万葉集その五百三 (晩年の額田王)

( 明日香の春の額田王  安田靭彦画伯  ) 
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(  額田王  平山郁夫画伯 )
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( 額田王   上村松篁画伯 )
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( 粟原寺跡:おうばらでらあと 額田王終焉の地か?   奈良県桜井市 )
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( 同上  画面をクリックすると拡大出来ます ) 
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( 同上  いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉の 御井の上より鳴き渡りゆく 弓削皇子
       いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我が思へるごと 額田王) 
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(  同上 )
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( 額田王の念持仏か?  石位寺 奈良県桜井市  朝日新聞2013,10,10 )
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万葉女流歌人の中で圧倒的な人気を誇る額田王(ぬかだのおほきみ)。
1300年を経た今も多くの人を引きつける魅力の秘密は何なのでしょうか。

彼女の生涯について文献に残る記録は極めて少なく、日本書記の
 「 額田王の出自は鏡王という人物の娘であり姫王とよばれる身分であった。 
その経歴は、初めて天武に娶られて十市皇女を生んだ。」という記述と
額田王作とされる歌12首のみです。( 長歌3首 短歌10首うち1首重複)

父親の「鏡王」とはいかなる人物か? 母親は? 生没年は? 容姿は? 
すべて謎。
残された歌や添え書きから読み取ることができるのは

1、天智、天武天皇に寵愛されるほど魅力のある女性であった。
2、詠まれた歌はスケールが大きく、色彩感、表現の彩りが豊かであり、
  一種の神秘性が感じられる。
3、斉明、天智、天武に近侍し、天皇の御心を歌にして伝える、御言持ちの役割を
  果たしていた。
4、天武と娘まで生(な)したのに、のち天智の後宮に入った。
5、壬申の乱後、天智の子、大友皇子(戦死)の后となっていた娘十市皇女と共に
  天武天皇の下で静かに余生を過ごし歌の世界からも離れていた。
6、娘十市皇女に先立たれたが、孫、葛野王は健やかに成長した。
7、63~64歳の時に最後となる歌2首を詠い、その後生涯を終えた?

などでしょうか。

678年、余生を静かに過ごしていた額田王のもとに歌が届けられました。
贈り人は持統天皇吉野御幸にお供していた弓削皇子(ゆげのみこ)です。
( 天武天皇第6皇子、当時24歳 )

「 いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の
     御井(みい)の上より 鳴き渡りゆく」 
                  巻2-111 弓削皇子 (既出)

  ( 古(いにしへ)を恋い慕う鳥でしょうか。
        目の前の鳥が弓絃葉茂る泉の上を今、あなたさまの方に向かって
        鳴き渡っていきましたよ )

調べ美しく格調高い名歌です。
「御井」は 聖なる泉

弓削は天武と大江皇女との間に生まれた皇子。
持統天皇が自分の血筋(天武―草壁皇子―文武)に執着し、他の諸皇子に厳しくあたる
治世下にあって、人一倍不安と哀愁を感じて生きなければならない運命でした。

彼は天武在世中、天皇が額田王と共に吉野を訪れ、しばしば遊宴を催した当時を
懐かしみ、また歌に弓絃葉を詠みこむことにより時代の移り変わり、新旧交代する
自然のあり方に感慨を示したものと思われます。
従ってこの歌の「いにしえ」とは皇子の父である天武天皇と若き額田王との
恋愛関係を指しています。

ちなみに「ゆずりは」は古代「弓絃葉(ゆづるは)」とよばれたトウダイグサ科の常緑高木で、
春に出た新葉が成長すると前の葉がいっせいに落ち、新旧交代の特色が際立つので
「代を譲る」意で「譲葉(ゆずりは)」の名があります。

額田王は孫のように甘える弓削皇子に対して温かく、いとおしむような歌を返します。

「 いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
     けだしや鳴きし 我(あ)が思(も)へるごと」  
                     巻2-112 額田王 (既出)

  ( 皇子がお聞きになった鳥の声は恐らくホトトギスだと思います。
    丁度昔をしのんでいた私、同じ気持ちでホトトギスも鳴いたのでしょう )

ホトトギスには昔をしのんで鳴くという中国の故事があり、弓削皇子の気持ちを
理解したことを伝えるとともに、第三者に誤解されないよう、十分に配慮が
なされている返歌です。
弓削皇子が現世を悲観し天武帝華やかなりし頃を懐かんでいると持統天皇の
耳に入ったらと為にならないと用心に用心を重ねたのでしょう。

弓削は歌に添えて苔生した松の枝を切り取って贈っていたので
王はさらに一首、お礼の歌を詠みました。

「 み吉野の 玉松が枝は はしきかも
   君が御言(みこと)を  持ちて通(かよ)はく 」 
                           巻2-113 額田王

 ( み吉野の玉松の枝は まぁなんといとしいこと。
      あなたのお言葉を持って通ってくるとは )

「玉松」は松の美称、「はしきかも」は「愛しきかも」で いとおしい。

玉松が枝を弓削の皇子にみたて、孫のように愛おしんだ気持ちを表しています。
しばらく歌の世界から遠ざかっていたにもかかわらず、その力量は衰えず
流石と感心させられる二首の歌です。

そして、残念ながらこの歌を以て額田王は万葉から姿を消すことになります。
まことに余韻を持った退場。
まだまだ詠って欲しかったのに!

伊藤博氏は
「 額田王は時に悲しみにくれることがあっても、晩年、悠然と心静かに
  日を送っていたのではなかろうか。
  それは,かっての時代、一世を代表する女流歌人であったことからの
  自信と満足に由来するのであろう」と述べておられます。 (万葉集釋注)

彼女は一体いつ、どこで生涯を終えたのでしょうか?

JR、近鉄桜井駅から「かぎろひの丘」で有名な大宇陀の方に向かい、舒明天皇陵、
鏡王女の墓を通り過ぎて約10㎞。
小高い丘の上に粟原寺跡(おうばらでらあと)があります。
神武天皇東征神話の地とも伝えられている由緒あるところです。

この寺には、
「中臣大島(なかとみのおおしま)という人物が草壁皇子(天武、持統の皇子)追悼のために建立を発願し、それを実行したのは比売額田(ひめ ぬかた)」
という記録が残ります。
それ故、この場所こそ額田王が晩年を過ごし、生涯を終えたと唱える人もおり、
弓削皇子と取り交わした歌の碑が立てられています。
また近くの石位寺(住職不在、仏像を保存する建物のみ)の仏像が額田王の
念持仏であったとも。

いずれも真偽のほどは定かではありませんが、人ひとりいない廃墟跡に立つと
往年の額田王の姿が目に浮かぶようです。

どのような顔をしていたのか?
眼を閉じると安田靭彦の「飛鳥の春」上村松篁、平山郁夫の「額田王」が
次々と目に浮かび、遠くから聞こえてくる会話は井上靖の「額田女王」の場面。
これらの方々が後世に与えた影響は大なるものがありますが、
一人で想像の翼を膨らませ、自分なりのイメージを頭に描くことも楽しいものです。

   「 天武天皇の一年六月 壬申の乱があった
        もちろん ぼくにはその朝の深さを知るすべはない
        だが近江の山野を進むあの兵馬の幻影を見なければ
        ぼくはきみに逢うことはなかっただろう
        その時
        きみは 髪にムラサキの花をさして立っていた  - - 」
                                  ( 秋谷豊 額田王より )

       「 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
                   野守は見ずや 君が袖振る 」 
                              巻1-20  額田王

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by uqrx74fd | 2014-11-21 07:18 | 生活

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