万葉集その四百三十二( 長屋王 2)

( 住宅街の真ん中にある 長屋王の墓  )
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( 同上 )
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( 吉備内新王の墓 住宅の横の石段を上ったところにある)
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( 同上 )
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( 貴族の邸宅復元模型  長屋王邸は数倍も大きかった 奈良文化財研究所 撮影許可済)
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( 宮廷の台所 同上 画面をクリックすると拡大出来ます )
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「 岩が根の こごしき山を 越えかねて
    音(ね)には泣くとも  色に出(いで)めやも 」 
                巻3-301 長屋王(ながやのおほきみ)  (既出)


( 岩のごつごつした山、そんな険しい山を越える辛さに、つい声を出して
 悲鳴をあげることはあっても、あの子を思っていることなど人前でそぶりに
 出したりはすまいよ )

かっと照りつける日差しの下での辛い岩登り。
それでも他人には弱音を吐きたくないものです。
古代の山越えは道なき道を行くようなもの。
高貴な貴族にとっては殊更苦しい旅であったことでしょう。
恋に悩んでいる歌のようですが、政治的に苦しい立場に追い込まれていた作者は
自らの苦難に強く立ち向かおうと決心しているようにも思われます。

長屋王は皇親政治、すなわち皇族が中心になって政治を司るという考えが強い人物でした。
当時、政治の実務を担っていた藤原一族は天皇家との血縁関係によって実権を完全に
掌握せんものと不比等の娘,宮子を文武天皇の夫人として後宮に入れます。

そして、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)が誕生。

ところが文武天皇が25歳という若さで世を去り、後継の首皇子は僅か7歳。
已む無く文武の母が元明天皇、続いて姉が元正天皇となって中継ぎの役目を
果たすことになりました。

首皇子の成長を待つこと17年 
724年、念願かなって聖武天皇即位、時に24歳。

不比等は宮子に続き娘の光明子を聖武の后にすることに成功し
藤原家の立場を盤石にしてゆきます。
そして、目論見通り、聖武、光明子の間に基(もとい)王を授かりましたが、
世の中はままならないものです。
期待の星、基皇子がわずか1歳で死没してしまったのです。

しかも、同じ年、藤原家の血筋ではない県犬養広刀自(あがた いぬかい ひろとじ)が
聖武天皇の第2皇子安積親王出産。

聖武と光明子との間で次の子供が授かっても年齢からみて安積親王が天皇になる
可能性が高い。
しかも光明子は臣民の娘です。
ついに、藤原氏は最後の手段として光明子を皇后にすることを画策しました。

然しながら長屋王は「皇族を皇后に」という強い信念の持ち主。
藤原氏の野望の前に立ちはだかることは目に見ています。

そこで起きたのが長屋王の変です。

基(もとい)王の死は長屋王の呪詛によるとの讒言が飛びかいはじめ、さらに
下級官人である漆部造君足(ぬりべ やっこ きみたり)と中臣宮処東人
(なかとみの みやこの あずまひと)が
「王は左道(呪術)をもって国家を傾けようとしている」と密告してきたのです。

729年2月、この密告を深く吟味することなく、天皇によってさしむけられた
藤原宇合の率いる兵に長屋王邸は包囲され、翌日、舎人親王などの数人の首脳陣が糾問。
翌々日、長屋王をはじめ、妃の吉備内親王、子の膳出王(かしはでのおほきみ)ほか4名
すべて自死し果てました。

この事件は藤原氏の策謀によって仕組まれた冤罪だったという事が後々判明します。

「 大君の 命(みこと)畏み 大殯(おほあらき)の 
    時にはあらねど  雲隠(くもがく)ります 」
                        巻3-441 倉橋部女王


( 天皇の仰せを畏れ承って 殯宮などまだお祭り申す時ではないのに、
 我が王は雲の彼方にお隠れになっています)

作者は王の娘かそれに近い女性と思われ、「時にあらねど」に亡くなるべき時ではないのに、
自尽を強いられたことに対する悲憤が強く籠っています。

大殯(おほあらき)は本葬の前に亡くなった人を安置する場所です。

「 世間(よのなか)は 空しきものと あらむとぞ
     この照る月は 満ち欠けしける 」  
                      巻3-442 作者未詳


( この世の中はかくも空しいものと教えるように、
  この月は満ち欠けしているのだなぁ)

父長屋王の後を追った長男 膳夫王(かしわでのおほきみ)の死を悼んで親しい人が
詠ったものと思われます。
口に出して語ることが出来ない不条理な死を、月の満ち欠けに託し、精一杯
抗議しているようです。

長屋王の変の半年後、光明子は皇后になり、藤原氏は野望を成し遂げましたが
歴史は皮肉なものです。
8年後の737年、都で流行した天然痘のため藤原4兄弟が全員病死し、
藤原政権はあっけなく崩壊。
政治の実権は橘諸兄に移りました。
再び皇親派の台頭です。

文化の華開いた天平という時代はその名にもかかわらず激動の時代でした。
天災がうち続き、民情不安定の中、大仏建立を推し進め、九州では藤原広嗣の乱。
聖武天皇は都を転々と遷えて流浪を続けるという不可解な行動をするのです。
一体何に怯えたのでしょうか?

非業の死を遂げた長屋王は奈良、生駒山麓 平群の里に葬られ、松籟の渡る下で、
吉備内親王と隣り合って眠っておられます。
そして、1250余年後、歴史的な発見により再び脚光を浴びることになったのです。

  「 山茱萸(やまぐみ)の 花また花や 平群谷 」 竹村秀一

エピローグ

1986年9月、平城京東南の斜め向かい、左京三条二坊の発掘調査が始まりました。
広さ3万2千㎡。約3年がかりという大規模なものです。
3年後の1988年8月の終わり、調査が最終局面を迎えた頃のことです。
隣接する私有地でデパートの建設工事が進められており、ブルド-ザ-が
砂塵を巻き上げながら縦横無尽に走りまわっていた時、研究所へ戻ろうとしていた
ある調査員がふと傍らに目を向けると、重機で掘り返された土におびただしい木片が
混じっているではありませんか。

慌てて工事を中断させて調査した結果、何と! 4万点に達する木簡が発掘されたのです。
世にいう長屋王木簡で、平城京で個人名が特定された最初の住居跡です。

千載一遇の僥倖、そのまま粉々に打ち砕かれてコンクリートの下に埋まっていたら
この貴重な記録は永久に見つけることができなかったことでしょう。
調査員の何物も見落とすまいと言う日頃の心がけの賜物です。

木簡は不要になったら削り取って再利用されるので、鉋屑のような薄い木片も
重なって埋もれており、そこに書かれた膨大なデータを解読するには相当な年月が
必要とされるでしょうが、早々に判明したことは発掘現場が約2万坪近くある
長屋王の邸宅跡であり、私有地として37か国におよぶ領地をもち、飛鳥近辺から
毎日新鮮な野菜や穀物が運び込まれていたほか、邸内で馬、犬、鶴を飼い、
氷を貯蔵する「氷室」や鋳物の工房を持ち、牛乳、蘇(チーズ)を食べていたという
皇室並みの豪華な生活をしていたことでした。

更に驚くべき発見は「長屋王親王宮 鮑大贄(あわびおおにえ)十編」という
献上品の木簡です。
大宝律令によると、親王という呼称は天皇の兄弟と皇子のみに限られ、
皇族は「王」と称することになっていました。

親王の資格がないのになぜそのように書かれているのか?
1つはその出自の高貴さ故に親王に近い処遇を受けており、王の身辺の人々が
親王扱いして内々に称していたものが、本人がその気になって公然と称するようになった。
あるいは元正天皇が曾孫である長屋王の皇子達を可愛がり、皇孫に格上げしたことに
より長屋王が自然に親王扱いとされたとも推定されています。

それにしても、腐りやすい木の屑に書かれた文字が1300年経過した後でも
解明できるとは! 
まことに奇跡に近い出来事でありました。

 
ご参考 : 官人の年収推定 (現在値換算) 

 正1位 3億7455万円   藤原不比等 橘諸兄
  2位 1億2484万円   藤原仲麻呂 長屋王
  3位 7,490万円     大伴旅人
  従5位 1,540万円    大伴家持 山上憶良
  従6位 616万円     柿本人麻呂

  少初位 (最下位)  230万円 

大宝令で30階に分かれる。 
位に相当する官職が付き、給与のほか田畑、布、農機具などが与えられ、
政治的特権が多かった。
                      ( 山田良三 万葉歌の歴史を歩く 新泉社より)
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by uqrx74fd | 2013-07-13 09:45 | 生活

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