万葉集その五百三十一 (大津皇子 2)

( 大津皇子が眠る二上山  当麻寺から  奈良県 )
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( 磐余の池跡  現在は農地  藤原宮から徒歩15分 橿原市 )
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( 同上説明文  画面をクリックすると拡大できます )
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( 吉備の池  磐余の池から約600m 
          二上山が見えるので磐余の池に仮託されている  桜井市)
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( 大津皇子  水谷桑丘作 )
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( 大伯皇女   篠崎美保子作  )
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( 落日の二上山  甘樫の丘から撮影された案内プレート  山の辺の道 檜原神社近くで)
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(  同上  yahoo画像検索 )
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天智天皇崩御後の672年、壬申の乱が勃発しました。
天智天皇の実子大友皇子と天皇の弟大海人皇子、甥叔父の戦いです。
短期間で圧倒的な勝利をおさめた大海人皇子は近江から飛鳥浄御原に都を遷して即位(673年)。
天武天皇が誕生し、鸕野讃良皇女(うののささらひめみこ)が皇后に。

皇后は実子草壁を次期天皇にすべく強力に支えますが、皇子は生来体が弱い上
凡庸であったらしく周囲の大津皇子待望論が絶えません。
大津皇子は皇后の姉大田皇女と天武の間に生まれた子で持統の甥。
有能かつ剛毅な性格ゆえ、再び兄弟相争う第2の壬申の乱が起きるのでは
ないかという危惧もあります。
祖父天智天皇と母、大田皇女という大きな後ろ盾を失った大津が頼るべき人は
父、天武天皇のみ。
「万一の時は」という不安が頭をもたげたことでしょう。

679年天皇、皇后は草壁、大津、高市、河嶋(天智の皇子)、忍壁、芝基(天智の皇子)
を吉野離宮に引き連れ、兄弟仲良く助け合うよう仰せになり、草壁が全皇子を代表して
その旨に従うことを誓約しました。
そして、681年、皇后の強力な説得が功を奏し、天武天皇は遂に草壁を皇太子に
立てたのです。

朝廷内の主導は皇后と皇太子に移りましたが、制度を唐風に改めるなど
急激な改革を進めたため宮廷内に不満や批判が湧き起ります。
そこで天武は大津皇子21歳のとき政治に参画させ、軌道修正を図りましたが、
このことが大津皇子の悲劇を引き起こす遠因になります。
何しろ天武天皇の後楯があっての大津。
万一の時は皇后、皇太子の巻き返し必至という危険がはらむ人事です。

686年、天武崩御。
何を思ったのか、大津皇子は天皇が没して15日目の忌中の最中、秘かに
伊勢神宮斎王として神に仕えている姉大伯皇女(おおくのひめみこ) に会いに
行ったのです。
当時国家の守護神である伊勢神宮に勝手に参ることは厳禁されており、
これだけでも叛乱罪に問われても仕方がない重大な行動です。
死を覚悟の上で、最愛の姉に今生の別れを告げに行ったのでしょうか。
久しぶりの再会。
感無量で語りあかした姉弟は涙ながらに別れを告げます。

「 わが背子を 大和へ遣(や)ると さ夜更けて
    暁露(あかときつゆ)に 我が立ち濡れし 」
                       巻2-105 大伯皇女(おおくのひめみこ)


( わが弟を大和へ送り帰さなければならないと 夜も更け朝方まで
  立ちつくし暁の露にしとどに濡れてしまった。)

送り帰せば恐らく死が待っている。
しかし今のわが身は天皇の代理で斎王を務める立場。
神と天皇を裏切ることは出来ない。
肉親の愛を押し殺して苦悩にあえぐ大伯皇女。

それから約1週間あまりのち、大津が親友と頼んでいた川島皇子が朝廷に
「大津に反逆の畏れあり」と密告したのです。
朝廷側がそのように仕向けたのかもしれません。

密告を受けた持統は、「待ってました」とばかりに逮捕、何と!
その翌日に住み慣れた磐余の池の近くで処刑を命じます。
天武崩御後わずか24日後のことでした。

弱冠24歳でこの世を去らなければならなかった皇子。
文武両道に秀で、容姿すぐれ、慕われる人柄。
完全無欠と言ってもよいほどの人間であるが故に招いた悲劇です。

「 百(もも)伝ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を
    今日のみ見てや 雲隠りなむ 」
                           巻3-416 大津皇子


( あぁ この磐余の池に鳴く鴨の声を聞くのも今日かぎり。
  私は雲のかなたに去っていくのか )

「百伝ふ」は磐余の枕詞。

鴨は鴛鳥に代表されるように仲が良い象徴、
最愛の妃、山辺皇女を暗喩しているのかもしれません。
大津が処刑された時、妃は裸足で駆け寄り殉死したと伝えられています。

「 金烏(きんう) 西舎(せいしゃ)に 臨(て)らひ
  鼓声(こせい) 短命を催(うなが)す
  泉路(せんろ) 賓主(ひんしゅ)なし
  此の夕(ゆふべ) 家を離(さか)りて向かう 」  大津皇子


( 太陽は西に傾き家々を照らし
  短命を急がすように 夕刻を告げる太鼓の音が聞こえる
  黄泉の道には客も主人もなくただ一人
  夕べに家を離れて 死出の旅に出るのか )

歌、漢詩共すぐれた才能の持ち主であったことが窺われる悲痛きわまる絶唱です。

姉、大伯皇女は弟が反逆罪で処刑されたため斎王を解かれ都に戻りました。

「 見まく欲(ほ)り 我がする君も あらなくに
                  何しか来けむ 馬疲るるに 」 
                            巻2-164  大伯皇女


( 私が逢いたいと願う弟もいないのに、どうして大和などに帰ってきたのだろう。
 いたずらに馬が疲れるだけだったのに )

絶望感に打たれる皇女。
切々たる悲しみとやり場がない怒りが ひしひしと伝わって参ります。

「 うつそみの 人にある我(あ)れや 明日よりは
     二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我れ見む 」
                                   巻2-165 大伯皇女


( 現世の人であるこの私、
  私は明日からは二上山を弟としてずっと見続けよう)

687年 磐余の宮に営まれていた大津の殯宮(ひんぐう:もがりのみや)は
二上山山頂に移されて葬られました。
金剛、葛城山系に連なる山です。
朝廷が祟り(たたり)を恐れ、丁重に葬ったと想像されますが、後ろめたい
気持ちがあったのでしょうか。

それから15年後、二上山を見守り続けていた大伯皇女が他界(701年)。
享年41歳。生涯独身を通し、弟に生き、弟に殉じた一生でした。

伊藤博氏は心こもる言葉を二人に捧げています。(万葉集釋注1)

『 大津皇子はこの時まで姉大伯の中で生きていた。
  そして大伯が死んでも、六首の歌によって、大津は勿論大伯も永遠に
  生き続けることになった。
  六首に歌が存在する限り、二人は死ぬことがない。
  言語の力、文学の底力におののかずにはいられない 。
  人は、秋10月下旬か11月初旬、明日香東方の岡寺と大原をつなぐ山懐に
  佇んで、二上山の落日を見るがよい。
  そして、当面二首の歌を静かに吟(くちづさ)むがよい。
  涙が頬をとどめなく伝わる時、二上山は沈む夕日にくっきり押し出されながら
  大津と大伯の霊魂をのせたまま、ぐんぐんと近づいてくるに違いない 」

持統が執念を燃やして皇太子に押し上げた草壁は3年後の689年に没。
弱冠28歳の若さでした。

絶大な権力を誇った持統女帝。
唯一ままならなかったのは最愛の息子の命でした。

    「 茜空 裾まで染まる 二上山 」  筆者


ご参考 

  大伯皇女の歌は6首 すべて大津のために詠ったものです

「 わが背子を 大和へ遣(や)ると さ夜更けて
        暁露(あかときつゆ)に 我が立ち濡れし 」  2-105 

「ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を 
               いかにか君が ひとり越ゆらむ」  2-106

「神風の 伊勢の国にも あらましを
    何しか来けむ  君もあらなくに 」  2-163 
 
「 見まく欲(ほ)り 我がする君も あらなくに
                      何しか来けむ 馬疲るるに 」  2-164 
 
「 うつそみの 人にある我(あ)れや 明日よりは
     二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我れ見む 」 2-165 

「 磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど
        見すべき君が 在りと言はなくに 」    2-166
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by uqrx74fd | 2015-06-04 17:19 | 生活

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