万葉集その五百 (遣唐使と鑑真)

( 遣唐使船 山の辺の道出発点 海柘榴市(つばいち)の川のほとりで 奈良、桜井市)
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( 遣唐使の航路  同上 画面をクリックすると拡大出来ます )
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( 万葉の遣唐使船  高木隆著  教育出版センター刊 )
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( 復元された遣唐使船  ウイキペディアより )
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( 唐招提寺  奈良市 )
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( 鑑真和上像  唐招提寺 )
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( 御影堂(みえいどう)の襖絵 山雲涛声 東山魁夷画伯  唐招提寺 )
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( 同上  揚州薫風 黄山暁雲 )
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( 東大寺戒壇堂 )
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( 遣唐使船切手 )
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遣唐使は630年、舒明天皇の時代に始まり894年菅原道真の建議によって
廃止されるまで264年間の間に16回派遣されています。(回数については諸説あり)
推古天皇600年に始まった遣隋使を引き継ぐもので、当初は船2艘、乗員240~320人の
編成とされましたが奈良時代に入ると船4艘、最大600人近くの規模に膨れ上がり
費用も莫大なものになったようです。

また、長安への道は遠く、海路から陸路へと続く中で暴風雨や疫病による死者も頻出し
生還率50%以下という多大な犠牲を伴う命懸けの旅でもありました。
それでも派遣を続けたのは高度の文明や先進技術並びに仏教の経典、文物等の収集が
我国の発展に大きく寄与すると期待されたからです。

派遣された人材は将来国を背負う優秀な者たちが選ばれ、多くの学問や技術を
身に付けて帰国した人達は建国の礎となって多大な貢献をしました。
また、もたらされた制度や文化を盲目的に採り入れるのではなく、国情に応じて
取捨選択し、我国独特の文化、精神に適合できるものを作り上げる工夫もなされています。

留学生の中では僧旻(そうみん)、高向玄理(たかむこのげんり)、山上憶良、吉備真備、
南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、玄昉(げんぼう)、さらに遣唐使人と共に
来日した鑑真などは教科書でも採りあげられ良く知られていますが、歴史に残らない
多くの留学生の活躍も大なるものがあったことは言うまでもありません。

万葉集でも遣唐使に関する歌が多く残されていますが、ここでは752年に
第10次遣唐大使として派遣された藤原清河の波乱万丈の生涯を辿ってみたいと思います。
主人公、清河は藤原房前の第4子で光明皇太后の甥、孝謙天皇の従兄という血筋、
将来を嘱目されていた俊英です。
まずは、遣唐使出発に先立ち旅の無事を祈って皇太后が主催された神祭りの時の歌です。

「 大船(おほぶね)に 真楫(まかじ) しじ貫き この我子(あこ)を
      唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち 」 
                              巻19-4240  光明皇太后

( 大船の舷(ふなばた)の 右にも左にも櫂をたくさん取りつけてやり
 いとしいこの子たちを唐国へ遣わします。
 どうか守らせたまへ、神たちよ )

皇后自身の手で「立派な楫をたくさん取り付けますから我が子を守らせ給え」、と
清河への深い愛情が籠る力強い歌です。
当時の旅の困難さを考えるとその願いも切実なものであったことでしょう。

「大船に真楫(まかじ)しじ貫き」とは官船での航海の出で立ちをいう慣用句で
「大船の舷(ふなばた)に櫂をたくさん取りつけて」の意

それに対して清河は次のような歌を返します。

「 春日野に 斎(いつ)く みもろの 梅の花
     さきて あり待て 帰り来るまで 」 
                           巻19-4241 藤原清河

( 春日野にお祭りしている みもろの梅の花よ
 このまま咲き栄えてずっと守っていて下さい。
 私が帰ってくるその時まで )

「斎(いつ)く」: 神を祀るために盛り土をして祭壇を置くこと。
「みもろ」は: 木を植えて神を招きおろす場所で藤原氏の守護神、春日大社の前身。

皇后、藤原一族の繁栄を祈ったもので梅の花は皇后を暗示しており、
「さきて(咲きて)」 は 「 栄えて」の意を掛けています。

さらに、孝謙天皇は大使が出航するにあたって無事任務を果たして帰還することを願い
歌と酒肴を携えた使者を難波に遣わされました。

「そらみつ 大和の国は 
 水の上は 地(つち) 行くごとく
 船の上は 床(とこ)に 居るごと
 大神の 斎(いは)へる国ぞ

 船の舳(へ)並べ 平けく 早渡り来て
 返り言(ごと)  奏(まを)さむ日に 
 相飲まむ酒(き)ぞ  この豊神酒(とよみき)は 」 
                          巻19-4264 孝謙天皇(既出)

(  神威あまねく 大和の国
   水の上は 地上を行く如く
   船の上は 床にいる如く
   大神が慎み守りたまう国である

  そなたたちの 四つの船 
  その船は 舳先を並べ つつがなく早く唐国に渡り
  すぐ帰ってきて 復命を奏上するように祈る。
  この霊妙な美酒は
  その日に また共に飲むための酒であるぞ )

「そらみつ」は大和の国の枕詞。
「 神が見下ろした神威あまねく聖なる大和」の意で日本書紀の 
「 ニギハヤノミコが天の磐船に乗って空から大和を見納め、
「虚空見日本国」(そらみつやまとのくに) 」と云われたことによるそうです。

この歌は宣命形式となっています。
宣命とは天皇の命令を漢字で和文形式に書かれたものを言い、
使者、高麗福信(こまの ふくしん)に口頭で読みあげさせ次の反歌が添えられています。

反歌

「 四つの船 早帰り来(こ)と  白香(しらか)付く
    我が裳の裾に 斎ひて待たむ 」      
                         巻19-4265 同上

( 四つの船よ すぐ帰って来いと 白香付くこの我が裳の裾に
  祈りをこめて無事の帰りをお待ちしているぞ )

白香は祭祀用の純白な幣帛(へいはく)の一種。
女性の裳の裾には呪力があるとされていました。
切に無事を祈る気持ちと共に、大なる期待をこめた歌です。

このように多くの人に祝福されて無事唐に到着した清河は容姿端麗、礼儀正しく
その優雅な振る舞いは唐の玄宗にいたく愛されたそうです。
2年間の滞在を経て任務を終え、753年、先任の阿倍仲麻呂と共に帰路につきますが
運命の神は清河に過酷な試練を与えられ人生が反転します。
航海の途中暴風雨に遭い、何と! 安南(ベトナム)まで流されてしまったのです。
必死の思いでようやく陸地に辿りついたものの乗員はすべて原住民に殺害され、
無事逃げおおせたのは清河一人のみ。
艱難の末2年掛かりで再び長安に辿りつきます。

一時は死亡したとの情報を受けていた大和朝廷の首脳は痛く心痛し、759年に
迎えの船を送りますが、折悪く安禄山の乱に遭い唐の国内が戦火で混乱していたため
またもや帰国はかないません。
遂に唐土で骨を埋める決心した清河は玄宗に仕え、現地の女性と結婚して
喜娘(きじょう)という娘をもうけ、73歳で生涯を終えました。

まさに波乱万丈の人生でしたが、その後、娘は父の故郷に帰ることを熱望し、
15歳の時、遣唐使と共に帰国するも、これまた暴風雨で難破、命からがら天草へ
流れ着いたとのことです。
そして、無事念願の都に到着したようですが、その後の生涯は不明。
恐らく藤原一族に引き取られたものと思われます。

「 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
   三笠の山に いでし月かも 」   阿倍仲麻呂 古今和歌集

( 大空はるかに振り仰いで見ると月が皓々と照っている。
  その昔、春日の三笠の山に出た月と同じ月が )

「天の原」 広大な天空 
「ふりさけみれば」 はるかに みはるかすと

717年吉備真備、玄昉と共に入唐した仲麻呂も玄宗皇帝に仕えたのち
藤原清河と同時に帰国しますが途中で暴風雨に遭い難破、已む無く長安に戻り
在唐54年でかの地に没するという清河と同じ運命を辿りました。

遥か離れた唐で見る月。
「私が奈良を出発した時に春日の三笠山で振り仰いだ月もこのように美しかった」
と切なる望郷の想いに駆られた1首です。

 「 鑑真の 寺に来ている 夏つばめ 」   西畠 匙(さじ)

6世紀の初めに伝来した仏教は、奈良時代、国家鎮護のための学問として
大なる発展を遂げましたが、2世紀を経た後も僧尼を正式に認定する受戒者が
存在せず、その確保が急務とされていました。
受戒とは師3名と7人の証明師からなる「3師7証」とよばれる試験と資格認定の儀式で、
古代東アジアでは受戒の手続きを経た人しか正式な僧と認められなかったのです。
そのため日本で僧と認定されていても唐では正式な僧と認められず、学識を
得ようとしても色々な不都合が生じていました。

加えて我国では8世紀初めに公地公民制が崩れ、重税に耐えられない農民が安易に
出家したため僧尼が急増します。
納税や兵役を免除されていたため仏門は駆け込み寺となってしまったのです。

仏教者としての基本的な生活作法を身に付けていない僧尼の増大は
堕落した目にあまる行為を頻出させ大きな社会問題となります。

そのような背景から733年、国は僧の人員を制限する必要に迫られ、
興福寺の栄叡(ようえい)と大安寺の普照を唐に派遣し受戒師を招聘することにしました。
両僧は唐で戒を受けたのち中国各地に律師を求めて歩き、入唐以来実に9年後の742年
遂に揚州、大明寺で高僧、鑑真に出会います。

二人の僧の懇請と熱意に渡航を決意した鑑真。
然しながら唐国は貴重な人材の流失を惜しみ許可しません。
それでも鑑真の布教の決意は固く遂に密航。
何度も航海を試みるも難破に見舞われ遂に63歳で失明。
にもかかわらず、強固な意志は揺るがず藤原清河が帰京する4隻のうちの1つに乗船し
遂に754年奈良の都に辿りつくことが出来ました。
初出航以来、実に12年目、6度の試みの末の筆舌に尽くしがたい苦難の道でありました。

鑑真和上は受戒に十分な14人の僧、3人の尼に加えて様々な技能を持つ者
24名を一緒に引き連れてきました。
寺院建築、仏師、室内装飾品、画師などもいなければ寺は成り立たないのです。

入京後、東大寺に住み、聖武太上天皇,光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け
初めて大仏殿の西に常設の戒壇院を作り、日本の受戒制度を確立したのち
新田部親王(にいたべのみこ)の旧宅を賜って寺とし、唐招提寺と名付けて
戒律の道場としました。
日本という国は、国家宗教制度の根幹にかかわる僧侶資格に欠かせない受戒と云う
制度を鑑真という一人の僧にすべてを委ね、和上もそれに応えて制度を確立すると共に
豪華絢爛たる仏教文化の華を咲かせてくれました。

今日、鑑真和上の像の前に立つと、穏やかな顔の内に何物にもゆるがない鋼鉄のような
強い意思が込められているように感じられます。
唐国内に留まりさえしておれば名僧として遇され、国家と人々の手厚い敬慕の中で
何の不安もなく一生涯を終えることが出来たのにもかかわらず、
「空しく過ぐるなし」の言葉通り、あえて死以上の悲惨な運命を選んだ和上。
その高邁な使命感と高潔な人格にただただ頭を垂れるばかりです。

  「 若葉して 御目の雫 ぬぐはばや 」 芭蕉

                              ( 雫(しづく) は涙の意)
唐招提寺を訪れた芭蕉が 「盲(し)ひさせ給う鑑真和尚の尊像を拝して」
辛苦の歴史に思いをいたし奉げた句。
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by uqrx74fd | 2014-10-31 06:34 | 生活

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