万葉集その四百五十四 (秋山我れは)

( 長谷寺の春  奈良)
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( 談山神社の秋  同上 )
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( 東大寺二月堂参道付近 同上 )
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( 室生寺付近から  同上 )
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( 浮見堂 後方、春日山 同上 )
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( 吉城園 同上 )
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( 山辺の道  同上 )
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( 室生寺  同上 )
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668年、近江大津に都が遷された1年後のことです。
中大兄皇子(なかの おおえの おうじ)が即位され、天智天皇が登場しました。
長年住み慣れた飛鳥から遠く離れた近江に都を遷したのは白村江(はくすきのえ)海戦で
唐に大敗し、外敵の侵攻に備えて国内の守りを固める必要があった為とされていますが、
官民の悪評甚だしく、放火が絶えないなど不安定な世情でした。

都造りが一段落した669年頃、そのような人心を一新するためか、天皇は
大掛かりな詩宴を催されます。
天皇列席の下、元老藤原鎌足以下高位高官がずらりと居並び、美しく着飾った
後宮の女性がきらびやかに侍る中での文雅の宴です。

これまで、国見、祝祭、歌垣、恋愛、挽歌など生活に密着して詠われた詩歌が、
自然を詠い、その優劣を争うという初めての試みで、後世盛んに行われた
歌合せの原型をなし、現在も続く曲水の宴や御歌会にもつながる我国文学史上
画期的な催しとされています。

命題は「春山の万花の艶(にほひ)と秋山の千葉(せんよう)の彩(いろ)」
つまり「春山と秋山どちらが趣深いか」を漢詩で競作させたのです。

当時の近江朝は大陸の影響を強く受けており、貴族の子弟のために官立の学校を
創設して詩文を学ばせ「懐風藻」を編むなどを漢詩全盛の時代でした。

習いたての拙い漢詩を披露し、侃々諤々の応酬がありましたがなかなか決着がつきません。
それぞれの披露が終わった頃、天皇は鎌足を通じて額田王に
「どちらに趣があるか判定せよ」と下命されました。

突然の指名にも動じることなく、恭しく承った額田王は漢詩ではなく
和歌(長歌)で応え、朗々とした声で詠いはじめます。

「 冬こもり 春さり来れば 
  鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ
  咲かずありし 花も咲けども
  山を茂(し)み 入りても取らず
  草深み 取りても見ず

  秋山の 木の葉を見ては
  黄葉(もみち)をば  取りてぞ偲(しの)ふ
  青きをば  置きてぞ嘆く  そこし恨めし

  秋山我(わ)れは 」
         
                   巻1-16 額田王


以下一行づつ訓み解いてまいりましょう。

「 冬こもり 春さり来れば 」  ( 冬の枯木が青々と茂る春になると)

     「冬こもり」は春の枕詞。 
      原文「「冬木成」とあり「冬の枯木が青々と茂る」の意です。

      「春さり来れば」 「さり」は「秋さらば」などと同じで
      「~になると」という時間の進行をあらわします。
      向こうからだんだん近づいてきて自分の前を通り過ぎ、
      そして遠ざかるという感じを「去る」と言ったのです。

「 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 」 (これまで鳴かなかった鳥も来て鳴く )
「 咲かずありし 花も咲けども 」 (冬の間咲かなかった花も咲き出す、が、しかし、、、)

   ここで 「咲けども」という否定を予兆する言葉が入り春組は緊張します。

「 山を茂(し)み 入りても取らず 」 

      ( 山が茂っているので 分け入って美しい花を採ることも出来ない)

「 草深み 取りても見ず 」  (草が深いので花を手に取って見ることもない)

ここまでが春の長短を述べて一段落

「 冬の枯木が青々と茂る春が来ると これまで鳴かなかった鳥が来て鳴き
  咲かなかった花も咲く」と春の素晴らしさをあげて春組の人たちを喜ばせ
「 山が茂っているので分け入って入ることも出来ないし、
  ましてや花を摘みたいのにそれも出来ない 」

と短所をあげ 「やっぱり秋か」と春の支持者をがっかりさせる。
そして秋組が期待する中

「 秋山の 木の葉を見ては 」  ( 秋の山の 木の葉を見ては )
「 黄葉(もみち)をば  取りてぞ偲(しの)ふ 」 ( 色づいた葉を手に取って愛でる)

    「偲ふ」は 思いを馳せるの意に使われることが多い。
     ここでは「賞美する」と褒めています。

そして秋組を喜ばせた途端

「 青きをば  置きてぞ嘆く 」   ( 青い葉はそのまま捨て置いて嘆く)

   「嘆く」は「あぁ残念 黄葉したらどんなに美しいことか」
   と溜息をつくの意。

「そこし恨めし」   (その点が残念です)

   と「え-何で」と秋組をがっかりさせ
   「一体どちらなの?」と
   春秋組共いぶかしく思い、周りがざわめいている中、

一呼吸おいて

 「 秋山 我れは 」 ( でも春か秋かどちらを選ぶかと云われれば 私は秋!)

と唐突に判定したのです。

一同声もなく呆然。 伊藤博氏は

『 春秋それぞれ支持する聞き手に心を配り、双方を巧みにあやつりながら
  最後は論理的根拠を何一つ持ち込むことなしに突如「秋」に軍配を上げた。
  この歌は一座の喝采をあび、春側も秋側も恨みっこなしの和気と哄笑が
  座をおおつたことであろう。
  心残りも罪もない爽やかなお開きというべき 』 

と述べておられます。(万葉集釋注)
それにしても一体何故秋だったのでしょうか?
様々な意見があり、以下は要約です。

伊藤博、   天皇の心を読んだ判定と推定
        御言もち(天皇の立場になって詠う) 歌人に課せられた機能

中西進   「恨めし」は単に残念と云うだけではなく
        「恨めしいと思わせるほどに秋のたまらない魅力がある」という
         気持ちを含む。
 
土橋寛    宴が行われたのが秋だったから。
        一同あっけにとられたあと「ああ、そうか」と合点した。
        これは遊びの論理。

犬養孝    花を手に取りえない無念さを訴えるところ女性心理の機微を
        詠いあげている。
        「 春、秋 ともに良いし、また、具合が悪いところもある」と
        ゆきとどいた女性らしい情感の細やかさと豊かさの波動が
        表出されている。
        「どうしたらよいかしら」と迷う心の揺らぎを乗り越えた心情を
        「秋山我れは」に込めた。

青木生子   「女らしい心のゆらぎ」は男の心を引きつけるたくまれた媚態表現、
         「我れは」という個の表現は女歌の最初の確立。

直木孝次郎   どちらも一応の満足をさせ会を無事に終わらせるプロの歌人のわざ。
           額田王が人間として老熟し、ものみなの成熟する秋の美しさを
          しみじみ感じるようになったのではあるまいか。
          収穫の秋、みのりの秋によせる日本の伝統的な思いが
          あったのではないか。

当時の天皇の重要な行事の一つに豊作を祈願するという国事行為がありました。
春の国見で炊煙の多いことを祈り、満開の桜に豊かな実りを予祝する。
自ら田植えを行い、秋には神に収穫を感謝し新嘗祭を行うなど、民の生活と
密接に結びついていたのです。
「春山と秋山の優劣を競う」という文雅の宴にも、そのような思いが
込められていたのでしょうか。
とすれば天皇の意を汲んで収穫の秋に軍配をあげた額田王の心情も理解できる
ような気がいたします。

額田王は若き頃、中大兄皇子の弟、大海人皇子と結ばれて一女をもうけたのち
天智天皇の後宮に入り、既に齢(よわい)40前後。
当時としては老境にさしかかった頃です。
自分自身の偽りなき気持ちとしても華やかな春よりも、しっとりと落ち着いた
秋のほうが好ましかったのかもしれません。

「 花びらの 山を動かす さくらかな 」 抱一

「 千山の紅葉 一すぢの 流れかな 」 正岡子規


   「うーん」 春、秋、甲乙つけがたいですねぇ。
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by uqrx74fd | 2013-12-13 18:01 | 生活

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