万葉集その五百十七 (人麻呂歌塚)

( 和邇下神社 奈良県櫟本市(いちのもとし) )
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( 同上本殿 )
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( 和邇下神社境内 この道の奥に柿本寺跡(しほんじあと)がある )
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( 柿本寺跡 )
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( 同上説明板  画面をクリックすると拡大出来ます)
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( 人麻呂歌塚 )
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( 人麻呂像 )
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( 巻向山 中央  山の辺の道で )
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数ある万葉歌人の中でもひときわ聳え立つ柿本人麻呂。
後に、歌の聖(ひじり)とよばれて人丸神社の祭神や柿本寺の本尊となり今や歌の世界に
無縁の人にも あまねく知られている存在です。
にもかかわらず、出自、生没は全く不明。
歴史上の記録はほとんど残らず、詠まれた数々の歌を通してのみ彼の生涯を
推察するしか術がありません。
多く専門家は言うに及ばず、歌人の斎藤茂吉も生涯をかけて「柿本人麻呂」(全5巻)と
いう大著を著わして人麻呂の終焉の地を鴨山(島根県)と断定し得た喜びを

「 人麻呂が ついのいのちを をわりたる
         鴨山をしも ここか定めむ 」      斉藤茂吉


と詠いましたが、それすら定説を得ておらず、研究文献は膨大なものになっています。

なぜこれほどの偉人の記録が残らなかったのか?
当時の定めで官人の足跡を正式な記録に残すのは身分が5位下以上となっており、
人麻呂の身分は低く、6位以下の下級官人であったためと推定されています。

官人にとって立身出世するには政治的手腕、官僚的事務的能力、家柄、上司の贔屓が
必要で歌はあくまで教養の一部。
歌のみに生きた人麻呂にとって出世は無縁の世界だったのでしょう。
彼の朝廷での主な役割は天皇、皇族に従事して歌を奉ることでしたが、それすら
宮廷歌人という身分が確立されていたわけではなく、地方勤務もしていたことも
歌から窺えます。

何処にいようと、ひたすら新しい境地を求め続けていた人麻呂。
歌人としての類い稀なる才能は持統天皇の時代に開花し、我国和歌史上最大の足跡を
残す不滅の存在となったのです。
残した歌は長歌19首、短歌75首。
それ以外に柿本人麻呂歌集に370首見られ、そのうち人麻呂作と指摘されているものも
多くあります。
天皇の近くにあって多くの賛歌、亡き人を偲ぶ挽歌などを声高らかに詠い上げた
人麻呂は個人の世界でも、独特の美しい世界を創造しており正に夢見る詩人とでも
言えましょうか。

「玉衣(たまきぬ)の さゐさゐしづみ 家の妹に
   物言はず来にて 思ひかねつも 」 
                          巻4-503 柿本人麻呂

( 玉衣のさわめきではないが 門出のざわめきが鎮まってみると
  家に残したあの子に何も言わないできたようだ。
  どうも、心残りでたまらない )

(さゐさゐ しづみ)  潮騒の騒の重複、旅立ちの物せわしいざわめきが鎮まって
(思ひかねつも)    思う心を抑えようにも抑えきれない

玉衣は衣の美称。
絹の衣がサラサラと音を立てている。
女性が着物を脱いだり着たりする姿を連想させる後朝の別れの場面です。
妻と一夜心ゆくまで過ごした後、慌ただしい出立。
長旅になるのでしょうか?
途中まで来て、「あぁ、優しい声の一つもかけてやらなんだ」と悔やむ作者。
濃厚な愛の営みを感じさせる一首です。


「 淡路の 野島の崎の 浜風に
     妹が結びし 紐吹き返す 」
                      巻 3-251 柿本人麻呂

( 淡路の野島の崎の浜風、
 その風が愛しい子が結んでくれた着物の紐をいたずらに吹きかえらせている )

別れの時に妻が安全を祈り、「私を偲ぶよすがに」と着物に結んでくれた紐。
風と紐のもつれの彼方に愛しい妻を幻視し、いつまでも立ち尽くしている。
公用で主人の伴をしながら瀬戸内海を旅している作者。
近くに妻がいない寂しさが籠っている一首です。

「 子らが手を 巻向山は常にあれど
    過ぎにし人に 行きまかめやも 」 
                       巻7-1268 柿本人麻呂歌集

( いとしい子の手を巻くという巻向山は昔と変わらずに聳えているけれども
 この世をあとにした人を訪れても、その手を枕にすることはもうできない。)

人麻呂の妻は巻向山麓に住んでいたようです。
山というぬくもりを感じさせる自然を用い、先立たれた侘びしさを
一層引き立てています。
窪田空穂は「 過ぎにし人に 行きまかめやも 」は人麻呂独自の表現で
他の人には真似出来ないものとされ、伊藤博氏は人麻呂作とみて誤まらないであろうと
確信されています。
亡き人を通して普遍的な人生の無常観を述べた歌です。

「 巻向の 山辺響(とよ)みて 行く水の
   水沫(みなわ)のごとし 世の人我れは 」 
                    巻7-1269 柿本人麻呂歌集

( 巻向の山辺を鳴り響かせて流れゆく川。
  その川面の水泡のようなものだ。 
  うつせみの世の中の人であるわれらは。)

前歌の山に対して「水」によせて人の世の無常観を述べた歌。
「世の人我れは」原文で「世人吾等者」となっており複数の人に
呼びかけたものと思われます。
この歌も人麻呂作と推定され、
「前の歌と共に深い無常の裏に常住への願いを秘めたもの」(伊藤博)で、
単なる妻を亡くした嘆きというよりは、人麻呂の深い人生の無常観を示したものと
いえましょうか。

  「 人麻呂の 墓は何処と 歌塚へ 」 筆者

JR奈良駅から桜井線で3つ目の駅、櫟本(いちのもと)で下車し約15分位歩くと、
和邇下神社 (わにしたじんじゃ) という式内社があります。
平安時代初期に編まれた延喜式人名帳(年中行事や制度を記載)に載せられ、
古代この地方一帯を支配していた和邇氏の始祖、天押帯巳子命
(あめの おしたらひこの みこと) を祀っている由緒ある社です。

柿本人麻呂は和邇氏から分岐した支族、柿本氏の出身と推定されていますが、
それを裏付けるかのように、神社の境内に氏寺とされた柿本寺(しほんじ)の跡が残り、
さらに人麻呂の墓?と伝えられる石碑が建てられています。

平安末期の歌人藤原清輔が墓標を立て、江戸時代の享保年間に再興し、
宝暦12年(1762年)、後西天皇の皇女、宝鏡尼の筆になる「歌塚」の文字を記した
大きな碑石です。
ここを訪れた鴨長明は
「 人麻呂の墓と言ひて尋ぬるに知れる人もなし」(無名抄)と述べていますが、
鎌倉前期には既に伝承の場所となっており、ここが人麻呂の墓かどうか、
神のみが知るようです。
石碑の横は児童公園になっており、幼い子が母親と砂遊びをしていました。

訪れる人もなし。
静寂な雰囲気の中で人麻呂の像が「ここだ、ここだよ」と私に示しているように
感じ、色々な文献を調べてみましたが残念ながら断定されたものは一冊もなく、
やはり伝承地とするほかありません。

   「 人麻呂の歌 
     しみじみ読めるとき
     汗となり
     春の日は 
     背(せな)をながるる 」
                   ( 若山牧水  みなかみ )

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by uqrx74fd | 2015-02-27 06:39 | 生活

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