万葉集その四百七十四(恭仁京 :くにきょう)

( 恭仁京大極殿跡  京都府 )
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( 大極殿周辺 )
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( 山城国国分寺跡 )
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( 同 想像図 )
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( 木津川 : 泉川)
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( 恭仁大橋の脇に立つ大伴家持万葉歌碑 )
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( 釣り人 木津川 )
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( 大極殿の隣 恭仁小学校 万葉時代朝廷の建物があったと思われる )
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( 説明文   画面をクリックすると拡大出来ます )
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740年、聖武天皇は突然、都を平城京から山背(やましろ)に遷す詔を出されました。
恭仁京(くにきょう)。
当時、瓶原(みかのはら)離宮が営まれていたところで、山々に囲まれた盆地の中心部に
木津川が流れている風光明媚かつ物資輸送に至便の要衝地です。

(現、京都府木津川市加茂町、JR関西本線加茂駅から約2㎞)

時は天平の爛熟期から退廃期に移り、朝廷の中枢を占めていた藤原4兄弟が
天然痘で全員死亡、農民の逃亡は後を絶たず、九州大宰府で藤原広嗣が
反乱を起こすなど、社会、政治とも極めて不安定な情勢でした。

天皇は橘諸兄を右大臣に登用し、さらに20年ぶりに帰国した遣唐使、
玄昉(げんぼう)と吉備真備を重用するなど、局面の打開をはかり、
遷都も橘諸兄の進言によるものであったといわれています。

この地域を勢力圏とする諸兄は藤原氏の影響が強く残る平城京から天皇を
離したかったのかもしれません。

都造りに先立ち、朝廷は馬の管理全般を取り仕切る軍人司令官を派遣し
諸工事を指揮させ、さらに近辺の防備など行わせました。
この長官、歌の素養があったらしく、早速土地を讃える歌を奉納します。

まずは「長歌」の訳文からです。

「 山城の恭仁の都は 
  春ともなると 花が枝もたわわに咲き誇り
  秋には黄葉が まばゆく照り映えている
  恭仁の都を帯のように囲んでいる泉川
  その川の上流に 打橋を渡し
  下の淀みには 浮橋を渡しました。
  この新しい都に ずっと通い続けましょう
  万代の後いつまでも 」 
     
             巻17-3907  境部 宿祢 老麻呂(さかひべの すくね おゆまろ)

(訓み下し文                       右 語句解釈)

『 山背(やましろ)の 久爾(くに)の都は
   春されば  花咲きををり  
                            春されば:春になると
                            花咲きををり: 「ををり」はたわみ曲がる
  秋されば 黄葉(もみちば) にほひ
  帯(お)ばせる 泉の川の  
                            帯ばせる:新都をとりまく川を帯に見立てたもの
  上(かみ)つ瀬に  打橋渡し
  淀瀬には  浮橋渡し
  あり通(がよ)ひ 仕へまつらむ
                          あり通ひ:「あり」は存続の意でずっと通い続けて
  万代(よろづよ)までに  』 

                  巻17-3907  境部 宿祢 老麻呂(さかひべの すくね おゆまろ)

「反歌」

「 楯(たた)並(な)めて 泉の川の 水脈(みを)絶えず
    仕へまつらむ 大宮ところ 」  
                           巻17- 3908 同上


( 滔々と流れ続く泉川の 流れが絶えないように
  いついつまでも絶えることなく この大宮所にお仕えしたいと
  思っていいます )

「楯並めて」は「楯を並べて射(イ)る」の意から「泉」のイに掛けた枕詞で、
 如何にも軍人らしい武骨な用語。

泉川は現在の木津川。
打橋、浮橋はいずれも板や小舟、筏を渡した簡易の橋で造営中の様子を物語っています。

翌741年、平城京の大極殿や歩廊を解体し移設の準備。
東西の市も移し、恭仁京を「大養徳 恭仁大宮 (おおやまと くにのおおみや)」と命名し、
5位以上の貴族全員移住を命じられました。
急な命令とあって取り急ぎ単身赴任をした大伴家持が着任してみると、槌の音も高く
造営の真っ最中、準備不足の慌ただしい工事は遅々として進んでいなかったのです。

「 今造る 久爾の都は 山川の
    さやけき見れば うべ知らすらし 」 
                           巻6-1037 大伴家持 (既出)


( 今新たに造営している恭仁の都は 山も川も清々しい。
 ここに都を定めたのは なるほど尤もなことと 思われる )

「うべ」は事態を肯定する副詞 なるほどもっとも
「知らすらし」 天皇の行為、心情を推し量ったもの

家持は頼みとする橘諸兄が政治の実権を握り、前途に愁眉を開いていたらしく、
この歌にも明るさが見えます。

ところが、1年経過した後の正月、天皇の朝賀の時でさえ大極殿おろか
宮の垣すら成らず、帷幄(いあく=幕)をめぐらした中で行われる有様。
資金、人員不足が甚だしく、遷都さえ危ぶまれる事態です。

にもかかわらず、742年、天皇はさらに甲賀郡紫香楽(しがらき:滋賀県信楽町)に
離宮を造営し、大仏建立を宣言する支離滅裂な詔を出す始末。

そして、とうとう恭仁京の造営を中止して難波を皇都と定めます。(744年)
わずか4年余の短命の都。
天皇自身は紫香楽の宮に移り、大仏建立の指揮を執るつもりでしたが、
放火による火災や地震が頻発し、ついに745年、朝廷の百官や四大寺
(薬師寺、大安寺、元興寺、興福寺)に、いずれを都とすべきかを計り、
全員が平城京と答え、奈良の都に戻ることになったのです。

この平城京復都は光明皇后を後ろ楯にした藤原仲麻呂の画策ともいわれ、
再び藤原氏の復権がはじまります。

「 三香の原 久爾の都は 荒れにけり
     大宮人の うつろひぬれば 」 
                   巻6-1060 田辺福麻呂歌集


 ( 三香の原の恭仁の都は 大宮人が 次々と移り去ってしまったので
  すっかり荒れ果ててしまったことだ )

恭仁京の大極殿は国分寺の金堂に編入され、882年に炎上。
その後、興福寺の末寺として再興されましたが、現在は塔跡に昔の面影を
とどめているのみです。
膨大な財と人力を傾け、多くの人々に塗炭の苦しみを味あわせた恭仁京遷都とは
一体何だったのでしょうか。

  「 石碑立つ 恭仁京跡や 揚雲雀」  筆者

JR加茂駅からゆっくり歩いて30分。
恭仁大橋の上に立つと、美しい山々の裾を木津川が滔々と流れています。
欄干から下を眺めると底が見えるほどに澄んだ水。
昔は川幅が今の倍以上あったことでしょう。
遠くで水遊びをする子供達、鮎釣りを楽しんでいる人。

さらに歩くこと30分。
恭仁京、国分寺の跡は礎石が残るのみです。
隣接する木造の小学校、この辺りも都の建物が立ち並んでいたことが彷彿されます。

人一人いない広場に立つと、せせらぎの涼しげな音が聞こえてきました。
家持もこの場所で美しい山並みを眺めていたのでしょうか・

  「 恭仁京の 跡とて草の 芳(かぐは)しき 」 上山紫牛
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by uqrx74fd | 2014-05-02 08:34 | 生活

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