万葉集その五百二 「熟田津(にぎたづ)の船乗り」

( 額田女王  井上靖  新潮文庫  挿絵 上村松篁 )
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( 古代の船  国立歴史民俗博物館の暖簾 )
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(  同上 )
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 熟田津 堀江湾 後方 興居島(こごしま)  愛媛県松山市
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( 道後温泉    同上 )
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  額田王  熟田津  小山 硬(かたし)  奈良県立万葉文化館蔵 
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 祈り  石川 義(ただし)  同上 
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(  月と海  yahoo画像検索 )
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661年正月6日のことです。
長年親交があった百済が唐、新羅の連合軍に首都を占領され我国に援軍を求めてきました。
大和朝廷はその要請に応じ、68歳の斉明女帝を総帥とする士官、兵士,水主を含む
乗員総数27000人といわれる空前の規模の軍隊とそれを運ぶ400隻の船を
難波津から出航させます。

まさに国を挙げての戦い。
中大兄皇子をはじめ実弟大海人皇子、さらに後宮の女性も引き連れての旅は
さながら朝廷が移動した感があります。

筑紫に向かう途中の1月14日、一行は伊予の熟田津(現在の道後温泉あたり)に
到着し約2カ月余り滞在しました。
老齢の女帝の疲れを癒し、大海人皇子の妃、大田皇女が船上で大伯皇女を
出産したことによる療養、さらに不足していた兵士、水主を募集し船団を整えるなどに
時間を費やしたようです。

温泉でゆっくり英気を養っている間に万端の準備が整い、いよいよ出軍。
全軍勢揃いの中、額田王が天皇の意を汲んで詠います。

「 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば
    潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 」   1-8 額田王 

( 熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいた通り
 月も出、潮の流れも丁度良い具合になった。
 さぁ、今こそ漕ぎ出そうぞ )

月光のもと、波風に黒髪を靡かせながら朗々と詠いあげる額田王。
威厳と力強さ、そして気品あふれる万葉屈指の名歌です。

数々の賛辞が呈されていますが、代表的なものを列挙してみます。
まずは直木孝次郎氏の簡易にして的確な評からです。

『 港の奥深く、帆に風をはらませて粛然と控えている多くの軍船。
「熟田津に船乗りせむと」と情景の描写にはじまり、
「月待てば」と星のきらめく空を仰ぐ。 
そこで一転して「潮もかなひぬ」と視線を足元の海に移し、
最後は斉明をはじめ乗り組みの人々に向かって「いまは漕ぎいでな」と詠いおさめる。
起、承、転、結の骨法にかなった見事な構成である。
空から海への転換がすばらしく、歌の格と幅を大きくしている 』
                            (額田王:吉川弘文館より)

伊藤博氏 (万葉集釋注 集英社文庫)

『 船出の刹那を待ち続け、ついにその時を得た宮廷集団の心のはずみの上に
  発せられたこの歌には、息をのんで勢揃いをする宮廷集団を一声のもとに
  動かす王者の貫録がみなぎっている。
  人々は、これを天皇の声と聞いたであろう 』

下田 忠 氏  (瀬戸内の万葉,桜楓社)

『 結句の「今は漕ぎ出でな」の「な」という強い勧誘の意が、全軍に向かって
 呼びかけるような大きな語気をもち、待ちに待って遂に出航の時を迎えた時に
 発した強い声調に、堂々たる風格が感じられる。
 東方には満月、月光にきらめく満潮の海原には黒々とした大船団。
 その出航の様は言語に絶する壮観だったであろう.』

変わったところでは折口信夫氏の説

『 船乗りと言うのは、何も実際の出航ではありません。
  船御遊(ふなぎょいう)というといってよいでしょうが、
 宮廷の聖なる行事の一つで船を水に浮かべて行われる神事なのです。- -
 女帝陛下には聖なる淡水、海水を求めての行幸がたびたび行われていたのです。』
                 
( この説については土屋文明、山本健吉、池田弥三郎、多田一臣が賛意を示しているが
  現在では受け入れられていない )

さて、このように高い評価を得ている歌ですが、思わぬところで論争が起きます。
潮の干潮は1日に2度あり、潮流の方向も2度変わる。
それなのに何故昼間の満潮と潮流の西への流れのときに出航しないのか?
という議論です。

梅原 猛氏は次のように述べています。

『 漁夫といえども夜の海は避ける。漁夫は朝、海へ行き、夜、海から帰る。
  船の旅も同じである。
  海の旅はもちろん昼、夜は港に泊まって船は休むのである。
  遠洋航路以外の旅は最近までそうであり、ディーゼル機関を備えた今でさえそうである。
  まして昔、光のない暗い夜に、何を好んで航海に出るのか 』
                                  ( さまよえる歌集 集英社 )

『 昔の航海に夜船は絶対不可能 』  ( 金子元臣 万葉集評釈)

『 古代の船は船底が扁平だったので、潮が引くとそのまま千潟の上に固定される。
 出発は月が出て潮が満ちて来るまで、つまり、船が浮上するまで不可能だった。』
                                  ( 日本古典文学全集 万葉集 小学館)
その他

『古代の人間の活動するのは昼間、夜は神の世界で魑魅魍魎が活動するので
恐れられていた。従って夜の航海は不可能 』 などの意見があります。

それに対して直木孝次郎は下記のように述べておられます。(夜の船出,塙書房要約)

『 「S・H・ブチャー著 ギリシヤ文明の特質」にギリシャの多島海(エーゲ海)では
  海の微風は毎朝10時におこり、日没におよんで凪ぎ、午後11時頃に陸から微風がおこる
  「オディッセイア」のなかには、この陸風を利用した夜の船出の話がある
  と記されていた。
  エーゲ海で陸風海風が交替して吹くなら瀬戸内海でもそうかもしれないと思って、
  それからは夜吹く風の方向を注意するようになり、どうやら夜は陸風が海の方向に
  吹くらしいことに気が付いた。

  夜の船出のすべてが多島海の夜の陸風によるのではないが、帆を使用するように
  なってから船人にとって大事なのは風で、風向きさえよければ夜を恐れず船出する。
  わが瀬戸内海の船人が、夜の陸風を利用しなかったとは思われない。
  清らかな陸風を帆いっぱい受けた船が、つぎつぎにしずしずと港を乗り出してゆく
  光景を、わたしは思い描くのである。 』

更に益田勝美氏は詳細な科学データーで直木論文の裏付けします。

 『 直木さんが注目した海陸風というのは、昼間は海から陸へ向けて風(海風)が吹き
   夜はそれと逆に陸から海へ風(陸風)という特殊地形の局地風のことです。
   日本気候環境図表によると冬季、日中に三津浜で帆を上げて出航し西進しようと
   しても季節風というべき西北西か西風が吹いていて、まともでは船は吹き戻されてしまうでしょう。

   出港地三津浜とその前面の興居島(ごごしま)の間には、この陸風という特別な風があり
   夜になると海に向けて吹きます。
   この海域の潮流、気象を知悉していた古代の海人部にとっては、いまさらという
   ほかない知識だったかもしれません。
   但し、この風は季節風なので正月から3月までの時期を限定して直木説を支持したい。
   さらに、興居島の線に出ると、そこまでの追い風航法から、この季節の
   西北風か西風を用いて横風帆走法に転じて進むのがよいでしょう。』
                                 (「記紀歌謡」ちくま学芸文庫)

多くの議論がなされた夜の船出。
現在では直木、益田説が主流となりました。
それにしてもこの歌1首のために分量にして数冊にも及ぶ研究がなされていることに
ただただ驚くばかりです。

     「 道後の湯 浸りて偲ぶ 額田王 」 筆者

ご参考1.

「 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば --」 の歌に下記のような
  注記があります。

『 山上憶良の「類聚歌林」によると、
  舒明天皇の9年12月、天皇と皇后(斉明)は伊予の温泉の離宮に行幸されたことがある。
  天皇崩御後、天皇に即位された斉明は時を経て新羅遠征の為海路西へ出発、
  伊予の熟田津の石湯(いわゆ)の離宮に停泊した。
  女帝は往時夫、舒明天皇と共に見た風物がまだ残っているのをご覧になり
  たちまち懐旧の思いにうたれ、御歌を詠んで哀傷(かなしみ)を新たにされた。
  つまり、この歌は斉明天皇の御製である。
  額田王の歌は別に4首ある。』

  然しながらこの歌はどう読んでも哀傷(かなしみ)を詠ったものとはいえません。
  山上憶良が指摘している天皇が詠まれた歌は別にあり消失したのではないか? 
  と考えられており、作者が斉明天皇であるという説は現在少数派となっています。

ご参考2. 

熟田津とはどこか

 松山市三津湊、松山北部の和気の浜、堀江など諸説あります。
 昔は海が今日よりずっと内陸まで続いていたと考えられており、
 道後に近い堀江説が有力です。

                            以上















                            
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by uqrx74fd | 2014-11-14 07:10 | 生活

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