万葉集その四百五十 (万葉のオフィーリア)

( 柿本人麻呂 JR和歌山線 五條駅で)
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( シェイクスピアの肖像 パナマ切手  yahoo画像検索より) 
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( 夏目漱石  yahoo画像検索より)
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( オフィーリア  ジョン・エヴァレット・ミレイ  yahoo画像検索より)
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(  出雲乙女 森脇正人  万葉日本画の世界図録より 奈良県立万葉文化館刊)
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( 草枕絵巻  山本丘人  yahoo画像検索より)
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(  ビル・エバンス アンダーカレント   レコードジャケット 学友i・n君のイチオシ)
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1600年に上演されたシェイクスピアの不朽の名作、悲劇「ハムレット」。
数々の場面のなかでも、ヒロイン、オフィーリア入水のくだりは今もなお多くの
人々の紅涙を誘い続けています。
絶世の美女が仰向けになって歌いながら流され、やがて沈んでいく。
世の人々はその悲しい出来事に同情の涙を浮かべながらも一種のロマンを感じるのです。

ところが驚くべきことに、信じられないことでありますが、それよりも900年も前に
我が柿本人麻呂が同じシーンを詠っているのです。
まさか、まさか、シェイクスピアが万葉集を読んでいたのではありますまいねぇ。
まずはハムレットの場面から。

『 妃:           「- - レイアーティーズ、オフィーリアが溺れて。」
  レイアーティーズ:  「 溺れて!  そりゃ、どこで?」
  妃 :          「 小川のふちに柳の木が、白い葉裏を流れにうつして、
                 斜めにひっそり立っている。
                - オフィーリアはきれいな花環をつくり、その花の冠を、
                 しだれた枝にかけようとしてよじのぼった折も折、
                 意地悪く枝はぽきりと折れ、花環もろとも流れの上に。

                 すそがひろがり、まるで人魚のように川面をただよい
                 ながら、祈りの歌を口ずさんでいたという。
                   -
                 ああ、それもつかの間、ふくらんだすそはたちまち水を吸い、
                 美しい歌声をもぎとるように、あの憐(あわ)れな
                 牲(いけに)えを、川底の泥のなかにひきずりこんでしまって。
                 それきり、あとは何も。 」
レイアーティーズ:      「ああ。そのまま溺れて?」
妃 :              「溺れて、ええ、溺れて」
                             (シェイクスピア ハムレット 福田恒存訳) 』

続いて人麻呂の登場です。

「 八雲さす 出雲の子らが 黒髪は
      吉野の川の 沖になづさふ 」  巻3-430 柿本人麻呂


( 盛んに湧き立つ雲のように若々しく美しい出雲の乙女。
 その乙女のつややかな黒髪が吉野の川の波のまにまに漂っている )

この歌は出雲から宮中に召された采女が禁忌の恋に悩んで入水を遂げたのを
作者が憐れんで詠ったものと推定されています。
作者は吉野山で火葬の煙が流れるのをを見ながら

「 山の際(ま)ゆ 出雲の子らは 霧なれや
    吉野の山の 嶺にたなびく 」巻3-429 柿本人麻呂


( 山あいから 霧がたなびいている。
  あれは出雲の子を焼いた煙が霧になったものなのだろうか )

と詠い、入水した時の乙女の様子を幻視しているのです。

古代の宮中の女性は地に着くほどの長い黒髪を持っていました。
その髪が玉藻のようにゆらゆら揺れている。
山と川を対比させ、幻想的な場面を詠った短い物語風の2首です。

以下は青木生子氏の解説です。

『 幻想がなんと美しく詠われていることか。
  おとめの長い黒髪が沖の川波にゆらぎ漂っている印象がさながら一枚の絵のように
  脳裏にやきついて離れない。
  それはこの人麻呂の歌を初めて私が知ったときの経験である。
  「ハムレット」のオフェリヤのイメージとこれがあまりにぴったり重なりあった
  ときめきだといったらよいだろうか。――

  たぶんオフェリヤの絵を何かの画集で見たはずである。
  だが私の場合は、夏目漱石の「草枕」の中から一層馴染みな映像を結んでいると
  いったほうが正しいらしい。
  それにここには万葉の歌とつながる糸の手ごたえが何やらありそうな
  気がするのである。 』         ( 万葉集の美と心 講談社学術文庫より)

ここで、若き頃イギリスに留学していた夏目漱石の登場です。
彼はオフィーリヤの絵を見て強烈な印象を受けましたが、なぜこのような場面が
描かれたか納得しないまま「草枕」を書き始めました。

『 余は湯槽のふちに仰向けの頭を支えて、
  透き徹(とお)る湯のなかの軽(かろ)き体を、
  出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。
  ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。

  世の中もこんな気になれば楽なものだ。
  分別の錠前を開けて、執着の栓張(しんばり)をはずす。
  どうともせよと、温泉(ゆ)の中で温泉(ゆ)と同化してしまう。
  流れるものほど生きるには苦は入らぬ。- -
  - なるほどこの調子で考えると土左衛門(どざえもん)は風流である。
  - -
  余が平生から苦にしていた、ミレ-のオフェリヤも、こう観察すると大分美しくなる。
  なんであんな不愉快な所を択(えら)んだものかと今まで不審に思っていたが、
  あれはやはり画になるのだ。
  水に浮かんだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮かんだり
  したまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。
  それで両岸に色々な草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、
  衣服の色に、落ち着いた調和をとったなら、きっと絵になるに相違ない。 』
                               ( 夏目漱石 草枕 岩波文庫より)

シィエイクスピア、柿本人麻呂、夏目漱石。
それぞれの名文や歌をこのようにつないでみると、東西古今の大文学者と歌人がお互いに
楽しげに語り合っている様子を垣間見るような心地がいたします。
これも優れた文学を読む楽しみの一つなのでしょう。

「 恋河に 沈むにつけて 思ふかな
     我が身も石に  なるにやあるらむ 」    藤原頼保 
          

            恋河:恋心に深く沈む心を川の深さにたとえたもの。

 追記:
    以下は草枕の続きです。
    「長良の乙女」「ささだ男」「ささべ男」については
    万葉集遊楽その二十四 (漱石の草枕) をご参照下さい。

『 すやすやと寝入る。
  夢に。
  長良の乙女が振袖を着て、青馬(あお)に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、
  ささべ男が飛びだして両方から引っ張る。
  女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上(のぼ)って、河の中を流れながら
  うつくしい声で歌をうたう。
  救ってやろうと思って、長い竿を持って向島を追っかけて行く。
  女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末(ゆくえ)も知らず
  流れを下る。余は竿をかついで、おいおいと呼ぶ。 
  そこで目が覚めた。
  腋の下から汗が出ている。 』 
                            ( 夏目漱石 草枕  岩波文庫より)
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by uqrx74fd | 2013-11-15 09:40 | 生活

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