2013年 05月 12日
万葉集その四百二十三(山吹)
( 山辺の道で 奈良 )
( 同上 )
( 北鎌倉 明月院で)
( 同上 )
( 皇居東御苑で )
「 折節の移り変わること ものごとに あはれなれ。-
山吹の清げに 藤のおぼつかなさましたる、
すべて思ひ捨てがたきこと多し。 ( 徒然草19段)
「 草は山吹、藤、杜若、撫子。-
いずれもいと高からず ささやかなる墻(かき:垣)に繁からぬ、よし 」 (同139段 )
兼好法師が「家にありたき草花」の第一に挙げた山吹。
晩春のころ、日本各地の山谷いたるところで鮮やかな黄金色の花を咲かせる山吹は
バラ科、山吹属の落葉低木で、我国と中国にしか原生分布していない植物です。
「山吹」と云う名は枝がしなやかで、風に靡き揺れる姿「山振」(やまぶき)に由来し
「吹」は「振」の変字とされています。
渓流や川のほとりに自生することが多いので川や蛙と取り合わせて詠われたり、
優雅で気品のある姿から女性を連想させ恋歌にも登場します。
万葉集での山吹の歌は18首。
大伴家持はとりわけこの花を好んだのか7首も詠っています。
次の歌は家持が越中在任の折、都に住む妹から妻 坂上大嬢(さかのうえ おほいらつめ)宛に
届いた手紙を見せられて詠んだものです。
妻は歌があまり上手ではなかったので代作を頼まれたのかもしれません。
まずは訳文から。
「 この世に生きておりますと とかく人恋しさに悩みがちで、
とりわけ春ともなると 物思いが募って参ります。
そこで、木々が茂る山の谷辺に生えている山吹を見るたびに
心が少しはなごむだろうと
手元に引きよせて、手折ろうか手折るまいかと思いながら結局
家の庭に移し植えました。
ところが、朝露に照り映えている山吹の花
その花を見るたびに 春の物思いはやむこともなく
かえって人恋しさが 募るばかりです。 」
巻19-4185 大伴家持
「長歌 訓み下し文」
「 うつせみは 恋を繁(しげ)みと
春まけて 思ひ繁けば
引き攀(よ)じて 折りも折らずも
見るごとに 心なぎむと
茂山の谷辺(たにへ)に生ふる 山吹を
やどに引き植ゑて 朝露に 匂へる花を見るごとに
思ひはやまず 恋し繁しも 」
巻19-4185 大伴家持
「語句解釈」
「うつせみ」 「現人」(うつせみ)で「この世に現存する人」
「恋を繁みと」 恋心が多いので
「春まけて」 春ともなると
「思ひ繁けば 」 物思いがつのり
「引き攀(よ)じて」 引きよせて
「折りも折らずも」 折ろうか折るまいかと
「心なぎむと」 心和むと
「茂山の谷辺(たにへ)に生ふる」 草木の茂る山の谷辺りに生えている
「繁」という言葉を3回も使い恋文仕立てで詠み、山吹の花に妹の面影を
重ねているようです。
反歌
「 山吹を やどに植ゑては 見るごとに
思ひはやまず 恋こそまされ 」 巻19-4186 大伴家持
( 山吹を 庭に移し植えては見る が見るたびに 物思いは止むこともなく
人恋しさが つのるばかりです ) 19-4186
長歌の趣旨を繰り返し、切に会いたいという気持ちを強調しています。
また、野性の山吹を自宅の庭に移し植えて鑑賞していたことも窺える一首です。
「 山城の 井手の玉川 水清く
さやかにうつる 山吹の花 」 田安宗武
天平の頃 左大臣 橘諸兄は山城の国,井手の里、玉川のほとりに山荘を営み、
遣水した庭園を中心に山吹を植え、川の両岸を埋め尽くしたそうです。
740年、その見事さを耳にした聖武天皇がわざわざ行幸されたことにより、
天下に喧伝され「井手の玉川」は山吹の名所として詩歌に数えきれないほど詠われる
ようになります。
余談ながら、橘氏の家紋は橘ではなく山吹紋を用いていましたが、子孫の楠木正成の
旗印は菊水。
初めは玉川と山吹であったが菊が瑞祥植物であり花の形が似ているので菊水に変えた
とのこと。
「 かはず鳴く いでの山吹 ちりにけり
花のさかりに あはましものを 」 読み人しらず (古今和歌集)
この歌に 「ある人のいはく たち花の清友が歌なり」 の注があり、作者は
橘諸兄の孫と推定されています。
河鹿が鳴く井手の里に来てみたものの、山吹の花の盛りには出会えなかったと嘆いて
いますが、黄金色の花が地面に散り敷く風情もなかなかのものです。
この名所は後世まで長く残されていましたが、戦中戦後の災害で全滅し、
当地を訪れた吉井勇は
「 くだつ世は 悲しきかなや いにしへの
井手の玉川 見る影もなし 」 と慨嘆しています。
「くだつ」は「降つ」 盛りが過ぎて末になる。
現在は堤に桜が植えられ、地元の人達の努力で山吹も徐々に復活されているようです。
「 山吹の うつりて黄なる 泉かな 」 嵐雪
ご参考: 万葉集遊楽 その百五十八 「山吹の花 」
by uqrx74fd | 2013-05-12 07:59 | 植物