万葉集その五百二十六 (藤原広嗣の恋桜)

( 藤原広嗣を祀る鏡神社  奈良市 新薬師寺の隣 )
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(  同上 )
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( この花の 一節(ひとよ)のうちに 百種(ももくさ)の
    言(こと)ぞ 隠(こも)れる おろほかにすな  藤原広嗣 )
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(  一枝の桜に恋歌を付けて捧げた  長谷寺 奈良 )
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( 大美和の杜  奈良山辺の道   )
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( 同上  後方 三輪山 )
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( 同上 )
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( 氷室神社  奈良 )
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( 新宿御苑  東京 )
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聖武天皇の時代、藤原不比等は娘、光明子を皇后に擁立することに成功して絶大な
権力を握りました。
朝廷の人事は思いのまま、息子の武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかひ)、麻呂の 
四兄弟をそれぞれ要職につけ、まさに我が世の春。

宇合(うまかひ)の長男、広嗣も今や皇后の甥、大和守として将来を嘱望され、
前途洋々たる人生を送るはずでした。

ところが人生有為転変、不比等亡きあと都で天然痘が流行し、何と!
藤原四兄弟全員が罹病し次々と死亡するという大厄災が勃発したのです。

この事件を受け、反藤原派の右大臣、橘諸兄が実権を握り、さらに唐から帰国した
吉備真備、僧 玄昉(げんぼう)が重きをなすようになると、藤原一族は衰退、
広嗣は太宰少弐として九州に転任させられます。

国防上重要な拠点とはいえ、花の都から遠く離れた鄙の地。
栄光を目の前にしていた広嗣の内心は忸怩たるものであったことでしょう。

万葉集に「藤原朝臣広嗣、桜花を娘子(をとめ)に贈る歌」と題され、
心憎からず思っていた娘に満開の桜の一枝を手折り、歌を添えて渡したという
粋な求愛の一幕があります。

「 この花の 一節(ひとよ)のうちに 百種(ももくさ)の
    言(こと)ぞ隠(こも)れる おろほかにすな 」
                               巻8-1456 藤原広嗣

( この桜の一枝の中には、わしの言いたいことが一杯詰まっている。
 だから、おろそかに取り扱ってはならんぞ )

作者の性格の一端が垣間見える万葉唯一の歌です。

「花の一枝をおろそかにしてはならんぞ」というのは
「 お前さんを想う気持ちがぎっしりと詰まっている。
  俺様の好意を無碍にしてはならんぞ 」と
風流を気取りながら、高飛車に出ています。

今まで熱心に口説いてきたが、相手はのらりくらり。
一向に靡かない。
とうとう痺れを切らして
「これでだめなら これまでか」と覚悟を決め遂に強権発動の様相。

それに対して相手の女性はやんわりと次のように返します。

「 この花の 一節(ひとよ)のうちは 百種(ももくさ)の
    言(こと)持ちかねて 折らえけらずや 」
                             巻8-1457 娘子(をとめ)

( そうおっしゃっても あまりにも沢山の言葉がこの花の一枝に込められているので
 支えきれなくなって、このように簡単に折れてしまったではありませんか。)

「 百種の言葉といっても私には信じられません。
私が花を受け取る前に折れてしまった(心変わりした)ではありませんか」
とからかっています。

お互い親しいもの同士。
言葉遊びを交えながらの恋歌の応酬ですが、娘は内心
「 うれしい! もう折れてもいいわ 」
と思っているのかもしれません。

素性不明ながら美貌と聡明さを連想させる女性です。

広嗣の歌から生まれつき権力者の家庭のもとで育った気位の高さ、
我がままなお坊ちゃん的な性格が見て取れますが、果たせるかな
九州に転任させられたことを左遷と感じ不満を募らせました。

格下と思っていた吉備真備、玄昉が重用されていることも気に入らない。
それが高じて
「 天地による厄災の元凶は二人に起因する。吉備真備、玄昉を排除せよ」
という激烈な上奏文を朝廷に送ります。

これは為政者、聖武天皇と橘諸兄に対する誹謗とも受け取れ、驚いた天皇は
広嗣を召喚する詔勅を出しましたが従いません。
それどころか、大宰府で1万余人の兵を集め反乱を起こしたのです。
世にいう「藤原広嗣の乱」です。(740年)

朝廷は大野東人(おおの あずまひと)を大将軍とする追討軍を派遣し、
2か月後に鎮圧、
広嗣は肥前松浦郡で捕えられ唐津で処刑。
あっけない幕切れとなります。

それから5年後の745年、玄昉が失脚し、筑紫観世音寺の別当に左遷され翌年没。
続いて750年吉備真備が肥前国司に左遷。

幼き頃より文武の才に秀で、管弦歌舞、天文陰陽に精(くわ)しく偉才とされた広嗣。
左遷されたとしても耐えて時期を待つということが出来たならば、謀反人という
汚名を着せられず栄光の道を歩むことが出来たかもしれません。
何しろ玄昉、吉備真備は10年を経ず失脚し、伯父、藤原武智麻呂の次男仲麻呂が
目覚ましい台頭を果たしたのですから。

司馬遼太郎は短編「朱盗」で次のように書いています。

『 「 大野東人が? 」 
  広嗣は、複雑な表情をした。
  東人といえば神亀元年、父藤原宇合(うまかい)に従って、東方の蝦夷を討って
  大功をたてた軍人なのである。
  その旧部下が、広嗣討伐の司令官になって西下するという。
  奇妙なことだが、広嗣はこのときになってはじめて戦意をもった。
  もたざるをえなかった。
  大宰府に全九州の軍団を集結せしめていた段階までは、広嗣の気持ちの中に
  多分に遊びがあったのだ。
  官符を乱発して兵を集め、蝟集(いしゅう)してくる頭かずをながめて自分の実力を
  たのしむのは、楽しい権力遊びだった。
  それに中央に対して甘えてもいた。
  まさか中央は、藤家(とうけ)の長男が軍兵(ぐんぴょう)を集めているとしても、
  反乱を起こすとまでは考えていまい。
  不穏の消息が聞こえれば、駄々をこねているとみて、奈良の官廷はなんらかの
  慰撫(いぶ)の手をうってくるだろう。
  そのときに自分の政治的要求を出せばよい。
  と考えていたのが、あてがはずれたのである.』
                                  (新潮文庫 果心居士の幻術 所収)

広嗣は自分の父親や伯父たちが,政敵「長屋王」を無実にもかかわらず謀反の噂を
立てさせ抹殺した事実を忘れていたのでしょうか?
藤原嫌いの橘諸兄にとって政敵を潰す千載一遇のチャンスだったのです。

肥前の国に左遷された真備は広嗣の祟りを恐れ、神功皇后を祀っていた
松浦鎮守府鏡神社に二の宮に造営し霊を鎮めようとしました。
また、広嗣の居宅があったとされる奈良の新薬師寺の西隣にも鏡神社が勧請されています。

新薬師寺を訪れる人は多いですが、隣接する鏡神社で広嗣を祀っていることを知る人は
少なく人影もほとんど見当りません。
神社の脇に1枚の板が立てかけられており、広嗣の恋歌が書かれていましたが、
なんとなく侘びしい風情でした。

「 桜散り 広嗣いずこ 鎮まりたまへ 」  筆者













 
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by uqrx74fd | 2015-05-01 00:00 | 生活

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