝は病床にあった皇太后に仕えるためという理由で
皇太子 大炊王(おおいおう)に譲位されます。
淳仁天皇の誕生です。

一方、恵美押勝という姓名を与えられた藤原仲麻呂は権力が増大するにつれて
独断専行が多くなり、孝謙上皇をないがしろにすること甚だしく、両者の関係に
隙間風が吹き出しました。

そのような情勢の中、760年、光明皇太后が崩御。
仲麻呂は最大の後ろ盾を失い上皇との力のバランスが逆転します。

ここからが運命の大きな分かれ目。

761年、平城宮改修のため都を一時 近江の保良宮に移した時、上皇が急に病に伏せり、
医療の心得がある僧、道鏡に看護を任せたところ、その献身の治療により回復させる
という出来事がありました。

以来、上皇は道鏡を寵愛し、吉備真備と共に政治の中枢を委ねるようになりますが、
面白くない仲麻呂は淳仁天皇と図って道鏡を上皇から引き離そうとします。

若くして即位したゆえに生涯独身を通すことを余儀なくされた女帝は、44歳にして
生まれて初めて恋という魔物にとりつかれてしまったようです。
道鏡と二人きりで過ごすことが多くなるにつれ、よからぬ噂が広がってきました。
淳仁天皇の度重なる諫言にも聞く耳を持たず、逆に仲麻呂を疎んじて遠ざける始末です。

764年、藤原仲麻呂はついに反旗を翻します。
大乱勃発、あわや国を二分するかと思われたこの勝負は機先を制した上皇側が圧勝、
仲麻呂は近江国で敗死というあっけない結末を迎えました。
日頃の備えが出来ていたのでしょうか。
いざとなれば危機管理が出来るのは流石というべきか。

仲麻呂亡き後、独裁権を握った上皇は道鏡を大臣禅師、さらに太政大臣禅師、
ついには法王に引き上げ、自らは淳仁天皇を廃して重祚(ちょうそ)、称徳天皇となります。

以降、称徳、道鏡による政権運営が6年間続き、女帝は次第に道鏡に譲位することを
考えだしたのです。
法王は天皇と同格。
こうなると道鏡も野心が擡(もた)げたことでしょう。

769年、女帝の心を慮った大宰府の主神(かんづかさ) 中臣 習宣阿曽麻呂
(なかとみ すげのあそまろ)が「道鏡皇位につくべし」という宇佐八幡宮の御神託が
あったことを報じました。
主神(かんづかさ)とは管内の諸祭祀を司る長官のことです。

天皇はこれを確かめるため和気清麻呂を宇佐八幡宮に送りましたが,正当な皇位継承を
祈念する清麻呂はこの託宣は「虚偽であると」復命。
激怒した天皇は和気清麻呂の名前を別部穢麻呂 (わけべ きたなまろ)に改めさせ
大隅に配流しました。
世にいう宇佐神宮神託事件です。

然しながら清麻呂を排除しても道鏡への譲位は朝廷内の反対が多く、断念せざるを
えませんでした。

失意の日々を送られた称徳天皇は1年後の770年に崩御。
道鏡は 下野薬師寺別当(下野国:栃木県)を命ぜられ、再び中央に戻ることなく、
没後、庶人として葬られました。

生涯独身にして孤独であった女帝。
道鏡が人生唯一の拠りどころだったのでしょうか。

政争に明け暮れた結果、天武系の皇統が絶え、登場したのが天智系の光仁天皇、
志貴皇子の皇子です。
称徳天皇の嫉視を警戒し、酒乱の振りをして生き延び62歳という高齢での即位でした。

「 大茶盛 蝶ちらちらの 西大寺 」 阿波野青畝

直径40㎝、重さ7㎏もある大きな茶碗に、長さ35㎝の茶筅でお茶を立てて、
参会者に振る舞われる大茶盛式で有名な西大寺は、東大寺に対する西の大寺として
称徳天皇が建立を勅願されたといわれています。

境内の鐘楼脇に孝謙天皇時代に詠われた

「 この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に
     我が見し草は もみちたりけり 」
 
の歌碑が静かな佇まいの中に立ち、昔を偲ぶよすがとなっています。
このあたりに仲麻呂の屋敷があったのでしょうか。
仲麻呂が孝謙女帝の最初の愛人であったという説もありますが真偽のほどは不明です。

「 西大寺 西日に松も 輝けり 」 竹村秀一

                           ( 西大寺へは近鉄西大寺駅から徒歩5分)
エピローグ

坂口安吾は「道鏡」という短編小説で女帝と道鏡との出会いを以下のように記しています。
最後の一行。果たしてそれが本当であったかどうかは何人も知る由もありません。

「 上皇の保良宮の滞在は病気の臥床の滞在だった。
  道鏡のみが枕頭にあり、日夜を離れず、修法し、薬をねり、看病した。
  そして上皇は全快した。
  彼女の心はみたされたから。
  長い決意がみたされていたから。
  上皇はわづかばかりの旅寝の日数のうちに、世の移り変わりの激しさに驚くのだ。
  それは冬雲の走る空の姿でもなく、時雨にぬれた山や野の姿でもなかった。
  それは人の心であった。
  そして、それが自分の心であるのに気付いて、上皇は驚くのだ。
  上皇は冬空を見、冬の冷たい野山を見た。
  その気高さと澄んだ気配にみちたりていた。
  すでに彼女は道鏡に身も心も与えつくしていた。」 

                                            以上
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by uqrx74fd | 2013-02-23 15:25 | 生活

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