万葉集その四百九十 (住吉)

(住吉神社正面鳥居)
b0162728_2227856.jpg

( 同上 第三、第四本宮(右)
b0162728_2227385.jpg

( 同上 第二本宮 )
b0162728_22263463.jpg

( 同上本宮 折しも結婚式の真っ最中 )
b0162728_2226519.jpg

( 同上 反橋 昔はこの辺りまで海が入りこんでいた )
b0162728_2225429.jpg

( 万葉歌碑 )
b0162728_22252237.jpg

( 万葉当時の地形図  画面をクリックすると拡大できます )
b0162728_2226626.jpg

( 神輿船 )
b0162728_22245148.jpg

住吉は古くは「すみのえ」とよばれ、現在の大阪市住吉区一帯とされています。
今や住宅、コンビナート、コンテナ港が立ち並び、見る影もありませんが、
昔は海が内陸の住吉神社あたりまで入りこみ、海岸線に沿って白砂青松がうち続く
景勝の地であったようです。
また鯨が見られたのか「鯨魚(いさな)取り」という枕詞が使われている歌があり、
浜では蜆(しじみ)、高台では染料となる黄土が豊富であったことも伝えられています。

近くに難波宮、住吉大社があり、また遣唐使、遣隋使、防人の出発点として
栄えた難波津(港)を控えて歓楽街も多かったと思われ、都の官人たちはこの地を
訪れることを心待ちにしていたことでしょう。

住吉と言えばまず住吉大社。
海を支配する神様で、底筒男命(そこつつの をの みこと)、中筒男命、
表筒男命(うわつつの おの みこと)の三海神と神功皇后が祀られています。
「筒」とは星のこと。
夜の航海は星を頼りにしていたことにより、守り神と崇めたことによる名前で、
神功皇后の合祀は三韓征討の折、住吉の神様が加護し給うた伝説に由来するものと
されています。

「 住吉(すみのえ)に 斎(いつ)く祝(はふり)が 神言(かむごと)と
      行(ゆ)くとも 来(く)とも  船は早けむ 」
                      巻19-4243 多治比 真人 土作(たぢひの まひと はにし) 


( 住吉の社で神祭りしている神主のお告げによると、貴殿の船は
 行きも帰りも何の支障もなくすいすいと進むとのことでございます。 )

751年、遣唐使派遣にあたり藤原仲麻呂邸で送別の宴が催された折の歌で、
作者が航海の安全を祈願したところ、恙なく旅を終える旨の御神託が出たというのです。
遣唐使、遣隋使はまず住吉大社で航海の安全を祈願し、現在の反橋辺りから出航するのが
当時の習いでした。

「 白波の 千重(ちへ)に来寄する 住吉(すみのえ)の
   岸の黄土(はにふ)に にほひて行かな 」
                     巻6-932 車持千年(くるまもちのちとせ)


( 素晴らしい景色で去りがたいなぁ。
 せめて、白波が幾重にも寄せる住吉の岸の黄土に衣を染めて
 この地の記念といたしましょう。)

725年、聖武天皇難波行幸の折、お供した作者が住吉を去るに当たって詠ったもの。
昔、この地で衣を染めるための黄土を大量に採掘していたことが窺われます。

「岸」は原文で「崖」という字が当てられているものがあり「岸の黄土」は
「崖の台地から採れる黄土」という意味のようですが、その黄土に
わざわざ「にほひて行く」(染めて行く)とはどういうことでしょうか?

実は、当時の住吉は唐津、博多と共に文化のレベルが高い港町で遊女も大勢いました。
男たちは競って麗人に会いたがっていたのです。
「住吉の黄土」を「美しい女性」と解すれば、都の官人たちが大いに羽を
伸ばしたがったのも肯けようというものです。

なお、「住吉の黄土」は砂と粘土との中間の細かさを有する土、即ち「シルト」で
微細に砕いた粉末を浸し染めにした絹は絢爛たる黄金色になるそうです。
( 金子 晋著 古代の色 学生社) 

「 暇(いとま)あらば 拾ひに行かむ 住吉の
   岸に寄るといふ  恋忘れ貝 」   
                           巻7-1147 作者未詳


( 暇があったら拾いに行きたいものだ。
 住吉の岸に打ち寄せられるという恋忘れの貝を)

作者は、ならぬ恋をしてしまったのでしょうか?
恋忘れ貝とは片貝と思われます。
すなわち閉じることが出来ない片想いです。

「住吉の 粉浜(こはま)のしじみ 開けもみず
    隠(こも)りてのみや 恋ひわたりなむ 」  
                                 巻6-997 作者未詳(既出)


( 住吉の粉浜のシジミは蓋を閉じたままじっと籠ってばかりいます。
私も自分の想いを誰にも打ち明けないまま胸に秘めてあの方をこれからも
ずっと想い続けることになるのでしょうか。 )

粉浜:大阪市帝塚山の西 

この歌は734年聖武天皇が難波宮に行幸された時、休みのひとときに御供の人が
詠ったものです。
当時の難波宮近くは粉のような美しい砂をもつ浜辺で、そこで採れるシジミの旨さは
都まで広く知れ渡っていました。
住吉の景勝の美しさ、名産のシジミを褒めると共に自身の恋の苦しみを重ね合わせたものですが、
恋と蜆を取り合わせた歌は珍しく万葉集にはこの一首しか見られません。                             

「 悔(くや)しくも 満ちぬる潮(しほ)か 住吉(すみのえ)の
     岸の浦みゆ 行かましものを 」 
                          巻7-1144 作者未詳


( あぁ残念 潮が満ちてしまった。
 この住吉の岸辺を浦伝いに歩いて行きたかったのに )

美しい砂浜を歩きたかったのに、いつの間にか満潮になってしまった。
あぁ、残念! 

現在は埋め立てられ満潮どころか海も見えません。
時代の流れとはいえ地名だけで40首も詠われた住吉。
住吉大社の反橋とその近辺に昔の面影をかすかに残すのみです。

「 住吉の 男声なる 田植歌」  小柳津民子

    住吉の神様は歌の神、田植えの神としても知られる 
     御田植神事は6月14日。
[PR]

by uqrx74fd | 2014-08-21 22:28 | 生活

<< 万葉集その四百九十一 (夢のわだ)    万葉集その四百八十九 (檜扇:... >>