万葉集その五百六十三 (鷹狩)

( 鷹狩の埴輪 鏡神社 奈良新薬師寺の隣)
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( 獲物を狙う鷹  浜離宮庭園 東京 )
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( 諏訪流放鷹術を披露する鷹匠の行進 浜離宮庭園 )
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( 動く鷹をなだめながら  同上 )
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( こちらの鷹は泰然自若  同上 )
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( 放鷹前の瞑想  同上 )
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( ますは師匠から  同上 )
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(  同上 )
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( 向こう側の鷹匠の腕を目指して水平に飛ぶ鷹  同上 )
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( 見事に腕に止まりました  広げた翼が美しい )
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( 美人鷹匠が目の前に来てくれ色々な質問に答えてくれました 鷹は微動だにしません) 
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( 同上 )
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( 同上 )
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 「 鷹舞うて 音なき後山 ただ聳ゆ 」 飯田蛇笏

鷹狩は放鷹(ほうよう)、鷹野(たかの)ともいわれ、飼い馴らしたイヌワシ、オオタカ、
ハイタカ、ハヤブサなどを放って、鳥類や兎、狐などを捕えさせる狩猟をいいます。

その歴史は古く、紀元前3000~2000年頃中央アジア、モンゴル高原に発祥したと
想定され、中國では紀元前680年、我国は鷹狩を表現した古墳時代の埴輪が
発掘されているので太古に渡来していたと思われますが、文献での記録は
仁徳天皇の時代(355年)、鷹を調教する鷹飼部(たかかいべ)が置かれたという
日本書記の記述が最古のものとされています。

鷹狩は広大な狩場、高度な飼育技術をもつ鷹匠が必要とされるので、
天皇、皇族、貴族、地方の豪族の権力の象徴とされていましたが、
時代の推移と共に武士達も鍛錬をかねて行うようになりました。

狩をするときは飛んでいる鷹の位置を知るために尾羽に小さな鈴をつけ、
獲物を見つけて飛び立つと「リンリンリンリンリーン」と涼やかな音が
空を渡ってゆきます。

「 都武賀野(つむがの)に 鈴が音(おと) 聞こゆ
     可牟思太(かむしだ)の 殿の中ちし 鳥猟(とがり)すらしも 」
                  巻14-3438  作者未詳

( 都武賀野(つむがの)で 鈴の音が響いているのが聞こえる。
 可牟思太(かむしだ)のお館の 次男坊様が鷹狩をなさっているらしい。) 

「都武賀野(つむがの)、可牟思太(かむしだ)」: 東国の一地方なるも所在不明。
「鈴が音」: 鷹の尾羽につけた小鈴の音 
        もともとは草むらの中の鷹の位置を知るために付けたもの
「殿」:    土地の豪族の立派な邸宅、 
「中ち」 :  次男坊  自由闊達、凛々しい若者を想像させる

この歌から地方豪族も鷹狩を楽しんでいたことが窺われ、鳥猟(とがり)と
云われていたようです。

何かの作業をしている娘のもとに涼やかな鈴の音が響いてきた。
「 あぁ、若殿が狩りをなさっている 」
颯爽と馬を駆けさせている姿を思い浮かべながらうっとりと聞き惚れている。
娘は以前、若様をどこかで見かけたのでしょうか。
ほのかな恋心を抱いているのかもしれません。

万葉集での鷹狩は7首、そのうち大伴家持が6首、時の越中国守は
大の鷹好きでした。
まずは家持の長歌の訳文から。

「- 秋ともなれば 萩の花が咲き匂う石瀬野(いはのせ)に
  馬を駆って出で立ち 
  あちらこちらに 鳥を追いたて
  獲物に向かって放つ鷹の 鈴の音もさわやかだ。 

  空のかなたを仰ぎ見ながら 
  悶々としていた心のうちを晴らして
  心嬉しく 思い思いしながら  
  その夜は枕をつけて寝る 

  妻屋の中に 止まり木を作って
  そこに大事にすえて 飼っている
  この真白斑(ましらふ)の鷹よ  」     
                               巻19-4154(一部) 大伴家持
訓み下し文 

  「 - 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野(いはせの)に 
     馬だき行きて 
     をちこちに  鳥踏み立て 
     白塗(しらぬり)の  小鈴もゆらに あはせ遣り
     振り放(さ)け見つつ 
     いきどほる  心のうちを 思ひ延べ
     嬉しびながら  枕付(まくらづ)く
     妻屋のうちに  鳥座(とぐら)結ひ
     据えてぞ我が飼ふ  真白斑(ましらふ)の鷹 」
                               巻19-4154(一部) 大伴家持
一行ずつ読み解いてゆきます。

 - 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野(いはせの)に 

        (石瀬野(いはのせ):高岡市庄川左岸石瀬(いしぜ)一帯)

  馬だき行きて 
             ( 馬の手綱を操って)

 をちこちに  鳥踏み立て 
            ( あちらこちらに 鳥を追い立てて )

 白塗(しらぬり)の  小鈴もゆらに あはせ遣り

         ( ゆらに:さわやかに 
           あはせ遣り:獲物をめがけて手に据えた鷹を飛びたたせて )

  振り放(さ)け見つつ 
              ( 大空の彼方を仰ぎみながら)

 いきどほる  心のうちを 思ひ延べ

              (胸につかえていた鬱屈を晴らし)

  嬉しびながら  枕付(まくらづ)く

             ( 心楽しく 枕をつけて寝る )

   妻屋のうちに  鳥座(とぐら)結ひ

            ( 寝室に 鳥を止まらせる台を作り )

  据えてぞ我が飼ふ  真白斑(ましらふ)の鷹 」

   ( 据えて飼う 尾羽に斑(まだら)が入った白鷹よ )

                               巻19-4154(一部) 大伴家持

反歌

 「 矢形尾(やかたを)の 真白の鷹を やどに据ゑ
     掻き撫で見つつ 飼はくしよしも )  
                           巻19-4155 大伴家持(既出)

( 矢のような形をした尾をもつ白い鷹を家の中で飼い、
     いつも優しくかき撫でて 大切にしている私の鷹。
     実に可愛いなぁ )

作者は心の中に鬱屈するものがあり、気晴らしに鷹を空中に放したところ
心が晴れたと詠っていますが、都から遠く離れた越中の地に単身赴任し
最愛の妻、坂上大嬢と長らく逢えなかったこと、大伴家に衰退の兆しが見え、
出世街道から外れてゆく寂しさなどが重なっていたのかも知れません。
それにしてもいささか異常と思われるくらいの鷹への執着ぶりです。

「 夢よりも 現(うつつ)の鷹ぞ 頼母(たのも)しき 」 芭蕉

天皇、貴族のものとされていた鷹狩は、戦国時代から近世にかけて武家の間で流行し
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、家光などが特に好み、慶長年間(1596~1615)には
鷹匠が116名もいたそうです。
1716年、8代吉宗の時代には江戸近郊594村という広大な地域を公儀の鷹場とし
慶応2年(1866)の廃止まで続きました。
徳川時代の鷹狩は民情視察、治安維持などの目的もあったようです。

現在一般公開されている浜離宮庭園はもと将軍家の御鷹場だったといわれ、
毎年正月2~3日、この地で「放鷹術」が公開されています。
技を披露されるのは信州諏訪大社ゆかりの諏訪流の方々。
江戸将軍家お抱え鷹匠の流れを継承し、宮内省鷹匠でもあった16代花見薫氏に
敬意を表して昭和初期の鷹匠衣装を正装とされているとのこと。

大観衆が見守る中、7人の鷹匠の紹介をかねて行進開始。
何と!若い女性が5人。
しかも美人揃いにはびっくり仰天しました!!
各々、手さばきも見事に鷹を放ち、鳩を捕えさせたり、高所から急降下させて
獲物を獲る術は、古の鷹狩を彷彿させ新春にふさわしい華やかな行事でありました。

   「 鷹据うる 人に逢ひけり 原の中 」 正岡子規
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by uqrx74fd | 2016-01-14 07:28 | 生活

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