万葉集その四百三十九 (生駒山)

( 平城宮跡 大極殿  後方 生駒山)
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( 生駒山)
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( 東大寺二月堂から  前方 生駒山 )
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( 同上 )
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( 落日の生駒山 )
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平城京跡に立ち西の方角を望むと行く手を遮るような山並みが見えます。
奈良県と大阪府の境に聳え立つ生駒山です。
標高642m、それほど高い山ではありませんが山頂から平城京、大阪湾が
一望のもとに収めることが出来るので大化の改新後、外敵の侵入を防ぐため、
烽火台がおかれ、東の春日山と共に宮都鎮護の山とされていました。

難波が瀬戸内海、朝鮮半島、中国大陸への重要な港として整備されるにつれ、
遣唐使、遣新羅使、防人など人の往来が多くなり、加えて物資の運搬も頻繁になります。

当時、都から河内、難波へ行くには生駒山をまっすぐ越えていく「生駒越え」と
山を迂回する「龍田越え」がありました。
「生駒越え」は最短距離ながら険阻な岩道の上、大阪側の平野部に湿地帯が多く、
人々は急ぎの用事がないかぎり斑鳩、龍田本宮を経て高さ200mあまりの丘陵地帯を
通る平坦な「龍田越え」を選んでいたようです。

ところが恋に燃えると、どんなに険しい岩道であろうが沼地であろうがなんのその。
とにかく一刻も早く恋人の姿を見たいと、生駒越えの夜道を駆け抜ける若者たちが
いたのです。

「 夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山
   越えてぞ我が来る 妹が目を欲(ほ)り 」 
                  巻15-3589(既出)   秦 間満(はだの はしまろ) 


( 夕方になると蜩(ひぐらし)が来て鳴くものさびしい生駒山。
 私は、あの子に一目逢いたくて その山を越え、大和に向かっています。)

「妹が目を欲り」に愛する人に逢いたいという切実な想いが込められているようです。

736年6月、大和朝廷は総勢80人からなる新羅使節団を派遣することになり
難波に集結します。
646年に始まり779年まで27次派遣された使節の23番目です。
上記の歌は難波に集まった下級官人が出航する風待ちの間休暇を与えられ、
僅かなひと時を惜しんで妻に逢いに行った時の歌です。

岩がごつごつしている急峻な山を夜道朝駆けで往復するのですから
余程体力に自信がなければ出来ません。

新羅への道は玄界灘の荒れた海を小さな船で渡る危険な旅。
確実な生還を期し難かっただけに今生の別れと悲壮感が漂う心境だったことでしょう。

当時、山越の道はいくつかあったようですが、今や開発で寸断され、
どの道を辿ったか定かではありません。
ただ、鞍部に「暗峠」(くらがりとうげ:標高455m)と呼ばれる石畳の道が残されて
おり、往時の面影を偲ばせてくれています。

「 君があたり 見つつも居(を)らむ 生駒山
    雲なたなびき 雨は降るとも 」
                   巻12-3032 作者未詳


( あの方の家のあたりを見やりながらお待ちしていましょう。
 あの生駒山に雲よ、どうか棚引かないで下さい。
 たとえ雨は降っても )

大和に住む女性。
恋人は生駒山を越えた難波あたりに住んでいるのでしょうか。
生駒山を恋人に見立て、訪れてくれるのは何時かと待ち望む切ない女心です。

「 難波津(なにはと)を 漕ぎ出て見れば 神さぶる
    生駒高嶺に 雲ぞたなびく 」
                巻20-4380 大田部三成(おほたべのみなり)


( 難波津を漕ぎだして振りかえってみると 
 神々しい生駒の高嶺に雲が棚引いている)

下野(栃木)の防人歌。 
難波を出航し沖合から見た生駒山。

当時の大阪湾は今よりずっと内陸に入り込んでいました。
船上から仰ぎ見る生駒山は故郷そのもの。
「山の神様、どうか私を守って下さい」と、切実な祈りが籠る1首です。

今日の生駒山頂は航空灯台、天文台、テレビ塔が林立し、ケーブルカー、
ドライブウエイが整備された遊園地となり昔日の面影は全くありません。
山頂からの展望も公共建物の鉄柵で立ち入ることが出来ず、登山の途中、
中腹からの眺望で当時の様子を瞼に思い浮かべるしか術がありませんが、
岩が多く残る山道は万葉人の苦労を偲ばせ、季節の花々や棚田が目を
楽しませてくれます。

  「 二重虹 生駒の嶺を 跨ぎけり 」 久保田嘉代

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by uqrx74fd | 2013-08-31 07:39 | 万葉の旅

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